「ビートルズ・レコーディング・セッションズ完全版(シンコー)」

前回に引き続き、ビートルズ関連の名著を紹介します)

今だから言うけど、かつてYellow Dogというレーベルから「Unsurpassed Masters」というビートルズの未発表曲やデモ、別テイク集....ブートが市場に出回っていたことがある。1980年代の終わりから1990年代の前半ぐらいの話だ。

これは全7枚のシリーズがリリースされていたのだけど、それまでのブートと比較して(当時としては)画期的な良音質だった。「身内」から流出したとしか考えられないシロモノだった。

これにビートルズ側も対抗して1995年から未発表音源などを収録した「ビートルズ・アンソロジー」という公式盤(CD2枚組で3セット)をリリースする。今まで日の目を見なかった楽曲の多くがクリアな音質でよみがえったのだけど、楽曲によってはマスターテープを編集して本来の音ではなかったりするものもあった。今でも「Unsurpassed Masters」でしか聞けないテイクや楽曲が沢山ある。

("She’s A Woman"のオクラ入りした第7テイク。第6テイクが採用されたため、いまだ公式にはリリースされていない。1964年10月8日録音。)

何でこんなことをわざわざ書いたかと言うと、こうした「日陰者」の音源を聞く上で最適なガイドブックが、奇しくも「Unsurpassed」が出回ったのと同時期の1990年にシンコー・ミュージックから出版されたからだ。

そのタイトルは「ビートルズ・レコーディング・セッション(The Complete Beatles Recording Sessions)」。

1962年6月6日、ビートルズのメンバーがオーディションのために「古めかしい白のバン」でアビー・ロードスタジオを訪れてから、1970年5月8日にアルバム「Let it Be」がリリースされるまでに行われたビートルズのすべてのレコーディングをクロニクル形式で記録した労作だ。これを読めば「Unsurpassed」や「ビートルズ・アンソロジー」の収録されている曲が、どのようなプロセスのどういった地点でレコーディングされたものかが一目瞭然だ。

著者はMark Lewisohn (ルウィソーンともルーイスンとも表記されている)。元EMIとアップルのスタッフでビートルズに関する著作を数多く行っている。彼は唯一人ビートルズがレコーディングした膨大なマスターテープを聞く許可を得た人物だった。図書館で古文書の解読をするのと同じように膨大なテープと格闘し、この本を書き上げた。

たとえば「A Day in the Life」のスリリングなオーケストラパートのレコーディングが1967年2月10日午後8時から行われたこと、40人のオーケストラによって4テイクが録音され1トラックにミックスダウンされたこと(160人!)、オーケストラへ支払われた報酬が367ポンド10シリングだったこと、スタジオの隅でロン・リチャーズ(当時、同じスタジオでザ・ホリーズの意欲的なアルバム「Evolution」のプロデュース中だった)が「とても信じられない、降参だ」と言って頭を抱えていたこと....といった具合に新しい発見や事実があちらこちらに散りばめられている。その面白さに何度読み返したかわからない。

("A Day in the Life"のレコーディング風景。1967年2月10日)

僕は以前、この辺境Blogのどこかで「レコーディングされた音楽は(少なくとも昔は)その日その瞬間のその場所の空気を鮮やかに切り取っている」と書いたことがある。この本はビートルズが切り取ってきた空気のひとつひとつについて、そこでどのような会話が交わされ、試行錯誤がなされていたのかを詳細に記述している。

そして、そこから見えてくるのは彼らが豊富なイマジネーションで新しいレコーディング・テクノロジーの扉を開いていったという事実だ。アビーロード・スタジオの規則や不文律に対して悪戯を仕掛ける子供のようにそれを打ち破り、レコーディングの技術的限界に対しても大胆な発想でそれを乗り越えた。そしてジョージ・マーティンを筆頭としたテクニカル・ブレインは時にはそれに応え、時にはそれに引きずられながら克服してゆく。そんなさまが鮮やかに描かれている。

感性に技術が追随してゆくプロセスには音楽ならではの醍醐味があり爽快感すら感じる。

またレコーディングに関する用語解説も豊富だ(ただし90年版にあった目等進氏による「レコーディングテクニックの解説」は再販「完全版(2009)」からは割愛されている)。レコーディングの技術史としてもテクニカルガイドとしても読める作品だ。表現者を目指す人ならば読んでおいて絶対に損はないと思う。

これからは余談だけど、長女が生まれた時(1966年)にも僕はこの本を読んでいたようだ。
裏表紙の見開きを開いたら子供の名前案がいくつも書かれていた。「3370g」なんてメモ書きまであった。
当時の僕はCDショップの店長だった。お店の2Fの音楽教室の隅にある休憩室で、お弁当を食べながら生まれた子供の名前を一生懸命考えていたこと、それを思い出した。

最終的に音楽用語ににもじって決めた「名前」も書かれてあった。そして休憩室にあった「音楽用語辞典」からその語句の意味まで書き写してあった。

「そうか、僕はあやつの名前をあの店の2階で決めたんだな」。そんなことを思い出した。

さて、この90年版「ビートルズ・レコーディング・セッション」には何か所かの誤りや後に判明した事実があったようだ。3年ほど前に加筆訂正され装いも新たに「完全版」として出版された。
僕はこれを書店の店頭で見かけたのだけど「すでに持っているからなぁ」と躊躇して買い損なってしまった。間もなく「完全版」は品切れとなってしまい、再販の目途も立たないままにAmazonやヤフオクでプレミアがついてしまった。これには大いに後悔した。

それが本年10月5日、ビートルズのデビュー50周年を記念して「ザ・ビートルズ レコーディングセッションズ完全版」として再販された。

新たに買った「完全版」を自分の一冊にして、1990年版は長女にあげようと思っている。