福井陸軍大演習の昭和天皇(5) -自動車鹵簿(ろぼ)は進む、もしくは桐生事件のこと-

福井陸軍大演習の昭和天皇(4)-松尾伝蔵、岡田啓介そして鈴木貫太郎-」の続き

これからいよいよ神事についても書いてゆくことになる。
幸いなことに藤島神社で宮司代務をされている新田義和さん(@fujishimashaji)がTwitterをされているのをを発見。リプを入れたところ、ありがたいことに記事を読んで下さったようで、興味深い話や最新の同アングルの写真を頂くことができた。その事などを記事に反映させつつ、言い間違いや勘違いなどは訂正頂けたらうれしいなと思いつつ続ける。

【写真に写っている人数】
藤島神社の昭和天皇
あらためて祖父の写真を見てみる。一体何員写っているんだろう?と思い、必死になって数えてみた。最大解像度で7207×5405ピクセルでスキャンしたものを拡大しながら、何度も何度も数えてみた。耳だけ確認できる人、帽子だけ確認できる人、誰かがいると推定できる人、そういうのを地道に数えていったら、人数は36人となった。なお、木の向こうに立っている人は皇宮警察官と思われるのでカウントしなかった。
昭和天皇藤島神社行幸
(数えてみれば苦労がわかるはず)

服装から推定&確定した内訳はこうなった。
宮司:1名(先頭)
天皇:1名
侍従もしくは海軍軍人:19名
陸軍軍人:12名
明らかに海軍軍人と思われる人:2名(白襟の軍服を着用)
無帽の燕尾服姿:1名(後方階段)

【お迎えした方々】
天皇の車列、すなわち「略式自動車鹵簿(ろぼ)」は、足羽川を幸橋でわたり、毛矢町四ツ辻(毛矢交差点)、孝顕寺前(お寺の位置は現在と違うが、相生交差点と思われる)を経て、藤島神社一の鳥居前へ到着した(距離にして1.8km、Google mapでの所要時間は7分)。
幸橋を渡る略式自動車鹵簿
(幸橋を渡る略式自動車鹵簿=「昭和8年陸軍特別大演習記念写真帖」より)
略式自動車鹵簿 順列
(略式自動車鹵簿の順列)
記録によれば、それは10月28日午前10時9分のことだった。
「福井県記録」「福井市記録」を重ねあわせて再度整理すると、御料車を降り立った天皇をお迎えした人たちのうち、名前が確認できた人は以下の7名。
佐藤 東(あずま)(藤島神社宮司)
松平康昌(侯爵・越前松平家当主)
新田義美(男爵・岩松新田氏当主)
岡田啓介(海軍大将・元海軍大臣・翌年より内閣総理大臣)
石田 馨(内務省神社局長)
並川義隆(内務省福井県学務部長)
中村清二[推定](物理学者・東京帝国大学名誉教授=ただし記録では「中村東大教授」とのみ記述されている)
藤島神社一の鳥居 by Google
(藤島神社一の鳥居 by Googleストリートビュー)
140910_fujisima_torii
(一の鳥居の神額。新田義和宮司代務(現宮司)様ご提供のもの。新田さんによれば、この額は有栖川宮親王の書によるもので、元々「中門」….つまり祖父の写真に写っていて解読する唯一の手がかりになったもの…..を空襲で被災後に一の鳥居へ移したのだそうだ。)

【昭和天皇とその供奉員たち】
いっぽう天皇の側はどうだろう?
まず「福井県記録」の方には「福井特別大演習」において供奉員28名のリストがあった。
福井特別大演習供奉員リストその1
福井大演習供奉員その2
(「福井県記録」による供奉員のリスト。二枚目に宮内大臣秘書官として町村金五の名前がある。元官房長長官町村信孝のお父さんだ。)

この28名が全員同じ行動をしたわけではない。天皇が行幸しきれない場所に関しては、勅使すなわち使者を派遣するという「勅使御差遣(ちょくしごさけん)」というのがあった。この10月28日は、以下の3人が勅使として皇室と縁の深い場所へ「差遣」されていた。
甘露寺受長(侍従・伯爵)
小出英経(侍従)
中島鉄蔵(侍従武官)

それと、はたしてこの人たちは神社まで供奉するだろうか?という方々もいる。
野村利吉(主膳監=しゅぜんかん)
秋山徳蔵(厨司長)
「主膳監」というのを調べてみたら、どうも東宮つまり皇太子の食事担当らしい。こういう宮中の職制はよくわからないのだけど、少なくとも言えるのは明仁皇太子(今上天皇)が生まれるのはこの2か月後だから、なぜ「主膳監」がいるのかはわからない。秋山徳蔵は「天皇の料理番」として有名な人。中学生の頃に堺正章がドラマで演じていたのを覚えている。
この2名はおそらく天皇の料理に携わるのが職務であるから、行幸に同行するというのは、考えにくい。

残り23名のうち、明らかに藤島神社の一の鳥居まで行っていることが名前で確認できたのは以下の10名だ。あとは「其の他の供奉員」と書かれていて確認ができなかった。
鈴木貫太郎(侍従長・のち内閣総理大臣)
湯浅倉平(宮内大臣)
黒田長敬(侍従・筑前秋月藩13代当主)
本多猶一郎(子爵・行幸主務官)
岡本愛佑(侍従・戦後参議院議員)
本庄繁(侍従武官長)
桑折英三郎(海軍大佐・侍従武官)
町尻量基(陸軍中佐・侍従武官)
松永琢磨(侍医)
八田善之進(侍医・福井出身)

さらに供奉員ではないけど「列外」として同行した者が3名いる。
山本達雄(内務大臣)
松本学警保局長)
大達茂雄(福井県知事・のち小磯内閣内務大臣・吉田内閣文部大臣)

1名(天皇)+7名(神社側)+28名(供奉員)-3名(勅使)-2名(主膳監・厨司長)+3名(列外)=34名

という数字が出た。おお!なんか近いぞ。
実際のところ、そんなに話はうまく行かない。あらためて写真をみれば一目瞭然なのだが、ここに写っているのは侍従と軍人が多く、侍従以外で「文官」「学者」と言える人は一名しか確認できない。後方の石段にいる無帽燕尾服の人だ。
141009_enbi
その理由は150段の石段にあったかもしれない。

【石段】
今でこそ神社はもちろんのこと足羽山の山頂まで車で簡単に登れるようだが、新田さんのお話によればそれは昭和30年代以降のことだそうで、当時は150段の石段が神社への唯一の参拝ルートだったそうだ。

だから一行は石段を上る。佐藤宮司の先導で150段あまりの長い石段を上ってゆく。150段といえば、ビルの8階ぐらいの段数だ。

昭和8年当時、昭和天皇は32歳、侍従長鈴木貫太郎と海軍大将岡田啓介が慶応4年生まれの65歳だ。鍛錬をしている軍人はまだいい、物理学者の中村清二(推定)はこの日がちょうど64歳の誕生日、文官である内大臣の山本達夫に至っては安政3年生まれで最高齢の77歳だ。祖父の写真では侍従と軍人は多いものの、文官….少なくとも8名はいるはずだ…..がほとんど写っていないことを考えると、山麓で待機した者もいたのではないかと思う。

いっぽう、佐藤宮司の緊張といったらなかっただろう。いくら上り慣れた石段とはいえ今回はわけが違う。背後には天皇がいて文武百官を引き連れているのだ。想像を絶するシチュエーションだったろう。振り向くことは許されなかったはずだ。おそらくは何度も何度も繰り返した予行練習で体に叩き込んだペースと背後の気配だけを頼りに予定された時間内で上っていったのだと思う。

【昭和天皇誤導事件(桐生事件)】
昭和九年十一月陸軍特別大演習並地方行幸群馬県記録
(群馬県桐生市行幸。ここに当たり前のように書かれている「桐生工業高等学校」⇒「機織展覧場」というスケジュールは、本来全く逆だった。=「昭和九年十一月陸軍特別大演習並地方行幸群馬県記録」より)

「背後に天皇がいる緊張感」といえば、有名なのものに「昭和天皇誤導事件」がある。翌9年に群馬県で行われた特別大演習の際の出来事だ。

同年11月16日、天皇が桐生市に行幸した際に、先導した警察車両が道を間違えたという事件だ。
先導車は本来左折すべき交差点を通り過ぎてしまい、引き返すわけにもいかず、やむなく2番目に行く予定だった桐生高等工業学校に天皇ごと先導、最初に行く予定だった桐生西小(機織展覧会場)が後回しになったというものだった。

先導車両の責任者は群馬県警察部の本多重平警部。彼は本来の担当者が体調不良になってしまったため、前日になって急きょ先導役を仰せつかった上での不運だった。彼は桐生市の土地勘はなく、またルートを下見をする時間もなかった。おそらく予行練習を重ねていた運転手に頼ることにしたのだろう。

大きな地図で見る
(本来左折する予定だった「末広一丁目」交差点。ここを直進してしまった)

この事件に関しては松本清張が「昭和史発掘」の中でわずかだが触れている(「北原二等兵の直訴」の章)。ちょっと引用してみよう。

なぜ、このような誤りが起きたか。多分、先導の警部は緊張のあまりに、目が晦(くら)んだのであろう。予行演習ではさほどのことはなかったが、いざ当日になって自分の背後にお召自動車がつづいているとなると、その威圧感で警部の神経が瞬間に破壊されたのかもしれない。予行練習では覚えなかったことである。沿道には夥しい市民が堵列して迎えている。この異常さも警部を惑乱に陥れただろう。一説によると、張り巡らされた紅白の幔幕が西小学校に曲がるべき道の目標を塞いだため、迷いを起こさせたといわれているが、いずれにしても、天皇陛下を案内しているという意識が警部の判断力を混乱させたといえる。

今だから言えることだが清張の文章には肝心な点で誤謬がある。前述の通り警部は急きょ先導の責任者を仰せつかったのだから「予行練習」はなかった。彼の頭にあったのは「駅からメインストリートに出て二つ目の十字路を左」という程度のものだったと推測する。彼自身にも大きな緊張はあったと思うが、むしろ「破壊された」のは運転手の神経だったのだろう。

責任を痛感した本多警部は18日、天皇が群馬を離れることを知らせる号砲が鳴り響く中、のどをかき切って自殺を図った。清張は「誤導の不敬を冒した本多警部は、天皇が県下を離れるの碑、日本刀で割腹して果てた」と書いているが、事実ではない。

たしか昭和が終わった頃だったと記憶しているけど、新聞に本多警部の娘さんへのインタビュー記事が掲載されていた。「父は奇跡的に命を取り止めたが、咽喉に後遺症が残り、戦後になって食べ物が喉に詰まって亡くなった」という内容のことが書いてあり「うわ、清張の書いていることと違うじゃん」と思ったものだ。警察署長が馘になったという記述があるがこれも事実ではない(譴責処分)。月に何本もの掲載を抱えていた人気作家のやることだから、まあそんな誤謬は沢山あるわけだけど、その「史観」だけは今でも延々と生き続けているわけだ。

さて、本多警部の自殺。「なんでこんなことが」と思う人もいるかもしれない。僕だってそう思う。だけど「その時代の人間の感覚になってみないと理解できない歴史」というのは厳然として存在する。現在の感覚ではとうてい理解できないだろう。誤導事件は後に政争の材料に発展するような重大事件だった。

それだけの「重み」が当時の天皇にはあったということ、佐藤宮司もまたその「重み」を背中に感じながら、石段を一歩一歩上りつつあった。上れば今度は一連の神事が待っている。この人のプレッシャーはまだまだ続く。

福井陸軍大演習の昭和天皇(6)-藤島神社行幸-」へ続く。