宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [6] -のぶこさん-

宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [5] の続き

石巻を出た後は、ひたすら涌谷という場所を目指す。

涌谷
(涌谷はこんな所 Google Mapより)

小高い丘にある大きな介護施設だった。
案内されるまでの昂揚感は一生忘れないだろう。

ある一室にその人はいた。
想像していたよりもずっと若くみえる。
94歳とは思えないしっかりした可愛らしいおばあちゃんだった。

「はじめまして、私は五一さんの孫で、恭子の息子です」と挨拶をすると、
「おお、五一さんの!」と喜んでくれた。
石巻でもここ涌谷でも祖父の記憶は生きていたのである。

事前に「最近の事はわからなくなってきたけど、昔の事はよく覚えている」と聞いていたけど、「のぶこさん」の記憶力は抜群だった。

「実はですね昭和19年の五一さんの日記が残っているのですが、そこに"のぶこさん"の名前が何度も出てくるので長年お会いしたいと思っていたんです。当時は東京の九品仏におられましたね?」というのをゆっくりゆっくり切り出してみた。

「懐かしいねぇ九品仏。五一さんとあい子さん。男の兄弟が上から順番にHさん、Sさん、そして長女が恭子ちゃん!。そして赤ちゃんがいたかな」と淀みなく出てくる。

内心「すげー」と思った。

色々な話を伺った。

一番驚いたのは、祖父母が結婚した経緯だ。
「のぶこさん」の従姉妹が仙台の二十人町にあった薬屋に女中奉公に行っていた。そこに東京の大学を出た美人の娘さんがいた。
「誰かいい相手はいないか?」という話になり、柳津出身で東京の大学を出て官僚をやっている人が身内にいるということになり、お見合いに到ったのだそうだ。
祖母 小野寺あい 21歳
(祖母のお見合い写真、昭和6年21歳の時)

「あい子さん(祖母)はそりゃあすらりと背の高いきれいな人だった。もう亡くなられたろうね」
「はい、10年前に97歳で亡くなりました」

驚いたことに「のぶこさん」も、そういう縁からか二十人町で暮らしていたことがあったらしい。
「二十人町の家はね、薬屋さんで"カロール"という薬が大層売れて大きなお屋敷で暮らしていたけど、戦争で全部焼けてしまった」
「"こうぶんさん"が作っていた薬ですよね」
「いや確か"ぶんぺい"さんと言ったはず。奥様が"こはるさん"だった」。

そうなんだ、これは正しい。
鈴木浩文は私の曾祖父にあたる人だけど、元々「文平」という名前だったものを昭和11年に改名しているからだ。
曾祖母の"こはるさん"は90歳まで長生きしたから、私も中学生の頃にお会いした事がある。

祖父の日記には「仙台の母(こはるさんのこと)よりのぶ子の縁談の話あり(昭和19年2月3日)」とある。
なぜ祖母方の家が祖父の姪の縁談話を持ってきたのかが謎だったけど、一緒に住んでいたからこその話だったのだろう。

柳津の曾祖父についても尋ねてみる。
「小野寺新六さんというのはどんな方だったんですか?」
「そりゃあ優しい人だったよ。だって私は孫ですからね。孫には優しいよ」
「H叔父は"意外と怖い人だった"と言ってましたが」
「いやあ、そんな事はぜんぜんなかった」

「のぶこさん」は私の両方の曾祖父と同じ屋根の下に住んだ、数少ない人だったのである。

これ以外にも様々なお話を伺ったのだけど、いずれそれは親族用にまとめてみるつもりだ。

最後に尋ねてみた。
「昭和19年に九品仏から柳津へ戻られましたよね?」
「はい」
「あの時に、私の母を連れて帰ったと思いますが、覚えていますか」

「覚えてます。東京はいつなんどき空襲が始まるかわからなかった。恭子ちゃんは本当にかわいい子でね。かわいそうだから一緒に連れて帰ったのよ」

今回の旅は、この言葉に出会うための旅だったのかもしれない。
僕が聞きたかったのはまさにこの言葉だった。

文字に記録された「歴史の切れ端」というやつが、73年の時を経て当事者の口から事実として伝わってきた瞬間だった。
浪江町
(帰りは渋滞を避けて浪江町から下道を使った。)

「のぶこさん」の手を握り締めて「お元気でいて下さい。ありがとうございました」と別れた時、時計は15時を過ぎていた。
東北道は大渋滞。涌谷から松島へと抜けて、常磐道経由で帰ることにした。

それにしても何という濃い3日間だったんだろう。
柳津に行こうと思いついたのが3日前、まさかそのクライマックスが、我が家では伝説的存在だった「のぶこさん」にお会いすることになろうとは想像すらできなかった。

動いてみるものだ。人とは会ってみるものだ。会えば何かあるものだ。
そんな事を思い知らされた3日間だった。