水島広雄さんの死とそごうの悲劇

8月21日の新聞の片隅に「そごう元会長 水島広雄さん死去」という訃報が掲載されていました。僕はその名前を見て「えっ、まだ生きていたの!」と大変驚いた一人でした。

そごう(現そごう・西武)の社長、会長を務めた水島広雄(みずしまひろお)さんが7月28日、心不全のため東京都内で亡くなっていたことがわかった。102歳だった。葬儀は近親者で行った。(朝日新聞)

水島広雄そごう元会長‬死去
「まだ生きていた」というのは失礼かもしれません。でも僕の脳内ではこの人の名前はずっとずっと大昔の存在となっていたし、感傷に浸る気も起こらない浮ついた時代を象徴する名前だったからです。

1989年、時代ばバブル経済の絶頂期でした。
就職は「売り手市場」と言われていました。僕はそんな時代に就職活動を行った一人でした。
あれ、何て言う本だったでしょうか?リクルート社から無料で各社の社員募集広告をひとまとめにした本が送られて来るんですが、何とそれが分厚い百科事典大の厚さで10冊ぐらいセットになってドーンと届くんです。そのボリュームの凄さに仰天したものです。就職活動をする側にすれば、こんなに恵まれた時代はなかったわけです。

ちょっと話はそれますが、こうした募集記事の中で一番インパクトがあったのが山一證券のものでした。これがまさにバブル時代を象徴する記事だったのです。ドキュメンタリー形式で書かれたその記事は、昭和40年の日銀特融(通称:山一特融)について書かれたものでした。ここでは簡単に説明しますが、昭和40年の5月、山一證券の経営が最悪の状況に陥ったことをマスコミがリーク、一気に信用不安が広まって取り付け騒ぎが発生しました。これに対して日銀が特別な融資を行ったことで、経営破たんを回避したという事件でした。

なぜ山一證券は、新入社員を募集する記事にこのような自社が直面した経営危機をドキュメンタリー形式で書いたのでしょうか?不死鳥のように蘇ったことを強調したかったんでしょうか?そうではありません。記事の最後の方にこのような内容のことが書いてあったのが忘れられません。
「当社が経営破たんすれば、日本の金融システムが崩壊しかねない。だから国は特別融資を実行した」「それだけ社会の中枢にある当社は、君たちにとって安心して社会を動かせるやりがいのある場所だ」ということでした。
しかし、この記事は言外で「困った時には国が助けてくれます。ウチは絶対に経営破たんすることはありませんから」。そう言いたかったのです。

これは僕の脳内で結びつけた推定ではありません。
実際に企業説明会に行った友人は「ウチは絶対に潰れません」というのを聞いています。「一週間拘束されれば、内定が取れる」と学内で噂のあった企業のひとつでもありました。僕からみれば山一は僕には手の届かないような超一流のエリート企業だったし、実際には優秀な先輩たちが数多く就職していました。数字が苦手な僕にとっては金融・証券業界は「行ってもチンプンカン」な場所でしたから、ハナから志望業種ではなかったのですが、この記事を読んだ時の違和感みたいなもの….「国のお金で助けられたのに何言ってんだ」というようなものではなくて、「絶対に潰れない」という言葉の持つ危うさ…..それが今でも強く印象に残っています。
140824
そんなバブル経済絶好調の時代に、もうひとつ忘れられなかった企業が百貨店の「そごう」でした。そう、亡くなられた水島さんが会長だった時代のそごうです。
僕は大学生の4年間を通して日本橋の高島屋でアルバイトをしていたため、流通・小売業にはとても魅力を感じていましたし、可能な限り沢山の流通・小売企業を回ってみようと考えていました。「今年は大量採用をするらしいから、ソツのない面接をしておけば内定貰えるらしい」と噂されていた企業でして、この業界を志望する学生の間では「とりあえず企業説明会へ行く」というのがセオリーだったのです。

説明会場は虎の門あたりのビルだったと記憶しています。
印象に残ったのは、人事の方が諸手をあげて水島会長をカリスマ経営者として紹介していた点でした。それはそうでしょう。水島さんは1962年にそごうの社長に就任して以来、すでに27年もこの会社に君臨していたわけです。1980年代以降、水島さんの手腕によって首都圏周辺部と全国への出店攻勢を積極的に行い、そごうは急激に拡大をしていました。社内で「神様」「天皇」と呼ばれていたのは有名な話ですし、会社として「水島戦略」を何がなんでも実行してゆこうとする気迫に満ちていたのです。

たとえば人事の方が披瀝したのが「トリプルそごう」という構想でした。「そごう」とは漢字で「十河」….あっ、これだと国鉄総裁ですね…..ええと「十合」と書きます。「トリプル十合」ですから三十を意味します。全国に三十店舗を展開し、日本最大の百貨店ネットワークを築き上げるという構想でした。

人事の方がこういう質問をしました。
「皆さんは”立地”と”店舗の規模”とどちらを優先させますか?」
その意味はこういうことです。駅から近い好立地に中小規模の店舗を出店させるか、駅から遠くても大規模店舗を出店させられるスペースがあるのならば、どちらを優先させるか?という問いかけです。僕自身はアルバイト先の経験があるから「立地」だと考えたのですが、人事の方はこう言いました。

「規模が大きければ、立地は付いて来るんです」

駅から遠くても大規模な店舗を立てれば、品ぞろえの充実した店舗の魅力によって、自然と客はそこに集まってくる。集客力のある場所は自然と「好立地」となってゆく。我々は「好立地」作りを目指すのだ。そして土地は値上がりすれば企業としての資産価値も増す。人事の方はそう説明してくれました。その時は「へぇ~そういうものなのかねぇ~」と思う位でした。だって正解を目の当りに見たわけではありませんからね。

この年、そごうは噂どおり千人もの大量採用を行いました。この数は日本の企業の中でダントツの数字だったと記憶しています。

当時、僕が回った企業の中で、全く対照的だったのがジャスコ(現イオン)でした。まだ本社が神田の雑居ビルに入居していた、そんな時代の話です。
会社説明会で印象に残ったのは「ウチの出店方針は”大黒柱に柱をつけろ”です」という話でした。この言葉はもともと、会長の岡田卓也さん(克也さんのお父さん)が、三重県の四日市で経営していたスーパー「岡田屋」(元々は呉服屋さん)に代々伝わる家訓だったそうです。お店の大黒柱に車をつけておけ、ということが意味するのは、その場所で商売が成り立たないようだったらさっさと移転できるようにしておけ、という意味です。これが英語になると「スクラップ&ビルト」という言葉になるわけですが、早い話が「土地は買うな。借地に店舗を建てよ」ということです。その精神は深いところには「いつも経営に柔軟性を持たせておけ」ということがあるわけです。

水島さんのそごうも、中内さんのダイエーも出店に際して土地を取得するというのが特徴でした。それは景気が良い時にはアリです。地価が上昇すれば資産価値も増すのですから、銀行の信用も増えるわけです。それを担保に次の出店が狙えます。ただ肝心の店舗の売上が悪化した場合は、徹底的にテコ入れを行わなければなりません。時にはリニューアルを行い、時には売場の入れ替えを行い、テナントの整理統合も行わなくてはなりません。

この企業説明会でもうひとつ印象に残った言葉があります。人事の方が「ウチにはまだきちんとしたマニュアルがないんですよ。たとえば店舗でお客様がお皿を落っことして割ってしまったとします。ヨーカ堂さんは徹底的なマニュアルとコンピューター管理が特徴ですから、店員さんがかける言葉は”お怪我はありませんでしたか?”と全員一緒です。ところがウチときたら店員によってまちまち。まあこういういい加減なトコロもありますが、これからの会社だってことなんです」。

当時は就職先として「これは」と思った大手スーパーと百貨店とでひとつずつ内定を得た上で、どちらに行くか判断しようと考えていました。もうほんとこういう綱渡りができる時代だったんです。ダイエーは「巨人」ではあるけどもう古臭い。イトーヨーカ堂(現セブン&アイ)は緻密な戦略とコンピューターによる徹底した商品とヒトの管理でダイエーを追い上げつつあるけど、自分には向いてなさそう。ジャスコはなんだかアバウトで「これから」なところがあって自分の性格にあってそうな会社だ。社内に「ジャスコ大学」というのを作って従業員の教育に熱心なのも面白そう。そんなことを感じたので、古本屋で岡田卓也さんの「大黒柱に車をつけろ」という本を買って読みふけったのを覚えています。岡田さんにはその後も影響を受けました。ずっと後の事ですが、1996年に僕は尼崎の商工会議所で行われた岡田さんの講演会を聞きに行っています。

最終的に僕の就職活動は高島屋を取るか?ジャスコを取るか?という二択となりました。これは本当に決めかねる判断だったし、自分なりに相当悩んだのですが、結局高島屋を選びました。アルバイトをしていたので多少なりとも勝手を知っているということもあったのですが、1989年当時はあの老舗ブランド力には勝てなかったんです。

でもそんな選択は思わぬところから崩壊しました。単位の計算を間違えて大学を留年してしまったのです。全くバカですね~。これは浪人に続いて人生で二番目の大きな挫折でした。わずか4単位で進むべき道を失ってしまったわけです。高島屋の内定は取り消され、もう一年就職活動をする羽目となりました。それでも自力で大手の食品会社に就職できたのは、よっぽどのんびりした時代だったんだと思います。

これは余談ですが、僕はその食品会社に勤務している時に社内恋愛をして結婚し、いま2人の娘がいます。よく冗談で「君たちは大学で単位が4つ足りなかったから生まれたんだぜ」と言います。僕の祖父があと数センチ座る場所が違っていたら、僕がこの世に存在していなかったのと似ています。人生とはなるようになるし、ならない時はならないし、何がどこでどうなるかなんてわかりません。「禍福は糾える縄の如し」って言葉がありますが、本当にそういうものなんだと思っています。ひとつ言えるのは「絶対」なんてことはない、ということです。

そう「土地の価格が上がり続けて資産価値も増え続ける」なんてことも絶対ないわけです。

食品会社というところは、お店に商品を扱ってもらい、売ってもらわなければ成り立ちません。89年には就職活動で回ったような「流通・小売業」者に、今度は頭を下げて回って自社の商品をお店に並べてもらうわけです。僕はその事には別に抵抗を感じませんでした。むしろ客観的な立場でお店を見ることができるというのは、僕にとっては新鮮なことでした。

食品会社は「モノヅクリ」という地味な業種ではありますが、案外な「したたかさ」もあります。時代にあわせて販売チャネルを変更しながら世の中を渡りきるというしたたかさです。商店街の小売店でモノが売れる時代であれば、そこに営業の力を注ぎ、スーパーマーケットの時代になれば、本部のバイヤーに頭を下げに行く。コンビニが全盛になれば商店街の小売店の店先は素通りです。

バブル経済が崩壊する中、そういう「したたか」な視点からその後のジャスコとヨーカ堂の成長、ダイエーの凋落、水島さんのそごうの急激な地盤沈下を見てきました。

「規模があれば立地はついてくる」。いま振り返ってみると水島さんの経営戦略は「正解でもあり不正解でもあり」というのがひとつの答だと思います。駅前の商店街は「シャッター通り」になっていて、街の中心部を迂回するバイパス沿いに大きなショッピングセンターが建っているというのは、特に地方都市でよくみる風景です。
でも、それは主に日用品を扱うスーパーマーケット形態の店舗に効果的でした。耐久消費財や嗜好品といった「買回り品」を扱う百貨店形態のお店にはあまり実効性はなかったのです。

それは地元の方の証言からも感じられました。食品会社の営業時代に仕事で何度か奈良へ行くことがあったのですが、あるアイスクリーム卸店の社長さんと「奈良そごう」の話題となりました。1993年の話です。1989年に開店したこのお店は、そごうにとっては「大看板」とも言える店舗でした。会社説明会でもその規模の大きさと立派な内装について誇らしげに強調していたのを覚えています。一方でターミナルの近鉄奈良駅からは2kmほど離れており、交通には不便な場所でした。

(奈良そごうは現在イトーヨーカ堂になっている)
奈良そごうに対する社長さんの反応は冷淡でした。
「そごうなぁ~、開店した頃は2度ほど行ったけど、特に買うものもあらへんしなぁ~。それより、あの店ができてから国道24号が渋滞になってかなわんで~」
「じゃあ、ルート(配送)にも影響が出ているんじゃないですか?」
「出とる、出とる。あそこは抜け道がないんや。ほら近鉄の踏切と平城京が邪魔しとるやろ」
「確かにそうですね」
「あんた、一度(そごうに)行ってみるとええ。駐車場止めるのも難儀やで~」

水島さんが強調した土地の資産価値というものも決して当てにはなりませんでした。バブル経済が崩壊した後、本業の百貨店事業が低迷する中で、それ以上に資産価値は大きく減少し、経営そのものを圧迫したのです。

ちなみに奈良そごうにとどめを刺したのはジャスコ(現イオン)が近鉄百貨店とコラボした「奈良ファミリー」のリニューアルでした。

「絶対の安定」なんてありません。1990年代は何もかもが悪夢のように過ぎ去ってゆきました。
1997年に山一證券は経営破たんから自主廃業。そごうもまた2000年に2兆円近い負債を抱えてグループ企業の大半が倒産しました。水島さん自身も破産してしまいました。このニュースは僕にとって衝撃的でした。もちろん企業説明会の華やかで強気の企業姿勢、その記憶がオーバーラップしたからです。まさに平家物語でいう「諸行無常」の世界ですね。あの衝撃は今の自分を構成する大きなエレメントになっていることは間違いありません。

水島さんは「一代の傑物」でした。一代でそごうを日本最大の百貨店ネットワークに成長させ、一代で奈落の底までそごうを突き落としました。経営者としては強引すぎる手法でその手腕を発揮した人であり、また意外や意外、法学博士としても企業担保法の権威であったし、石田純一や浅野温子なんかよりバブル経済絶頂期の象徴的な人物でもありました。そして従業員にとっては「神様」であり「A級戦犯」でもありました。夢も悪夢も与えた人だったのです。時代が時代だっただけに、もうこういう方はなかなか出てこないんじゃないかと思います。

この方の訃報に「えっ、まだ生きていたの!」と驚いたわけですが、考えてみれば忘れてはいけない方ですね。「何が正しくて、何が間違っていたんだろう」と考えた時に、学ぶことは大きいと思うのです。二度と「そごうの悲劇」を起こさないためにも。

コメント

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。

*

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.