記憶

自分の娘がとても小さい頃...たぶん2歳ぐらいの時に、こんな質問をしたことがあります。
「お母さんのお腹の中にいたときのことを覚えている?」
そうしたらは娘はあたりまえのようにこう言いました。
「うん」。
そこで僕は「どんな音が聞こえた?」と尋ねてみると、
「ザーザーいってた」

この時、僕は娘の言っている言葉が本当なんだと思いました。

かつて明治乳業が「ねんころりん」というぬいぐるみを発売していました。
寝付かなかったり、むずかる赤ちゃんのために、胎内の音を再生する装置が内蔵されているのですが、この「ねんころりん」の出す音が、まさに「ザーザー」という音だったのです。

いま、娘に同じことを聞いても「そんなの覚えているわけないでしょっ!」と一蹴されるでしょう。

ですが、僕は彼女が当時持っていた「記憶」というものを、いまだに信じています。

我々はよく昔の事を思い出す時に「中学生の頃、〇〇したなぁ~」とか、「幼稚園の時に〇〇があって怖かったなぁ」とかいうように記憶を元に話をします。そうやって過去をずっとさかのぼってゆくと、ある瞬間から連続したタイムライン上にいるような感覚、というのはないでしょうか?

僕にはそういう瞬間があります。
多分あれは4歳になったぐらいの時だったと思うのですが、フト気がつくと川沿いの道に立っていて、自分の住んでいる社宅の方を見ているんです。なぜそこにいたのかも、そばに誰がいたのかも覚えていませんが、社宅(団地)の建物は灰色で、川はうす汚くて、空が晴れていて、周囲にはトタン屋根の家が連なっている...という光景です。

それまでは全く意識を失っている状態で、ふと気づいたらそこにいて、そこからは今日までずっと意識が継続して続いているような感覚を持っています。むろんその瞬間からの4歳の日々のことを緻密に覚えているわけではありませんが、それ以降は僕の記憶の断片の数が非常に多くなっているのです。

その社宅からは幼稚園の年長になる前に引っ越してしまいましたが、9年後の中学3年生の時、たまたま近場に用事があったのでフラっと立ち寄った時には、なんなくその場所(自分の住んでいた家)にたどり着くことができました。記憶がつながっているから辿りつけたわけですね。
だから今でも僕はその場所を知っていますし、近くを通る際には立ち寄ったりすることもあります。
130628
(場所は川崎市中原区今井仲町)

その光景の「今」ならば、Googleストリートビューでも見ることもできます。
場所も見ている方向も一緒です。
左手の茶色のマンションがあるところに、僕の住んでいた社宅がありました。
この道の左側沿いには今でもドブ川がありますが、今ではほとんど暗渠になっています。

なんとも説明しにくいのですが、人間というものは幼少期にどこかで「意識」のスイッチが切り替わって、そこからは現在進行形になるんじゃないでしょうか?そしてそれまでの記憶というものは新しい記憶に上書きされてしまうか、急激に消去されていってしまうのじゃないでしょうか?

そんな失われた記憶の中に「お母さんのお腹の中」の記憶もあったのかもしれません。