ジョン・レノンの死を報じたニュース(1980年12月9日)

1980年12月9日の話。
中学校3年生だった僕が学校から帰ってきたのは、午後15時45分ぐらいだったろう。16時からの刑事ドラマ「大追跡」の再放送を欠かさずに見ていたのだ。むろんビデオデッキなどまだ我が家にはなかった。
テレビをつけてチャンネルを日テレにあわせ、冷蔵庫に行き牛乳をコップに入れ、ソファーに座ってテレビを見ていた。
15時50分からのニュースが始まった。
これから外出するのだろうか、お袋が隣の部屋で着替えながら僕に何かを話しかけてきた。
それに答えようとした瞬間、テレビのアナウンサーの「元ビートルズのジョンレノンが....」という言葉に反応した。当時ビートルズのことをテレビで放送するなど皆無に近かった。だからお袋が話しかけるのを制してテレビに見入った。
「....射殺されました」。

「ジョン・レノン」と「射殺」という二つのキーワード。
これが頭の中で結びつかなかった。
結びつかないまま、一瞬振り返ったときに見たお袋の着替え姿、テレビで何かをしゃべっているアナウンサー、マンションの窓から見える冬空、そんな断片的な映像が今でも頭の中に残っている。

我に帰ってチャンネルを回すが、16時からはどこもそんな報道はない。そこで僕は姉の部屋に行き、姉の「いいほうの」カセットテープレーコーダーを強奪し、それをラインでテレビのヘッドホン端子につないだ。そしてランダムにテレビのニュースを録音していった(映像はありません)。

録音したのはSONYの90分テープ。
音楽好きな叔父の「名犬」さんからもらったテープで「グレープ・かぐや姫」と書いてあるにもかかわらず、急激に聞く音楽が変化する年頃ゆえ、いつの間にやらラジオのエアチェック用に利用していた。名犬さんごめんなさい。そんなエアチェックした音楽の後に唐突にニュースを録音したのだけど、直前の曲がビートルズの「All You Need Is Love」だったというのは偶然すぎる。その前には日本のテクノバンドPlasticsの「Copy」が入っているというのは無茶苦茶すぎる。本当に揺れ動く「15の耳」だったんだなぁと思う。

当時の新聞記事の切り抜きや12月24日に日比谷野音で行われた「ジョン・レノン追悼集会」に友達と3人で行った際の写真とかもあったのはずだと探してみたけど、見つからなかった(年末の大掃除の際に探してみます)。とにかく高校受験を前にして1ヶ月ぐらい勉強が手につかない「15の冬」だった。

翌日、英語の授業でビートルズが好きだった麗しのミチコ先生が泣きながら思い出話をしてくれた。
「ビートルズが日本に来たとき、私はあなた方と同じ年齢でした。とても先生に行くのを反対されたまして。それで"英語の勉強になるからいいでしょ"と先生を説得して....何とかコンサートに行けたのが今でもいい思い出です」

「1980年12月」を僕の記憶の中で際立たせているのは、もちろんジョンの死が大きい。この先生の言葉も忘れられないし、ジョンの追悼集会に行って終電ギリギリまで常盤橋公園でギターを弾くお兄さんたちに混ざって彼の歌を合唱したという思い出もある。もちろん自分自身が15歳の誕生日を迎えたということもあったし、さらにいえば新聞の片隅にあった「イギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリンが解散宣言」という記事でさえも覚えている。
「あの時、何をしていたかよく覚えている」というのはJFKの暗殺事件や全米同時多発テロに直面した人たちが共通で抱く記憶じゃないかと思う。
人間の記憶とは、こういう外的な衝撃によって鮮やかにすりこまれるもののようだ。

でもそんな15歳の心は移ろいやすい。コンピューター的な緻密さを持つポールに比べて、喧嘩っ早くて飲んだくれでマザコンでマイブーム平和野郎のジョンが次第に「愛と平和の使者」として祭り上げられてゆくのが嫌になり....今ではそれを誰が仕掛けたのかも知っているが.....1年後にはThe Whoにどっぷりハマっている自分がいたのだった。

「15歳」といえば、僕と生まれた日が4日違いだった尾崎豊の「15の夜」を思い出す。彼のように盗んだバイクで走り出すほどの度胸はなかったけど、聞かなければいけない音楽、見つけなければいけない音楽を求めて走り出す衝動だけは凄くあった。そんな「15の夜」だった。

さらに、これは余談。
この翌日、NHKのFMでジョンレノンの緊急追悼番組が2日連続でオンエアされた。12月10日がビートルズ時代、11日がソロ時代という構成だった。11日にはリリースされたばかりのソロアルバム「Double Fantasy」のうち放送禁止となった「Kiss Kiss Kiss」以外の全曲をすべてオンエアするという凄いものだった。1980年といえば、ビートルズの曲のうちどれが曲がジョンの書い作品で、どれがポールの書いた曲かなんてあんまり認識されていなかった時代だったと思う。だけどNHKにはプロデューサーで好きな人がいたのだろう。この対応は素晴らしいものだった。

そもそも「ロックミュージシャンの死」というものに、全くテレビのメディアが全く敏感でなかった時代だ。追悼スペシャル番組なんて一切無かったし、翌日のワイドショーなどで取り上げられることもなかった(お袋談)。辛うじて市川でも見れた「ミュートマ(だと思う)」が5分程度の「追悼コーナー」で「Revolution」のPVをチラっと流したのと、「題名のない音楽会」が「ジョン・レノン追悼」と銘打って「Yesterday」、「Let It Be」、「Fool On The Hill」などポールの曲ばかりを紹介したぐらいだ。

そんな時代によくこれだけのラジオ番組を流したと思うし、おかげでジョンについて自分の知らない多くのことを教わった。このテープは今でも家のどこかにあるはずだ。

追記:本記事に関して、lackofsleeeepさん運営の「8分の7拍子天国」においてこのような形でご紹介頂いた。
lackofsleeeepさんが書かれているように、ジョンが亡くなったのが日本時間では12月9日というのは間違いない話で、僕は高校生の頃は毎年12月9日のジョンが亡くなった時間(日本時間の13時前....ちょうど昼休みの時間となる)にやはりJohnが好きだった友人のコクボ君と黙祷を捧げたものだ。
現地時間に合わせた日を命日とする....もっと具体的に言えば、たとえば墓石に書かれた日付が.....もっともジョンの墓石は存在しないか内緒かのどちらかなのだけど.....「-1980/12/8」であればその日が世界的に同一の命日になることは、一見当たり前のことのように思える。しかしリアルタイムで事件を知り、その感覚を引きずってきた人間には「12月8日命日」というのにはかなり違和感を感じる。

今でも思い出すのだけど、1980年12月24日に日比谷野外音楽堂において行われた「John Lennon追悼集会(おいおい"集会"っていうのがなんだか1970年代的精神の下にあるなぁ~)」において、どなたか音楽業界の関係者(僕の嫌いな香月利一だった気がする)が、「ジョンの亡くなったのは現地時間の12月8日、実はこれって真珠湾攻撃を日本が行ったときの日本の現地時間なんですよね(ハワイでは7日)。平和を訴え続けたジョンがこの日に銃で亡くなったことに因縁を感じます」という演説をしていた。「おいおい、なんだか無茶苦茶だな」と感じたのを覚えている。実はこの「真珠湾攻撃との因縁」というヤツがミソでして、そういう関連付けをしようとする動きによって、次第に12月8日に亡くなったことに日本でもなっちゃった感がしてならないのだ。もちろん僕の気のせいなんでしょうけどね(笑)。