宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [3] -お墓発見-

宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [2]の続き

「自分はどこから来たのか?」
それを知らなければ「自分がどこへ行くのか?」を予測することは難しい。
原因がわからなければ、結果を予測することが難しいのと一緒だ。

こうして3500万人が住む首都圏に住み続けていると、なおさらそれを思う。
ここに暮らす人たちの多くは「よそ者」で、かつてどこかからここへ来たはずだ。

そんなよそ者たちの中で、自分のアイデンティティを保つためにも「自分はどこの誰なのか?」を考えてみる事は、意味のあることかもしれない。
宮城県 柳津
(柳津を通る一ノ関街道、道路正面の建物が小野寺本家のあったところ)

祖父、小野寺五一が郷里の柳津(現宮城県登米市津山町柳津)を出て仙台の宮城県第一中学校に入学したのは、今から104年前、大正2(1913)年4月のことだった。
以来、本人の故郷への想いはともかく、否応なしに「柳津」という場所は物理的にどんどん遠ざかっていったと思う。

時が流れ、世代も代わり、「記憶」「伝承」「縁」というものが途絶えかけていた中で、僕は偶然にも柳津という地を訪れた。
最初は「行ったからには少しは先祖の事を知っておこう」ぐらいの軽い気持ちだった。
ところが見えない糸に手繰り寄せられるように、どんどんとそれは核心に近づいている。

さて、お次は菩提寺。「明耕院」と書いて「みょうこういん」と読むらしい。
昨日は遠慮がちだったけど、今日は正々堂々とお寺を訪れる。
明耕院
(再び明耕院。山門手前左手の石碑は、本堂か何かを建てるにあたっての寄付者の名前がずらり。高祖父の名前も刻んであった。)

すでに時計は11時を過ぎていた。今日はお盆の8月14日、墓参に来る人たちでにぎわっている。
まず寺務所へ行き、昨日お会いした奥様とお話しをする。

開口一番言われたのは「惜しかったですね、先ほどTさんのご遺族が来られたばかりでした。もう帰られましたよ」ということだった。
しまった。本家さん跡を確認する前に、こちらに来るべきだった。
「お墓の場所はどこですか?」と尋ねると「いま住職が不在で….もうすぐ戻ってくればわかるのですが」とのこと。
「それならば自分で探してみます」と寺務所を出る。

ここから先が自分でも不思議だ。
ここ明耕院は本堂に向かって左右、そして背後にお墓が広がっている。かなり広い墓域を持っていると言えるだろう。
ところが自分はある方向へとずんずん歩き出した。「こっちだ」という妙な確信があった。

100mほど進んだ所で何となく立ち止まる。見渡す。

見渡した瞬間、左手のやや小高くなった所に、手前の墓に隠れるようにご先祖様のお墓があった。

お花も線香も用意してこなかったのだけど、本家さんが来たばかりというのは本当だった。そこには活けて間もない百合の花がどっさり飾られていた。

殊勝にも「はじめまして。ようやく来ました」とご先祖様にあいさつする。
僕にとっては伝説的存在だった新六(曾祖父)さんも、そういえばそんな名前だったな的存在の兵記(高祖父)さんもそこにいた。
それどころか本家のTさんも10年前に亡くなられていたことがわかった。

(柳津大橋をのぞむ)

墓所は山あいにあり、柳津の町を見下ろせるような位置にあった。
お墓からは柳津大橋を望むことができた。親族の間では「小野寺町長が造った橋」と言われる橋だ。
ちょうど曾祖父が柳津町の町長をやっていた時に橋が竣工したから、そうい言われている(現在のは二代目)。
柳津大橋
(当時の柳津大橋)

子供の頃、よく祖母から聞かされた話がある。
「新六さんが橋を作ったのはいいけど、ホレ盗賊が出るのよ。橋の真ん中で大八車と大八車がすれ違えるように出っ張りを作った(待避所という意味)んだけど、マァそこに盗賊が隠れているんだね~。夜中に橋を渡る人からお金を奪うんだって」。

実は僕が想像していたのは、先祖代々のお墓が順番に並んでいる姿だった。曾祖父、高祖父…という具合だ。
岡山の父方の墓所ではそんな風にお墓が並んでいる。ところが見ての通り墓石が新しい。
これは改葬墓に違いないと裏を覗き込んで愕然とした。
本家のTさんと分家にあたる僕のH叔父とが、昭和58年に建立したということが書いてあるではないか。

「なんだ最初から叔父に聞けばよかった」とガクッとくる。
だけど、現実問題としてそれは極めて難しいし、状況は随分楽しませてもらったし、こうやって辿りついたからこそ得る事のできるものだらけだった。

再び寺務所へ戻る。
ちょうど住職が戻ってらっしゃったので挨拶し、改めて本家さんの住所を教えて頂いた。
聞けば本家さんは石巻在住で、東日本大震災に被災されたため、現在は市内の別の場所に移転されたということだだった。

ようやく点と点がつながったと思ったが、あの震災で被災された方が親族にいたという事をようやく知ったのだった。

少なくともこの時点では、目的はこれで終わったと考えていた。
明日は8月15日だ。突然石巻のお宅を訪れるのもどうかと思っていたので、後で本家さんには手紙でも出そうと考えていた。

午後は気仙沼へと行ったのだけど、それは省略する。

宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [4]へ続く。

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