指田文夫『小津安二郎の悔恨』と原節子の「男」

黒澤明の映画は全作品を繰り返し繰り返し見ているのだけど、どうも小津安二郎の作品となると数えるほどしかない。はっきりその内容を覚えているのは『長屋紳士録』『東京物語』『浮草』ぐらいだろうか?それ以外にも何本かは見ているはずだけど、そのどれもが家族劇だったという記憶だけがあり、何がどういうタイトルだったかは思い出せない。そんな希薄な前知識の中で指田文夫さんの三冊目の著書『小津安二郎の悔恨』を読ませて頂いた。
「浮草」
(『浮草』印象的なカット)

日本の様々なサブカルチャーの流れは太平洋戦争で一旦は中断したものの終戦によって再び息を吹き返す。戦前文化と戦後文化は別々のものではなく一貫した流れの中にあるというのは紛れもない事実だ。その線上に戦前の第一次昭和モダニズム世代も、戦後の太陽族世代もいる。
おのおの世代の若者がおのおのの文化を謳歌していたというのが、この書を読む上での大まかな「地図」となる。

指田さんは小津安二郎の作品として一般的に評価が低く映画全体に暗さがみなぎる『東京暮色(昭和32年)』をとりあげる。

(『東京暮色』冒頭クレジット)

『東京暮色』は若者のある破滅を描いた作品なのだけど、そこに実は戦後の無軌道な太陽族に代表される若者文化への小津なりの「悔恨」があるとする。「警告」でもなければ「賛同」でもなく「悔恨」であるという所がポイントだ。小津自身が「ジャズ・モガ・モボ」に代表されるような第一次昭和モダニズム文化を謳歌しており、そんな中で『非常線の女(昭和8年)』に代表されるような、無軌道な若者の群像劇を描いているからである。逆に言えばそうした戦前モダニズム文化の延長線上に太陽族文化もあるわけで、現在の若者の無軌道ぶりの遠因はそもそも自分たち(の世代)が作り出したものなのだという小津なりの「悔恨」が『東京暮色』には込められているのではないかという大胆な推論である。

(『非常線の女』全編。もうヒッチコックの映画かと思いそうなバタ臭さ)

世代論というヤツは語るほうも語られる方も、やもすれば思考停止になりがちなので、個人的にはあまり好きではない。好きではないのだけど、自分自身に置き換えてみることにしよう。僕の世代からある世代に対しての「悔恨」ということについて考えてみよう。

僕はバブル経済の最終期に就職しているから、ちょっとは恩恵を受けた世代だ。もっともサラリーマンになってからは苦労のしっぱなしで客先からも上司からも「あの頃は良かった」なんてグチを散々聞かされる世代でもあった。僕の友人などは「最初のボーナスが最高額で、その後どんどん減っていった。ボーナスとは減ってゆくものなんだと思った」なんて言っていた。

そんなバブル最終期世代が、他の世代に対して悔恨した点があるとすれば、ポストバブル世代が進学や就職で苦労していることに対する漠然とした贖罪の気持ちだろう。「贖罪」と言ってもそんなに強いものでもない。「我々はちょっとは美味しい思いをしたけど、彼らはかわいそうだなぁ~、なんか悪いなぁ」ぐらいの気持ちだ。それを言うならばむしろ土地の高騰に狂乱したもっと上の世代の方々がもっと責められるに値する。あっこれ思考停止状態ね。たまたま僕はポストバブル世代の子供たちを部下にして通算20年(CDショップで学生アルバイトをしてくれた世代が、僕の会社の社員世代と一緒)近く一緒に働いていることもあって、彼らにはそれなりの思い入れがあるわけだ。

これを小津の世代に置き換えるならば、いたずらに海外の文化を受容しモダニズム走った反動として、日中戦争を背景としたナショナリズムの勃興がある。やがてそれは敗戦にまで至るわけだ。その点を小津が「悔恨」するということは考えられるのではないか、とは思った。
非常線の女
(『非常線の女』の田中絹代と岡譲二)

むしろ太陽族ブームは、小津にとっては自分たちが最初に火つけた文化の再興隆という所があり(現在だったら「戦前にも太陽族はいた!『非常線の女』にみる破滅的な若者たち」なんてコピーでリバイバル上映されるかも)。ある意味歓迎すべきことだったんじゃないかと思った。しかしその一方で嫉妬の感情もあっただろうし、自分の「若気の至り」という反省や後悔も入り混じった愛憎相反する複雑な感情があったことは間違いない。指田さんはそうした感情の中から「悔恨」という部分を抽出したのだろう。

(『東京物語』全編)

この書で衝撃的だったのは『東京物語』のに登場する戦争未亡人の原節子(先週訃報が流れたばかり)のことだ。
彼女は東京に状況してきた義父母に実の子供以上によくつくす役どころだ。映画の中では触れることはないのだが、実はこの原節子役には「道ならぬ恋」で付き合っているの男がいたのではないか?というのが指田さんの指摘だった。これには驚いた。「言われてみると確かにそうかもしれない」と思えることだったからだ。指田さんは別の小津作品(『早春』)においても戦争未亡人がすでに他の男とできていたいうエピソードを紹介している。
原節子
僕の家内も一緒に『東京物語』を観ているので、この件を言ってみた。ちなみに家内の「小津度」だが、僕と同程度プラス「生まれてはみたけれど(昭和7年)」も観ているレベル。

僕「あのね、指田さんがこの本で面白いことを書いていたよ、『東京物語』の原節子には実は男がいるんじゃないか?って。」
そうしたら家内が逆に驚くように言った。

家内「えっ、いないと思ってたの?」
僕「えっ....」
家内「いるに決まってるじゃん」

これには驚いたな。彼女は続けて言った。

家内「あんな綺麗な人に男がいないわけがないわよ。かと言って自立して生活できているようだから(商社勤めのOL)あえて再婚する理由もないなと思って観てたわ。ラストシーンの意味深な会話なんてまさにそれを暗示していたじゃない。だからこそあの映画は面白いのよ」。

ふうむ、これが女性のカンというやつなんだろうか?
実は先日、著者ご本人も交えた出版記念トークイベントに出席したのだけど、そこでの意見も真っ二つという感じだった。これは伝聞だけど、打ち上げの席上で、ある小津ファンの女性は「男はいないでしょう」と仰っていたそうだ。つまり女性によっても解釈はまちまち、ということになる。

ちなみに私も本当の祖母を昭和21年頃に病で亡くしている。4人の子供を抱えた祖父は戦争未亡人と再婚し、その人はわが子のように子供たちを育て上げた。
このことは「祖母...昭和20年、夏 」に書いたことがある。

上の会話には続きがある。
僕「じゃあ、お前も俺が死んだら、さっさと他に男を作るの?」と尋ねたら、
家内「いやいや、面倒なのはもう沢山、一人の方が気楽でいいわ」
東京物語
はぁ~