歯医者さんと赤尾敏とリプトンティー

1980年代。僕が高校生から大学生の頃の話。
新橋にあるその「N歯科」が入居していたビルは年季の入った雑居ビルでした。
恐ろしく狭い階段を登っていった3Fにあったのです。

こんなところに「実に腕のいい歯医者さん(叔母談)」なんているのだろうかと思っていたら、本当に「いい歯医者」さんでした。
きちんと経過を説明してくれるし、今後の処置の流れをちゃんと説明してくれる。何よりも「痛くない」。
おまけに窮屈な待合室には近隣の大企業の社長っぽい人がたくさん座っているのです(あくまで高校生の主観です)。
「隠れた名医」という雰囲気が、消毒薬の匂いに混ざってプンプンしていました。
「いい歯医者」さんというのは、白亜の豪邸が診療所で豪奢な待合室があるものだという先入観を捨てられたことは、自分にとって貴重な経験だったと思います。

(現存するビル)

この歯医者さんに通うことで、自然と銀座界隈をブラブラするようになりました。
かといってブランド物を物色していたわけではありません。
博品館で玩具を物色し、山野楽器でCDを物色し、教文館で本を物色し、余裕があれば並木座で映画の2本立て(700円ぐらい)を観て帰るというのが主なコースでした。

そんな「アフターデンティスト」ルートの終点に数寄屋橋の交差点があったのです。

僕がウロウロしていた1980年代の数寄屋橋交差点には、ひとつの興味深い光景がありました。
宝くじ売り場の前あたりに巨大な街頭宣伝カーを横付けして、壇上でテンションの高い過激な演説をしているご老人がたのです。
このご老人こそ、大日本愛国党党首にして日本右翼の長老赤尾敏先生その人でした。

当時の僕は「赤尾敏」という人物に、現在ウィキペディアに書かれている程の知識は持ち合わせていませんでした。
だが「戦前より右翼の大物だった」とか、「終戦の勅語がラジオ放送される前日、日本政府から右翼を沈静化させるための裏工作金が手渡された」「どうも浅沼稲次郎の刺殺事件にかかわっていたらしい」などということを歴史好きの青年として知っていました。
元来僕という人間はノンポリティクスな人間ですが、そうした思想うんぬんを抜きにして彼を「歴史的上の人物」だと考えていたのです。

大学2年生ぐらいの頃だったと思います。
僕は歯医者さん帰りに数寄屋橋交差点にいました。「歴史的人物」である赤尾敏先生…..先生と呼ばないとどんなコメントが入るかわかりません……と話をしたいと思ったのです。
不思議なことに、それまでに何回も彼の演説を聞いているのですが、その内容がいまだに思い出せません。きっと赤尾先生の演説というのは、数寄屋橋付近の空気を構成するエレメントのひとつだったんだと思います。

(Youtubeの先生。そういえばこんな演説をしていたなぁと思い出す)

とにかく長い演説を終えて、宣伝カーの壇上から先生が降りてきました。
党員が用意した椅子に腰掛けた先生、党員が差し出したお茶椀にはいったお茶を飲みはじめました。
ちょうど僕は先生の左手横3mと離れていない距離に立っていました。

この時、僕は学校で「赤尾敏への話しかけ方」を習わなかったことを後悔していました。
いきなり怒鳴りつけられるんじゃないかと思いつつ、とんでもない話を切り出しました。

「よくお見かけしますが、何年ぐらいここで演説をされているんですか?」

今そこのあなた、笑いましたね。
では大日本愛国党党首の赤尾敏先生にどう話しかけたらいいというのでしょう。
「ご高説承り感動いたしました」などと切り出したら、今頃僕は街宣カーで軍歌を歌っている羽目になっているかもしれません。
「終戦の前日に鈴木内閣から裏金もらったって本当ですか?」などと言ったら「何でそれを知ってる!」とどこかに連れて行かれたかもしれません。

くだんの先生、僕の方をチラッと横見しました。
「何だ?この若造」という顔でした。
それでも僕の質問に丁寧に答えてくれました。
お茶碗を手にしながらも両手を膝の上に置いて威儀を正した先生は、僕の方を見ながらこう言ったのです。
「25年っ!」
その後、先生は何事もなかったかのように正面を向き、再びお茶を飲みだしました。その時の赤尾先生の目線というのが僕は未だに忘れられません。
そのまなざしは遠くを見ているというより、もっともっと遠くを、ずっと未来の方を見つめている目だったのです。

僕はその姿に威圧されました。
「ありがとうございました」というわけのわからないリアクションとともに頭を下げたのです。
それに対して赤尾先生がうなずいたかどうかは頭を下げているから確認していません。

ただそれだけの話です。

さて、またもや僕のいるバンド”C’dars”の話ですが、数ヶ月前にメンバーで飲んでいた際にこの話をしたところ、思いもかけぬ反応がかえってきました。
とーるさんが「俺も話したことがあるよ」というのです。
そのとーるさんの体験はもっと凄いものでした。
数寄屋橋の近くであるイベントの管理を行った際、くだんの赤尾先生から「うるさい」とクレームが入ったんだそうです。
そこで街宣車まで行って、赤尾先生にお詫びを入れたっていうんです。
「ひょえ~それは凄い!」とメンバーの誰もが驚きました。
そうしたらヨーさんの奥様が言いました。
「私は●●という会社(一部上場企業です)で受付をやっていたことがあるんですが、赤尾さんが何度か来ましたよ」
ここから先は書きませんが、奥様はその際に「驚くような」光景を目撃したそうです。

「赤尾敏体験」をした人が内輪に3人もいるということが、なんだかこのバンドの「ただならなさ」を露にしているような気がしてなりません(笑)。
そんなC’darsは10月24日(日)、杉田臨海緑地公園で開催される「磯子まつり 音楽&ダンスフェスタ」に14:40頃から出演します(宣伝)。
オリジナル新曲の「The Heart of 赤尾敏」をプレイします(嘘)。

(現在、赤尾先生が演説していた場所にはこのような記念のプレートがかかっている)

さてそんな数寄屋橋……いや銀座はバブル経済の絶頂期でした。
アルバイトの給料が入った僕は、当時の彼女と教文館の裏手(だったと思いますが今は移転したのかな?)にあったリプトンの喫茶店や三愛のトワイニングの喫茶店に行ったことがあります。紅茶が一杯1000円という喫茶店です。彼女に紅茶をご馳走するだけでアルバイトの時給(当時700円)が3時間分飛んでいってしまうわけです。いやスコーンもご馳走したから5時間分ぐらい飛んでいったかもしれません。学生の分際でとんでもない話ですが、それがバブル経済絶頂の時代だったわけです。空前の地価上昇の中で路線価格日本一と公示されたのは銀座鳩居堂前の土地。その公示の数日後に鳩居堂の社長さんが自殺した、なんて話もありました。

何もかもが混沌と入り交ざっていた時代だったと思います。

雑居ビルの名歯科医は今では自社ビルを建て、そこで診療されているようです。
赤尾敏先生は1990年に亡くなりました。
リプトンとトワイニングの紅茶は紅茶は今でも1杯1000円です。

★赤尾さんの記事としてはジャーナリストの岩上安身さんが書かれた「救国のキリストか銀座のドンキホーテか」が秀逸です。