おでん研究から始まるネットワーク

数日前のことだが「おでん研究家」の新井由己(あらいよしみ)という人が、ひき逃げの容疑で逮捕されるという出来事があった。

3月26日に湯河原の国道135号で88歳の老婆をはね、そのまま逃走してしまったそうだ。
彼がどのような状況で老婆を轢いてしまったのかはわからない。
あの現場は時々通るけど比較的見通しのよい直線道路なのに「なぜ?」という疑問は残る。

まず思ったのは「他人事じゃないよ、これは」ということ。
僕も運転中に老人の予想外の横断にヒヤっとした事は何度かある。
正面に対向車線から横断してくるのが見える、こちらは警戒して速度を落とす。
案の定だ。中央線で立ち止まると思いきや、そのまま横断してくる。
あるいは無理やり通り抜けようといきなり駆けて出してくる。

これはもう運みたいなものだろう。未来永劫確実に避けられるだろうか?と考えるとその自信はない。
轢くのも、そして老人の運転する車に轢かれるのも「運」ってことだ。
報道されている範囲だけで捉えるならば、彼は運悪くお祖母さんを轢き、その運命を受け入れずに逃走した。

事件のニュースを聞いてもうひとつ思ったことがある。
この世の中に「おでん研究家」なんて職業あるのか?ということだ。

好奇心から彼のサイトを辿ってみた。
そんな中にあったのが「アクティブホームレス」というキーワードだった。「おでん」のことはどうでもよくなった。

彼は自分の「アクティブホームレス」という生き方の資金をクラウドファンディングで集めたばかりだった。
そこにはこうあった。

自分自身をみんなにシェアしてもらう「自分シェアリング」を始めるために、移動手段と寝場所を兼ねた「トラックハウス」をつくりたいと思っています。来春から、大工仕事、写真撮影、Webデザイン、マッサージなど、僕ができることを無償で提供し、ダーナ(寄付)によって成り立つ暮らしを始める予定です。

うわぁ、面倒くさいなぁ~と思った。
自分の能力を無償でシェアする、彼はこれを「優しさ」だという。それに対しての見返りは求めない。求めないけど「寄付」によって暮らしを成り立たせるというのだ。
彼はトラックハウスを作って全国を回りながら「人間の善意と優しさ」という貨幣では換算できない経済によって「アクティブホームレス」としての生計を立てるのだということだ。

きっと新井氏は全国に物凄い人脈やネットワークがあるのだろう。
本人の想定額を上回る金額(目標に対して139%、170万円弱)をクラウドファンディングで集めたことからもわかる。あっ、それって貨幣経済じゃんという部分はツッコマないように。
その中をトラックハウスで移動しながら活動することでさらに人脈を広げ、ご自分の能力をシェアすること(善意)とその見返り(善意)とで、生計を立てようという意図があったのだろう。

だけど、これってよく考えてみると面倒くさい話だ。
いま日本のどこにいるかもわからない新井氏に「大工仕事、写真撮影、Webデザイン、マッサージ」の依頼をするのであれば(あとは講演依頼なんかもあるようだ)、WEBで調べれば近所にプロの職人さんはいるだろう。まさか宮城県にいる新井氏に広島県から仕事の依頼をするわけにもゆくまい。だとすれば新井氏が巡回して近所に寄った際に「なにかお手伝いできることはありませんか?」「そうですね~屋根の庇が下がってきているんで修理してもらえますか」「最近肩がこって仕方ないのでマッサージしてもらえますか」という展開となるだろう。

修理してもらって、タダで帰って頂くわけにもゆくまい。
そうすると新井氏に寄付をするわけだけど、寄付というからには現金でも米でも味噌でも野菜でもいいということになる。仮に現金だとしたら幾ら払ったらいいのだろう?1000円というわけにはゆくまい。5000円ならいいかな?いや1万円ぐらいだろうか?、モノでもよいならお米はどうだろう?5kgかな、10kgかな?
えっ、新潟を回ってきたらお米は沢山持っていますって?だけど炊飯器がないんですか?じゃあこれで炊飯器を買いなさいと1万円をお支払いする。
後でネットで調べてみたら、マッサージなら近所の人に頼めば5000円でできました、でも新井さんの手助けになったからいいやという「善意」。

これ、最初の一二回の訪問ならばいいけど、何度も何度も来られたらいくら新井氏が好きな人でも面倒だろうなぁ~と思う。

人間が今のような貨幣経済や資本主義の経済システムになったのは、人類の進歩(あるいは退化)に応じたものだ。
米や味噌ばかりもらっても炊飯器がなければ米は炊けないように(飯盒炊さんを毎日するのだろうか?)、現在は小売店が物流や在庫のコントロールをしているからこそ、我々は極端なモノ余りや極端なモノ不足に困らずに日々を生きることができている。気軽にコンビニでお弁当だって食べることができる。

「価格」というのもある程度適正な経済活動の結果だ。不当なダンピングや霊感商法的なものを除けば、その商品の価格というものは、それなりに正当な経済活動の結果としてそういう値段がついている。

人間間のコミュニケーションの形だって変化している。
回転寿司が流行るのは値段の安さという側面もあるけど、店員とのコミュニケーションが面倒だという時代の変化の側面も否定できない。

狩猟民族のように全国を動き、善意の交換や物々交換するような経済もひとつの実験としては面白いかもしれない。
だけど決して永続的なものにはなりえない。仮にこれが新井氏の実験だとしても、彼だからできることであって、人類の実験にはならない。
少なくとも私は、彼のような人間が地域コミュニティに来ても、最初はもの珍しさから歓迎をするかもしれないけど、次第に面倒になってゆくだろう。

彼は善意で物事を無償でしてくれる。こちらも善意で何かをお返しする。
実はこれって価格が一律で明確なサービスよりも、精神的なプレッシャーを伴うのではないだろうか。

もし事前に彼が訪れる時期がわかったら、彼を受け入れる人たちは、彼に何を依頼するのか考えなくてはならなくなる。
「何もないよ、さようなら」というわけにいかない得体のしれない束縛感。何か提供しなくちゃという得体のしれない義務感。
彼の善意が形成される下地はこういうものからできている。

中には新井氏とのコミュニケーションは何度でも面倒ではないと主張する人もいるかもしれない。それを楽しみにしていると主張する人もいるかもしれない。でも僕はそれも怪しいことだよなと思っている。それは一時的な熱気であって、時の経過はそれをを押し流してしまうだろう。

さて、世の中には「常ならぬものこそ価値がある」という考え方がある。
僕なんぞも「この世から忘れ去られてゆく何か」を扱うことが多いから、御多分にそういう部分はあるのだけれど、それを何かに対するアンチテーゼとして扱ったことはない。

彼の日々の言動を見ていると、常ならぬものへ価値を見出すのが実にうまいのであるが、その背景には政治的な臭いがする。既存の体制に対するアンチテーゼを感じる。それならばまだいいけど、自分の性的欲求を肯定したいがためにもっともらしい理由をつけたりして、どうも胡散臭い。
1960年代のヒッピーがこんな事言ってたな。

僕自身も性格悪いよなぁ~と思うのは、新井氏のFacebookを覗いてみたことだ。
だって検索結果上位に出てくるのだから仕方ない。
彼は原発反対論者で電気に頼らないエコな暮らしを心がけているようだ。
地方の活性化のためコミュニティをオルガナイズすることにも興味があるようだ。

僕のFB友にもこういう方が何人かいる。
自己主張が強く大変御立派なご意見を展開される。選挙の季節になるとヒートアップする。ストレートな政治発言を繰り返す。
やたらシェアするが、いくらかシェアに頼りすぎである。
そうそう、なぜだかわからないけどコメントで「シェアさせて頂きます」と言いあう人が多いのも、こういう方々に共通して言えることだ。

もうひとつ共通して言えるのは、ある側面に関してはやたらと掘り下げるし攻撃もするけど、自己に都合の悪い側面は何があっても無視する所だと思う。

僕が気になったのは、新井氏の「ネットワーク」がどういうものか?ということだった。
例えば熱心に彼のタイムラインにコメントを入れていた人たちが、今回の事件に対してどういう思いを抱いているのかなぁ~という点だった。

「悔しい」でも「騙された」でもいい。「ショックを受けた」でもいい。あるいは「新井さんは運が悪かった」「魔がさしたのだろう。私はそれでも新井さんを応援してゆく」みたいな「思い」だ。あるいは「老人の渡るような道路に交差点を設置しない国が悪い」とか、新井さんを応援しよう的な呼びかけとか….そういうものがあるのだろうかと思いながら、個別のタイムラインを辿ってみた。

不思議なことに、新井氏のFB友は、私のそれに比べて遥かに公開設定が緩くて、友達以外の誰でも閲覧できるようになっていた。
そうやってだどった結果、衝撃的な事実に気づいてしまった。

誰もがこの事件をスルーしていた。
何事もなかったかのように今まで通り自己主張を続ける、政治的発言をする、宣伝をする。新井氏が事故前も事故後も発言を重ねてきたのと同じようにだ。

いや、何事もなかったのではなく、ショックで書けないのかもしれない。
だけど、僕の読んだ印象はそうではなかった。本当に何事もなかったのである。

僕はそこに「ネットワーク」というもが持つ危うげな「何か」を感じずにはいられなかった。
彼らは自分を主張し合うことだけで繋がっていたのではないかと。

さて、新井氏は警察に対して「人らしき物体にぶつかった認識があります。動揺して今まで事故の申告ができませんでした」と供述しているそうだ。「人らしき物体」….あくまで自己を正当化しようとするこの言い方に、彼がイメージする理想の社会の怖さがあるのだと思った。