九品仏で石橋エータローがピアノの先生をしていた話

僕に家には代々….というほど大仰なものではないけど….伝わっているヘンな話のひとつに、こういうのがある。

「母は石橋エータロー(後のクレイジー・キャッツのピアニスト)にピアノを習っていた」。

最初、この話を僕にしてくれたのは祖母だった。僕が大学生ぐらいの時だ。
ドリフ世代に僕にとって、決してリアルタイムではなかったけどクレイジー・キャッツぐらいは知っていた。「満員電車の中でイヤホンでクレイジーを聞くと、世の中が全部バカバカしく見えてくるよ」という友人A君の言葉を満員の地下鉄東西線で実践していたぐらいだ。
だが「石橋エータロー」という名前には植木等や谷啓やハナ肇ほどはピンと来なかったし、そのまま記憶の片隅にしまいこんでしまっていた。

母の家族は昭和17年から10年ほど世田谷の九品仏に住んでいた。当時の住所が世田谷区玉川奥沢町3丁目32番地だったことは祖母の遺品の年賀状からわかっている(ただし昭和45年以降、住所も地番も全く変わっている)。以前、母を連れてこの街に行ってみたことがある。今でも昭和の風情が残る街なのだけど、方向音痴の母には自分の住んでいた家の場所がさっぱりわからなくなってしまっていた。
「濱中製作所の前の路地を入ったところにある庭付きの貸家、海軍の元帥永野修身(広田弘毅内閣の海軍大臣、連合艦隊司令長官)が近くに住んでいた」というのが祖父の日記や叔父の話から聞いたその場所の風景だ。

母によれば「九品仏でピアノを習っていたのは小学校3年生ぐらいから数年間」だったらしい。母は昭和13年生まれだから戦後間もない昭和22年ぐらいからの数年間の出来事だったのだと思う。近所に音大の学生がいてピアノを自宅で教えていたのだ。電柱に張り紙でもして生徒を集めていたのだろう。それが石橋栄市、後の石橋エータローだった。

(石橋エータロー)

いっぽうこちらも貧乏役人だ。当時の祖父の日記では月々の支出が収入を上回っているぐらいだから、よくもまあ娘にピアノなんて通わせたものだと思う。むろん家にピアノなどなかった。

(母、昭和23年頃)

戦争中、母は家族と離れてたったひとりで宮城県の津山町柳津(現在の登米市)の祖父の実家に2年ほど疎開していた。そうした母に対してかわいそうだと思った親心だったのか、田舎暮らしですっかりお転婆娘になっていた母に対する意識改革のつもりだったのかのどちらかだ。

先生の家は一軒家。母親と先生、そして先生の姪の3人で住んでいた。その家に父親はいなかった。
祖母が「家にピアノがない」ことを伝えると、「好きな時にこちらへ来て練習したらいいですよ」と言われた。
だからは母親は好きな時に先生の家へ行ってピアノの練習をし、そしてピアノを習っていたそうだ。今から考えると恐ろしく贅沢な環境だったと思う。

そんな先生は夕方になると、どこかへと出勤していった。どうも銀座だかどこだかのバーでジャズバンドのピアニストとして働いていたようだ。夕方になるとリーゼント姿(母親の話)で駅まで歩いてゆく先生の姿を、母親は何度もみかけたらしい。
そんな先生に対して、母は「せんせー!」と手を振った。普段とは違う先生に対する、子供らしい冷やかしだったのだろう。
昼は音大の生徒と子供相手のピアノの先生。そして夜はジャズピアニストという生活は何年も続いたようだ。

当時の小学校は教室が足りなくて2部制だった。そういう時は午後から授業になるので、母は朝からピアノ教室に行った。ところが先生は夜の仕事のせいか、まだ寝ている。母は「ワルガキ」だったから、先生の寝ている部屋まで階段を上ってゆく。そして「先生!起きてぇ!」とドアをガンガン叩いて起こしたのだそうだ。

こんな話も祖母から聞いたことがある。
ある日、レッスン中にどこからともなく三味線を鳴らす音が聞こえてきた。
すると先生は窓から顔を出して大声で叫んだ「その三味線、○の糸が狂ってるよ!」。
つまり先生は三本ある三味線の弦のうち一本の調弦(チューニング)が狂っていることを、耳で聞き取ったのだという。

そんな風にして、母は数年間ピアノ教室に通ったようだ。
その母がピアノのレッスンをやめてしまった理由は、母と祖母では言っていることが全く違う。

祖母の話ではこうだった。
ある日、母が半ベソをかきながらピアノ教室から帰ってきた。祖母が理由を尋ねると、
「恭子ちゃん(母の名前)、明日からもう来なくていいよ」と言われたのだという。
母が理由を尋ねると「もうピアノを売っちゃうんだよ」。
祖母の見解では、お金がないからピアノを手放すことになったんじゃないか、ということだった。

いっぽう、母の話では全く反対のことになっている。
「だんだん仕事が忙しくなってきたので、もう教えることができなくなった」と言われたのだという。

(初期のクレイジー・キャッツ)

まったくこの真逆の話には当惑してしまう。

その後のサクセス・ストーリーからすれば母の話の方が正しいのだろう。だけど母の話には「記憶」というよりは後付けの「知識」から形成されたきらいがある。今回、この日記を書くにあたって母に「習っていた時の面白い話はある?」と尋ねたら、即座に「先生のお父さんは作曲家の福田蘭童で、どこかに別の女を作って駆落ちしてしまった。だからあの家にはお父さんがいなかった」と出てくる始末だ。それは実体験に基づいた「記憶」ではなく後追いの「知識」だ。小学生だった母に先生が「僕の親父は」なんて話をしたとは思えない。
いっぽう、祖母の話はその後のサクセスストーリーとは矛盾している。してはいるのだけど、何となく面白い。

昭和22年頃から「数年間習った」という母の話によるならば、この出来事は昭和25年か26年ぐらいのことだったと思う。
石橋エータローは「画家の後裔」という自伝を書いているようだから、その本を読めばわかることかもしれない。わかることかもしれないけど、それを検証するつもりはない。この記事は「記憶」であって「記録」ではない。


(ジャズ・プレイヤーとしてのクレイジー・キャッツの貴重な映像)

その後、母たちは五反田へと引越し、次に阿佐ヶ谷へと引っ越した。母がその後、ピアノを習っていたのかどうかは聞いていない。
ただかつての実家には今でも年代もののピアノがある。

「先生」...石橋エータローこと石橋栄市のその後についても、僕は「知識」以上のことは知らない。
ウィキペディアによれば「安田伸らとバンド活動後、1956年に世良譲の紹介でクレージーに参加する」とある。クレイジーキャッツに関する評伝「THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI」には「50年(昭和25=管理人注)朝鮮戦争が勃発するとともに横浜に米慰問バンドが続々来日するとそのメンバーにまじって活躍した。(中略)やがて、みずからのバンド、ザ・ファイブや「植木等とニューサウンズ・トリオ」を経て、56年(昭和31=管理人注)クレイジー・キャッツに加入。石橋エ-タローを芸名とし、グループでピアニストとしての才能を発揮しながら、なよなよしたセリフまわしとかつらをかぶった女形スタイルのギャグで個性を発揮する」とある。

エータローがクレイジーキャッツに加入した頃には昭和13年生まれの母も大学生になるかならないかの年頃になっていた。
今では73歳になった母だが、やはり昔の人間のせいか、若い頃の自分が遊んでいたような話はガンとして口を割らないところがある。
だが、たまにボロっとこぼす。
こぼした話によれば銀座の銀巴里(シャンソン)や新宿アシベ(当時はジャズ喫茶)などには結構通っていたらしい。
「丸山明宏を銀巴里で何度か見たことがある」というのも母かこぼして僕がすくいあげた話のひとつだ。丸山明宏とは今の美輪明宏のことだ。
芦野宏(今ではシャンソンの大御所である)に口説かれた」という話もある。
そこで僕が面白くなって色々とツッコミを入れると「まあね、私だってちょっとぐらいは遊んだわよ」という一言で逃げられてしまう。
今でもレイ・チャールズやエルビス・プレスリーが好きな母が、ジャズからロカビリーやロックンロールへと急激に変化した昭和30年代前半、どこで何を聞いて「遊んでいた」のかは容易に想像がつく。だから自分の「先生」がクレイジー・キャッツというジャズをベースにしたコミックバンドで有名になってゆくことには気づいてはずだ。ただクレイジーが1960年代を代表するお笑いタレントになることだけは予想だにしなかっただろう。


(クレイジー・キャッツ「ホンダラ行進曲」)

石橋エータローは1971年にクレイジーを脱退し、以後料理研究家として活躍した。もう20年以上前のことだがTV番組に出演したエータローを見た記憶がある。父福田蘭童との確執と和解、さらに祖父青木繁から続いた「親子の断絶」という因縁。これについて語っていたのが印象に残っている。そんなエーターローは1994年に亡くなっている。


(石橋エータローが出演した山一證券TVCM)

僕は物心ついた時には母からピアノを教わっていた。小学校2年生の時はじめてピアノの先生についた時も「俊郎君はバイエルの下巻(黄色)からやりましょう」と言われたぐらいだから、赤本(上巻)あたりは母から教わっていたようだ。

もし音楽にDNAがあるとするのならば、僕のピアノには多少なりとも石橋エータローのDNAが入っていることになる。