浅子神輿店の頃

大学生の頃、大学サークルの関係で日本橋高島屋でアルバイトしていた。
これはお中元とかお歳暮の繁忙期がメインだったので、合間に働けるもうひとつのアルバイトをさがす必要があった。
それで見つけたのが神輿屋さん。
「神輿」っていうのは、お祭りでかつぐあの「おみこし」だ。

当時、僕は千葉県市川市の行徳というところに住んでいた。
この街は都心まで20分のベットタウンという表情と別に、江戸時代からの古い宿場町としての表情を持っていた。滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の舞台にもなったところで、旧行徳街道沿いには古い家並みや社寺が並んでいた。そんな中に中台(祐信)、浅子(周慶)、後藤(直光)という3軒の神輿屋さんがあった。

1985(昭和60)年の夏から僕が働いたのは、このうちの浅子神輿店。1929(昭和4)年に建てられた江戸の商家風の本店と旧行徳街道を挟んだお向かいに工房があった。
神輿屋さんの仕事というのは、ひとことで言えば「神輿を作り、納品する、古くなった神輿を修理する」ことなんだけど、実際には多くのプロセスと分業体制があった。たとえば神輿の原型である神輿台や胴や屋根の製作ならば「木地師」、彫刻ならば「木彫師」、漆塗りならば「塗師」、色塗りならば「彩色師」、金属製の飾りならば「彫金師」、金箔を貼るならば「箔師」、飾りの紐であれば「紐師」、といった具合だ。そしてそれぞれの部品を組み立てて完成させるプロセスにトータルディレクターとでも言うべき「神輿師」がいた。「神輿師」職人のSさんは木地師や彫金師の仕事も一部兼任していたと記憶している。
そう、神輿とは日本のさまざまな伝統工芸が入り交ざって完成される作品だった。

この浅子神輿店でも、かつては大勢の職人さんが作業場で一同に会して神輿を製作していた。だけど1985年当時は、すでにそれぞれの職人さんは独立して別に作業場を設けていた。だから当時の浅子神輿店内で行われていたのは納品された部品の最終的な組み立てのプロセスが多かったと記憶している。僕が当時聞いた話では「ひとつの神輿を完成させるためには20人以上の職人の手が必要」とのことだった。ただ、一度だけ千葉県の文化行政を司るエラい方が見えた時に、往年の雰囲気を再現しようということになって、散り散りになっていた職人さんが一同に会したことがあった。これは壮観だった。木地師さんがカンナを使って神輿屋根のカーブをショインショインやっているかと思えば、彫金師さんが大量の鏨(タガネ)やら工具を並べて、金属の板をコンコンカチカチやっていた。また彫刻師さんは物凄い量の彫刻刀を並べてジョリジョリやっていた。僕なんぞはウロウロしていても邪魔になるだけなので、作業場の隅っこの方で修理用神輿の解体をやっていたのだけど、江戸時代の家内制手工業の世界に舞い戻ったかのような雰囲気となった。

作業場には神輿師のSさんのほか、2人の職人さん、2人のパートさんがいた。それに加え新たに対外的な折衝のために、元イベント会社の方が採用された。この方は元々神輿のイベントをあれこれと主催してきた方で、この方が浅子神輿店を盛り上げてくれるであろうことは予感できた。「隅田川の神輿渡御を復活させたい」「パリで神輿を担ぎたい」と夢を語ってらっしゃったが、この夢は翌年以降実現していった。

当時19才だった僕は、この方々に「あんちゃん、あんちゃん」と呼ばれていた。
「あんちゃん」がやっていた仕事は、作業場の掃除、修理する神輿の解体作業、解体した神輿の木の部品の洗浄、酸化した金属部分の復元、神輿のクギの頭などの金属部分に酸化防止剤(サボン液)を筆で塗ること、白木の担ぎ坊に磨き粉をかけて磨くことなどだった。クギを打つということは熟練が必要なようで、隠れた部分以外は打たせてもらえなかった。完成した神輿に鳳凰、瓔珞、担ぎ棒を取り付けて、飾り紐を巻きつけることまで覚えたのだけど、残念なことにコチラの方は今ではすっかり忘れてしまっている。

当時の浅子さんといえば、先代の15代浅子周慶さんがまだ健在だった。
インターネットでみたら先代のことを「昭和の名神輿師」と評していた。東京大空襲で消失した深川地区の神輿の数多くを復活させたほか、全国各地の神輿にこの方の名前が残っている。
先代はいつもベレー帽をかぶっていて、格子柄のカジュアルなスーツを着ていた。どうみても神輿屋の棟梁という風情ではなかった。それもそのはずで、この方は東京芸大で西洋彫刻を専攻されていた。生まれながらの神輿職人というのとはちょっと違っていた。そんな先代の発想から生まれたものに「浅子型鳳凰」というのがある(「鳳凰」とは屋根の上についている大鳥のこと)。大きく翼を広げて胸をはり今にも飛び立とうとしている躍動感が特徴で、実に写実的な鳳凰だった。西洋美術の写実世界と、日本の伝統世界とがいい雰囲気で融合していた。

先代は作業場の庭で椅子に座って作業を見守っていた。気づいたことがあれば、現場のSさんほか職人さんに指示をしていた。この方は以前に脳溢血か何かで倒れたことがあるそうで、そのせいか(失礼ながら)言葉がわかりにくいところがあった。たびたび話かけられるのだけど、たとえ理解できないときでも、あんまりしつこく聞き返すことはできなかった。その場で「はい、わかりました」と答えておいて、奥さんや職人さんのところへ言って、再度聞き返してもらうという妙なことをやっていた。何しろ先代は「ああ見えても気性の激しい人」で、「怒り出すとステッキでぶん殴られる」と職人さんたちから言われていたからだ。
今思うと、僕は多少職人さんたちにからかわれていたのだろう。

先代とはこんなことがあった。
椅子に座って作業を見守っている先代が僕にジュースを買って来いと言った。先代は椅子から立つのも大変なので、お金は自分のズボンのポケットに手をつっこんで抜いてくれというしぐさをした。
わかると思うけど、座っている人間のポケットから小銭を抜くというのは、なかなか難しい作業だ。僕が先代のズボンのポケットからお金を抜こうと四苦八苦していた。
そうしたらある職人さんが、
「なんだ、あんちゃん、社長の懐から金盗もうとしているのか?」
先代がそれに応えて笑いながら大きな声で叫んだ。
「助けてくれ~、物盗りだよ~」
こんな人だった。

働き始めたころ、先代の奥さんに「いつごろからやっているんですか?」と尋ねたことがある。
あっさり「500年」と言われた。
「室町時代に始めたの。最初は宮大工だったらしいわ」と奥様。何でも応仁の乱の頃に創業したそうだから、この時点で520年は経っていたことになる。日本橋高島屋ですら当時「開業150年」とか言っていたぐらいだから、これには恐れ入るしかなかった。それと神輿屋は首都圏に何軒もあるのだけど、その多くは神具なども同時に扱っていたのだが、浅子は神輿ひとすじという点で、関東で唯一の存在だった。

先代の奥さんは、大変しっかりした人で、会社としての「浅子神輿店」の切り盛りをしながら、芸術肌の先代を支えていた。
一方で金箔を押す仕事もよくやっていた。
僕がよく覚えている風景がある。
暗い作業場の奥の窓際で奥さんが正座して金箔を貼っていた。
それに相対して小さな女の子のお孫さんが正座して、それを眺めていた。
むこうがわの窓から差し込む光が強すぎて、こちらからは二人のシルエットしか見えない。
「おばあちゃん何してるの?」
「金箔を貼っているのよ」
「きんぱく?」
「”うるし”でおててがかぶれるからね、さわったらだめよ」
「うるち?」
そんな会話なんだけど、その光景がとても印象的だったのを覚えている。

僕が働きだした最初の夏に製作していたのが、東京墨田区の業平二丁目の神輿。赤漆塗の鳥居や囲垣にからみつく木彫りの龍、屋根上の鳳凰などそりゃあ見事な代物で、当時の値段で3千万ぐらいだったと記憶している。

楽しかったのは完成したこの神輿の納品だった。
「どうせだから、あんちゃん、神輿担いでおいでよ」と皆に言われた。
祭の用品を買うならば、浅草寺裏の「あだちや」がオススメだと教えられた僕は、ここで腹掛や股引、足袋などを買い揃え、納品先で神輿を一緒に担がせてもらった。

業平二丁目といえば下町だし、牛嶋神社の氏子なので、てっきり町内の方々は神輿など担ぎ慣れしていると思ったら、意外とそうでもなかった。威勢良く上下させながら担ぎ歩くというのではなく、ただ担いで歩くといった感じだった。時折バランスを崩して神輿を落としそうになるため、周囲に屈強な方々がついて歩いていて、とっさに肩を入れてくれる、そんな感じだったと記憶している。
それにしても時給頂いて、神輿を担がせてもらい、しかも町内会からご祝儀まで頂いてしまったのだから、大変恐縮した。その後も2~3回、納品のたびに担がせてもらっていた。

ある時、神輿師のSさんから言われたことがある。Sさんは当時僕よりも10歳ぐらいしか年は離れていなかったと思う。
「あんちゃん、大学なんてくだらねえよ。辞めちまってウチんトコの弟子になれよ。サラリーマンなんかになっても、俺の年収にはかなわないよ」。
当時SさんはBMWを乗り回していた。他にもう一台ベンツを持っていると言っていた。
「それも面白いかもしれないな」と思った。

1986年の春になると、日本橋高島屋のアルバイトがコンスタントに入るようになった。コッチのアルバイトは断わるに断れない諸般の事情があった。結局浅子神輿店のアルバイトは断念することになった。今から思えば実にもったいないことをしたと思うけど、当時の僕には「人生でやってみたい色々なこと」に優先順位を付けれるほど大人ではなかった。

その後の浅子神輿店はこんな感じだ。
1986年秋、浅子神輿店では東京都三鷹市の下連雀八幡大神社のため神輿を製作した。当時の値段で1億円。日本最大の神輿であり、鳳凰の目がダイヤモンドということもあり、これはギネスブックに掲載されて話題となった。
1989(平成元)年、15代が亡くなられた。新聞に大きく記事が掲載されていた。自転車で駆けつけてご焼香だけさせて頂いた。たしか先代のお子さんはお医者さんなどになっていて、後継者はいないはずだ。今後どうするのだろうと思っていたら、奥様が16代浅子周慶を襲名することになった。日本で初の女性神輿師の誕生だった。
1992年(平成3)年、浅子神輿店は富岡八幡宮のために日本一の神輿を製作した。重さ4.5トンのこの神輿を担ぐのに必要な人数は200名以上と言われている。この神輿が何度担がれたのかはわからないけど、現在は担ぎ手も不足していて、富岡八幡さんの境内に展示されているのみのようだ。

あれから23年という歳月が流れた。
僕は関西で10年以上を暮らし、当時のことはすっかり忘れていた。ふとインターネットで「浅子神輿店」の今を調べてみた。そうしたら、「外神田探検隊」さんのblogにこんな記事があった。
行徳 浅子神輿店幕を閉じる①
行徳 浅子神輿店幕を閉じる②
行徳 浅子神輿店幕を閉じる③
すでに16代浅子周慶だった奥さんも亡くなられて、昨年500年にわたる歴史に幕を下ろしたのだという。ここにお店の前でご遺族の方(お子さんたち?)が遺影を持っている写真があるが、右側のベレー帽の方が懐かしい先代だ。そして左側の遺影が奥さんだ。
言葉にならなかった。

朝日新聞の記事なども参考にすると....
2006年4月、16代浅子周慶を襲名した先代の奥さんは突然亡くなられた。ここ8年ほど、母親の仕事を手伝っていた次女の海江田八千代さんが、生前に受注していた20基の神輿を職人さんに手伝ってもらって仕上げた。
2007年10月28日、ついに浅子神輿店は500年の歴史に幕を下ろした。
そして本年5月8日付けの記事によれば、歴史を刻んだ本店および作業場の土地を市川市が購入し、「神輿資料館」として再生するそうだ。

1985年、バブル経済が絶頂を迎えようとしていた時代、たしかに僕は下町の神輿屋さんで働いていた。

参考リンク:
市川市:千葉県指定伝統工芸品(サイト現存)
行徳、妙典を歩く:行徳の古い町並み紹介
NHK「美の壷」:神輿
浄土宗新聞:女手で500年の伝統を守っています(PDFファイル)
浅草雄山会:江戸神輿コレクション

2010年10月15日追記
コメントを頂戴した「ふくいのりすけ」さんのblog”Norisuke’s Eye“の記事【 行徳寺町17 世界に誇る行徳の伝統事業 -神輿 】によると、今年2010年7月に浅子御輿店の店舗兼主屋の方が国の登録有形文化財に指定されたとのこと。アサヒコムの記事によれば、「今後、街並み散策の拠点として利用される計画」という。 再びあの懐かしい建物に入れるのかもしれない。