The Byrds 死んだ少女 -I Come And Stand at Every Door- のこと

僕の好きなアメリカのロック・バンドに「ザ・バーズ(The Byrds)」というのがいる。1960年代から70年代にかけて活躍したバンドで、ボブ・ディランのフォーク・ソングをロック化した...フォークとロックをわかりやすい形で融合させた「ミスター・タンブリン・マン (Mr. Tambourine Man)」が最も有名だ。

(The Byrds – Mr. Tambourine Man)

彼らはアルバムをリリースするたびに実験的なサウンド作りに挑戦し続けた。フォーク・ロック、サイケデリック、スペースロック、カントリー、彼らが描いた広い輪郭はロック・サウンドの可能性を広げていった。その点においては、同じアメリカのビーチ・ボーイズ以上の功績があると僕は考えている。もちろんビートルズにも影響を与えたバンドだ。
The Byrds
さて、このバンドが1966年7月18日にリリースしたアルバムに「フィフス・ディメンション (Fifth Dimension)」というのがある。ドラッグによる幻覚症状を音楽にしたいわゆる「サイケデリックロック」の先鞭を切ったアルバムで、その完成度は高い。

ちなみにこのアルバムに先行する形で3月14日にリリースしたシングルが、ロック史に残る傑作と言われる「霧の8マイル (Eight Miles High)」だ。ジャズ・ミュージシャンのジョン・コルトレーンに影響を受けたギターソロ、浮遊感のあるサウンド、そして幻想的な歌詞。この曲は全米チャート14位まで登りながらも、その危険な香りから放送禁止となっている。

(The Byrds – Eight Miles High)

先述のアルバム「フィフス・ディメンション」はその勢いの中でリリースされたわけだけど、そのA面の最後に「死んだ少女(I Come And Stand at Every Door)」という不気味な邦題のついた曲がある。
歌詞はこんな感じだ。

I come and stand at every door
私はどこの家の戸口にでも立ちます
But no one hears my silent prayer
でもわたしの足音を聞く者は誰もいないでしょう
I knock and yet remain unseen
わたしがノックをしても、誰にも見えないでしょう
For I am dead, for I am dead
なぜなら私は死んでいるから、死んでいるから
I’m only seven although I died
私はわずか7才で死んだのです
In Hiroshima long ago
遠い昔、ヒロシマで
I’m seven now as I was then
わたしは今もあの時と同じ7才です
When children die they do not grow
子供たちは死んだ時から、育っていないのです

My hair was scorched by a swirling flame
わたしの髪は燃え盛る炎に焦がされ
My eyes grew dim, my eyes grew blind
目はかすみ、見えなくなりました
Death came and turned my bones to dust
死がやってきて、わたしの骨は灰になりました
And that was scattered by the wind
そして風によってそれは散っていったのです
I need no fruit, I need no rice
わたしは果物もいりません、ごはんもいりません
I need no sweets nor even bread
お菓子もパンもいりません
I ask for nothing for myself
わたしは何もいりません
For I am dead, for I am dead
なぜなら私は死んでいるから、死んでいるから
All that I ask is that for peace
わたしが求めるのは平和です
You fight today, you fight today
今日も戦争が起きています 戦争が
So that the children of this world
この世界の子供たちが
May live and grow and laugh and play
笑い、遊びながら育ってゆくことがわたしの願いなのです
(死んだ少女 -I Come And Stand at Every Door-)

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僕が最初にこのレコードを買ったのは大学生の頃だった。当時、このアルバムは輸入盤でしか入手できなかったから、この曲の歌詞の意味を聞き取ることなど僕の英語力では難しかった。レコードをB面にひっくり返すと、いきなり先述の「霧の8マイル」が始まるのだけど。その直前(A面の最終トラック)のこの曲にはただ「暗い曲だ」という印象しかなかった。この曲の深い意味を知ったのは1997年にリマスター版CD(国内盤)がソニーからリリースされてからだった。

ザ・バーズが「ヒロシマ」の曲を歌っている、というのは衝撃だった。

1966年7月、僕は生まれてから半年足らずの赤ん坊だった。
日本は敗戦の痛手から経済的な復興を遂げ、東京オリンピックからの好景気の中「昭和元禄」という時代を迎えていた。
同じ7月にビートルズの武道館公演があり、ミュージック・シーンでは空前のエレキ・バンド・ブームが巻き起こっていた。

「ヒロシマ」に背を向けるかのように日本という国が成長を続ける時代、アメリカで商業ベースで成功しているバンドが、自国の罪を告発するような曲をレコーディングしているという事実に驚くとともに、長年このバンドを愛し続けてよかったと思った。

実はこの曲は、彼らのオリジナルではない。
まず歌詞、これはトルコの詩人ナジム(ナージム)・ヒクメットという人が1955年に書いたものだ。

この曲には多発的に作曲されたものがいくつかあるようだけど、バーズのメンバーが参考にしたのはフォークシンガーで有名なピート・シーガーの「死んだ少女」。彼はこの詩を英訳したものに「Great Selkie Of Shule Skerry」という古いトラディショナル・ソング(元々はイギリス領オークニー諸島をルーツとした海の歌のようだ)に乗せて歌った。1962年のことだ。

(Pete Seeger – I Come And Stand at Every Door)

元々ザ・バーズのメンバーはフォーク畑のミュージシャンが集まって結成したロックバンドだった。
フォーク・ソングの世界ではこうした反戦歌は当たり前のようにあったから、彼らにもこうした反戦の歌を受け入れる土壌があった。
この時代のロックは、単なるダンスミュージックから離脱し始めた時代で、飛躍的に歌詞もサウンドも変化しようとしていた。
この「死んだ少女」という反戦詩によるロックも、そうした時代の新しい産物だったのである。

さて、この「死んだ少女」という「曲」。ご存じの方も多いと思うけど日本では全く別の形で育っている。
同じ詩をベースにして外山雄三が作曲した「死んだ女の子」が、元ちとせによって広島原爆ドーム前で歌われている。
2005年8月6日のことだ。プロデューサーは坂本龍一だった。

(元ちとせ、坂本龍一 -死んだ少女-)

正直申せば、この過剰な歌唱や、過剰なサウンドは好きではない。なぜなら、
戸口に立つ少女は誰にも聞かれることのない言葉を寂しげに語っているのだから。

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