さよなら、アンパンマン

1996年に長女が産まれてからいうもの、取引先の方が映画版「アンパンマン」のサンプル版ビデオをコンスタントに送ってきてくれた。休みの日になると、彼女と一緒にそれを見たものだ。

「キラキラ星の涙」「とべ! とべ! ちびごん」「つみき城のひみつ」「リリカル☆マジカルまほうの学校」「ゆうれい船をやっつけろ!!」「空とぶ絵本とガラスの靴」「虹のピラミッド」「人魚姫のなみだ」なんていう作品は、その挿入歌とともに登場キャラまで頭の中に入っている。

彼女はまだ小さくて言葉が話せなかった。
だけど大好きなアンパンマンのことを「ぱんまん」と呼んでいたし、アンパンマンの顔が雨でふやけてしまうと、それがヒーローの危機であることもわからずに「ぱんまんぐちゃぐちゃ」と喜んでいた。
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(徳島県の脇町=うだつの町にて。1999年1月4日)

1999年の1月のことだ。正月休みを利用して、京都から高知県香北町(現香美市)にある「アンパンマンミュージアム」へ彼女を連れていった。

3月には二人目の子供が生まれる予定だったから、2歳とちょっとになった彼女を一人っ子として可愛がれるのも今のうちだった。だったら大好きなアンパンマンの世界に連れていってあげよう。そんな気持ちがあった。

僕は彼女にどこへ行くのかは教えなかった。彼女を驚かせて喜ばそうと思ったのだ。開通して間もない明石海峡大橋を渡って阿波池田に一泊し、祖谷を経由して高知に入った。
租谷のかずら橋
(娘をだっこしながら祖谷のかずら橋を渡る。1月5日)

お金もないから高知市内で食事して、ホテルは素泊まりだ。21時頃にミュージアムの隣にある「ピースフルセレネ」というホテルにチェックインした。

翌日、彼女は自分のおかれている環境に気づいて大喜びした。
ミュージアムの周辺におかれたキャラクターたちの石像、精巧なミニチュアでできたアンパンマンの町、仕掛けのあるばいきんまんの乗り物、床下に隠されたさまざまな仕掛け、ジャムおじさんのパン工場....
高知アンパンマンミュージアム
(アンパンマンミュージアムで。1月6日)
人生を生き急いでいるんじゃないかというレべルで館内をかけずりまわる彼女、父はそれをビデオカメラを持って追いかけていた。
そんなことをしつつも、僕はやなせさんの「アンパンマン」以外の作品に感銘を受けてもいた。たしかアクリル画の作品群だったと思う。
驚いたのは彼の感性の若さとみずみずしさ。これが80歳近い人の書く作品とは思えなかった。絵に添えられた詩の美しさと深さも印象に残っている。
やなせさんって絵本作家という以上に一人の詩人なんだということがよくわかった。

いっぽう、彼女の熱狂はミュージアムを出ても続いていた。
町のところどころにアンパンマンの世界が広がっていた。彼女はひとつひとつのキャラクター像に駆け寄っては喜んでいる。
ニコニコしながらピョンピョンはねていた。
そんな彼女の姿を今でも忘れない。
高知アンパンマンミュージアム
この記事を書くにあたって、彼女に「この時のことを覚えているか?」と尋ねてみたら、「ほとんど覚えていないけど、床の下に色々な仕掛けがあったのと、カラフルな階段があったことだけは覚えている」と言っていた。
それだけでも覚えていてくれたのなら僕としては充分だ。

旅から戻ったら、3月に次女が産まれ、彼女はお姉さんになった。
親は当然のことながら次女の面倒に時間を割かれる。だからこそなお一層長女を可愛がるように努力した。我々は次女に愛情が移ったと彼女が感じてしまうことが、一番よくないと考えたからだ。休みの日になれば僕は長女とお出かけをするようにした。京都近鉄百貨店の「アラレちゃんショー」に行き、梅小路公園にサーカスを見に行き、あやめ池遊園地の「アンパンマン博覧会」へ行き、鹿と遊びに奈良公園まで連れて行った。

やがて次女もまたたどたどしい言葉でしょくぱんまんのことを「ちかぱんまん」と言い。「ゆうれい船をやっつけろ!!」に登場する海の白馬マリンの大ファンとなった。
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いま振り返ると、彼女たちがアンパンマンにハマっていたのは、ほんの一瞬だったような気もする。2歳から5歳前半ぐらいまでの間に熱狂し、そして呆れるほど急激に冷めていった。長女が6歳ぐらいの時に「アンパンマン、もう見ないの?」と尋ねたら「あれはちいさいこがみるものだよ」とバッサリ言われたことがある。じゃあお前はなんなんだと言いたいぐらいだった。

「アンパンマンばなれ」というのは娘たちにとって幼児から次のステップに進むための通過儀礼のようなものだった。彼女たちの間では次第にポケモンやプリキュアがそれにとって代わっていった。それはハタから見ていると、とても残酷なことのように思えた。あれだけ子供たちのために戦ってきたアンパンマンを、子供たちはあっさり忘れていってしまうのだから。
それはどこの家の子供さんもそうだったんじゃないかと思う。
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さて、アンパンマンは自分の頭をちぎって困っている人に与える。それがアンパンマンの正義だ。
そこには「正義を実行するには、やもすれば自分の身を削ることになる」というやなせさんの哲学があると思う。

何しろ正義ってヤツは絶対的ではなく相対的なものだ。とても孤独なことで、時には独善的で、時には身勝手な思い込みの発動だ。
大東亜共栄圏をスローガンにアジアに進出した日本軍も「正義」を標榜し、アーリア人種を保護するためにジェノサイドを行ったナチス・ドイツも「正義」を標榜していた。ヘタすりゃばいきんまんだってドキンちゃんだって自分たちのやっていることを「正義」だと思っているだろう。正義を実行することは、誰かを助ける一方で誰かを傷つけることになる。無意識下の自分も傷つけることになる。そうやなせさんは言いたかったのだと思う。

そして「正義」を実行する根拠になるのは自分の信念でしかない。だからこそ「アンパンマンマーチ」には、「愛と勇気だけが友達さ」という一瞬「えっ?」と思うような歌詞があるわけだ。

子供というものは成長するにつれて、アンパンマンをあっさり忘れてしまう。次に思い出すときは多分中学生か高校生ぐらいで、替え歌を作って面白がったり、ファンシー小物として持ち歩いたり、ネタとしてスマホの壁紙にしたりする。人気があるのはばいきんまんやドキンちゃんだったりする。そこではアンパンマンという存在は絶対的な正義ではなく、ひとつのノスタルジアだったり、コネタだったり、マスコットのひとつだったりする。自分が育てたヒーローが持つそんな宿命を、やなせさんはとてもよくわかってくれていたと思う。

そう、アンパンマンでやなせさんがもうひとつ言いたかったことがあるとすれば、それは「寛容(トレランス)」だ。悪さをしたばいきんまんに対する「寛容」、そして手のひらを返したように「幼稚だ!」と言って忘れようとする子供たちへの「寛容」だ。子供たちが大きくなれば、アンパンマンに込められた深いメッセージを理解してくれる、それを温かく見守ってやろうという長い視点が、やなせさんにはあったと思う。

さて、確かに正義とは相対的なものだ。
だけど誰の心の中にも絶対的な正義もあれば愛もある。
僕にとっての絶対的な正義と愛ってなんだろう?
自信を持って「そうだ」と言えるものがひとつだけある。
それは娘たちを守る正義と、彼女らへの揺るがない愛情だ。

一切の見返りを娘たちから求めることは永遠にない。無私の愛だけがそこにある。無私の愛ぐらい怖いものはない。
そして万が一危機が迫ったならば、二人を守るために、いかなる手段も使うだろう。世界中を敵に回してでも戦うだけの覚悟と勇気がある。
親というものはそういうものだ。

そういう時「愛と勇気だけが友達だ」を口ずさみながら、やなせさんが遺してくれた哲学を噛みしめるに違いない。
僕が「アンパンマンのマーチ」を歌っている時は、要注意だ。