野田城と「影武者」

大学時代の友人「バンコクいちろう」君の最近の趣味は「城巡り」。
彼の野望は財団法人日本城郭協会が選定した日本100名城を完全制覇すること。そんな彼...いや彼の野望に誘われて横浜から一泊二日六城(長篠、岩村、苗木、高遠、高島)という強行軍をしてきた。

バンコクいちろう君によれば、今は空前のお城ブームなんだそうだ。「天空の城」竹田城の影響が大きいらしい。
ま、お城ブームというのは昔からありそうなんだけど、今はあまり脚光を浴びなかったようなお城....石垣しか現存していないようなお城、縄張りが辛うじて残存しているようなお城、石碑だけが往時を伝えるようなお城でも行ってみる価値があるのだというところがツボだ。
その価値観はとても新鮮だと思ったし、たちまちその「価値観」の中で行ってみたい城選びをしている自分がいた。

「長篠城へ行くのであれば、野田城へも行ってみたい」。
と思ったのは理由がある。大好きな黒澤明の1980年作品「影武者」で、野田城が重要な舞台となっていたからだ。
黒澤明「影武者」
西上作戦を続ける武田軍は徳川方の野田城を包囲してライフラインと言える水の手を絶った。野田城内からは夜ごと笛の音が流れていたのだが、仲代達矢演じる武田信玄は「今宵も笛の音が流れるかどうか、この目で確かめたい」と自ら野田城へと赴く。笛が流れれば野田城は平静を保っており、そうでなければ城内に危機が訪れているという理屈だ。
影武者・野田城シーン
(「影武者」野田城を包囲する武田軍。撮影では熊本城が利用された)
ところが野田城内から轟いた一発の銃声が武田家の運命を大きく変える。深手を負った信玄は甲斐へ引き返す途中で息を引き取ってしまう。ところが織田・徳川方は信玄が亡くなったという確証を得ることができない。そして信玄の影武者となったひとりの男に翻弄されるのである。
信玄砲
(野田城から信玄を狙撃したと言われている「信玄砲」。新城市設楽原歴史資料館蔵)

実はこの「野田城の笛&狙撃」は黒澤のアイデアではない。野田城の戦いからずっと後に編纂された城主菅沼家の記録「菅沼家譜」に記されている。戦場に流れる笛の音と響き渡る一発の銃声というコントラストは、よほど黒澤の心を動かしたのだろう。こうしたエピソード....歴史的事実もくしくは勝者の作られた歴史...はいつも黒澤の映画作りのの発火点となってきた。
野田城
(実際の野田城)

じゃあ、教科書的史実ではどうなっていたのか?といえば、こうなる。
1573(元亀4)年1月、信濃から東三河に侵攻した甲斐武田軍は三方ケ原の戦いで徳川軍を打ち破った。そして2月16日、水の手を絶たれた野田城城主菅沼定盈は降伏し、いよいよ武田軍は徳川家康の岡崎城を射程距離に置く。しかし運命とは残酷なもので信玄の病状(結核とも胃がんとも言われている)は悪化しつつあり、ついに軍は甲斐へと引き返す。その途中、信玄は信濃国駒場(現在の長野県阿智村=諸説あり)で亡くなっている。

野田城攻防戦は信玄にとって最後の戦いとなったとともに、その後300年の歴史に影響を与えた運命の場所となった。

さて、そんな野田城。

所在は愛知県新城(しんしろ)市。愛知県の最西部に位置する市で北東から南西へかけて伊那(三州)街道が貫いている。

考えてみれば甲斐武田氏にとってこれほど鬼門な地はなかったろう。信玄の死から2年後、武田勝頼は長篠・設楽ヶ原の合戦で織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に壊滅的な打撃を受ける。激戦地となった設楽ヶ原は野田城からはわずか4kmという場所だ。そう「影武者」で山崎努演じる武田信廉が顔面蒼白になったところだ。
勝頼蒼白
(人間ここまで顔面蒼白になることは滅多にない)

伊那街道(旧道)を豊川方面へ進み、道路右側にこのような案内看板があるところを左の細い道へと入る。やや進むとこんもりとした森が左側に迫ってくる。これが野田城だ。
野田城
(「武田信玄 最後の城攻め・上洛断念の地 野田城跡」by Google Map)
伊那街道側から進むと三の丸、二の丸、本丸の順番に連なっている。

(野田城の縄張り図 wikiより)
ただし三の丸は物凄い藪。数歩踏み込んで退散。取り付きが良いのは整備されている二の丸からだ。
野田城跡
(二の丸入口にある看板)

二の丸から入ると本丸との間の空堀と土橋が残っていた。
野田城二の丸からの土橋
(二の丸から本丸に至る土橋。両側は空堀となっている)

野田城が廃城となったのは1590(天正18)年だというから、以後500年もよくこのままで残っていたものだ。
いや、僕がこういう城を見ることが滅多にないだけで、世の中には現在も面影を残している城址は沢山あるのかもしれない。
野田城 空堀
(野田城空堀を見下ろす)
野田城本丸
(野田城本丸)
本丸に出るとやや広い広場となっていて、イベント用の舞台がブルーシートで保護されていた。
後で知ったのだけど「野田城伝」という古城で笛の音を楽しむイベントが、年に一回行われているらしい。
野田城・信玄狙撃場所
(野田城・信玄狙撃場所)
何と、こんな誇り高い説明板も立っていた。
もし信玄銃撃が事実だとすれば、徳川家500年の歴史に安泰をもたらしただけではなく、日本の歴史を変えた一発だったことになる。もし信玄が健在であれば徳川家は岡崎城で滅ぼされ、織田家も東西からの挟み撃ちでただでは済まなかったはずだ。ただし信玄が入洛後に皇室の力を利用して天下へ政治力を発揮できたかどうかは未知数だし、西日本を平定するための海戦は、およそ武田軍には似合わない戦となっただろう。
野田城井戸
野田城井戸
(野田城・井戸)

城を見終えたら、岐阜県恵那市にある岩村城まで行く2時間のドライブが待っていた。近くの法性寺というお寺に移築された野田城の門があることも「信玄が狙撃された場所」があることも知らずに、さっさと出発してしまった我々だった。

コメント

  1. 黒澤明の映画は、必ず実体験が基になっています。
    『悪い奴ほどよく眠る』での、三船の父親が上司の汚職の責任を取らされての自殺も、黒澤の父黒澤勇氏が、大正博覧会の赤字の責任を取らされて日本体育会をクビになったことが基になっていると思う。それは当時日本体育会の総裁だった閑院宮家の不正経理等を押付けられたからではないか。
    その証拠に、警視庁の取調を黒澤勇氏と共に閑院宮家の家令が受けているからです。総裁と言っても名誉職で実務は無関係で、宮家の家令が警察の取り調べを受けるのは異常で、しかもこの事件は最後は有耶無耶になってしまうからです。

  2. spiduction66 より:

    >さすらい日乗さん
    コメントありがとうございます。
    黒澤の映画にある「発火点」を例示すると文章が長くなってしまったので割愛しましたが、頭に浮かんだのは「七人の侍」とか「悪い奴」でした。そのエピソードは御著や直接お話しでも伺いましたが、画家時代からの黒澤が一貫して持ってきた反骨心を象徴する事件だったのだと思います。伝記本では書かれていないことが多いだけになおさら印象に残っています。一番ヒットしそうな時代劇を避けて、あえて黒澤プロ第一作に社会派劇を持ってきたことの理由もそれなのでしょう。

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