武尊神社(群馬県みどり市)異聞録 [2]

武尊神社(群馬県みどり市)異聞録 [1]の続き

この期に及んでようやく気付いたことがある。
「ああそうか、この神社はダムの建設で移転してきたんだ」という基本的な部分だ。
武尊神社マニアに怒られそうだけど、前知識ないままに行ったのだから仕方ない。

せっかくご立派な社殿を立ててまで移転したにも関わらず、廃墟のようになっている。
手塚治虫のマンガのヒトコマが頭に浮かんだ。
手塚治虫「カノン」
(手塚治虫「カノン」)

A君が「どうも神社の中に入れるようです」と、言ってきた。
内心「おいおい、やはり入るのかい」と思った。

自分は廃墟には心惹かれるけど、実際に内部へ潜入した経験がない。
そこを彼は慣れたもので、ずんずん入ってゆく。
武尊神社内部
明らかにご神体はどこかに移転されたようで、内部はもぬけの殻に近かった。
「神様はすでにここにはいないんだ」と思うだけで、安心している自分がそこにいた。
たとえ霊感はなくとも、つくづく自分は日本人なんだなぁと実感した。

拝殿の奥にご神体を祀る本殿への階段が見える。驚いたことにその付近の壁はコンクリートブロックがむき出しとなっていた。
神聖な場所へ来れば来るほど、予算がケチられている。
最初から最後まで不思議な神社だった。

そのあとA君との旅は足尾銅山の最奥部で終点となるのだけど、その話はまたどこかで書こう。
1975年の武尊神社航空写真
(1975年11月17日に撮影された国土地理院の航空写真でみた移転後の集落。再左の建物が新築間もない武尊神社)

単なる「心霊スポット」ではあんまりだ。
歴史ある神社ならば、今に至る流れを少しでも調べられないだろうか。
まずは国立国会図書館デジタルコレクションのサイトへ行ってみた。

今でこそ「みどり市東町草木」というファッショナブルでナウでヤングでトレンディな地名になってしまったが、かつては「勢多郡東村草木」という鄙びた名前があった。勢多郡か東村の「地誌(郷土史。戦前のものは地域の社寺仏閣を網羅している事が多い)」が閲覧できれば楽勝と思っていた。ところが不思議とそれがない。

それならばと、みどり市の文化財課にメールで問い合わせてみたところ、ご親切にも詳しいご返信を頂く事ができた。

大正3年刊行の『東村郷土誌』にはこう書かれているという。

大字草木字内出
村社 武尊神社
祭神 日本武尊
由緒 不詳
境内 443坪(官有地)
氏子 34戸
祭日 9月9日
儀式 前に同じ
財産 宅地4畝12歩 畑9畝2歩 山林6反6畝歩 原野1畝20歩

なお、ダム建設による遷座前の住所は

群馬県勢多郡東村大字草木字内出657番地

だったそうだ。

あれこれ調べているうち「社寺明細帳」というものの存在を知った。明治初期に作られた全国の神社台帳だそうだ。
文献は未確認だけど、その台帳に記載されている内容は『東村郷土誌』とさほど変わらないのではないかと思う。

面白いことに群馬には「武尊神社」と名の付く神社は30社ほどある。
日本武尊さん、群馬では大人気だったようだ。

これに関してはご夫婦で全国の神社を探訪されている「神社探訪」さんが紹介している一連の「武尊神社」レポートが素晴らしい。

そんな中で紹介されている沼田市下沼田町宮辺の武尊神社の解説板。ここに面白い一文があった。

上野国神明帳に碓根神社と記録されているのは、この武尊神社を指すものと推定され(中略)、真田伊賀守の侍医鈴木法橋が、日本書紀に感動し「武尊」と書いてホタカと読ませ、寛文元年(1661)、下沼田の社に「武尊宮」と額書し、以後ホタカの神は日本武尊であり、武尊と書いてホタカと発音することになったといわれます。

ふうむ「碓根(うすね?)神社」が「武尊神社」か。

それ以外にも出るわ出るわ。
「保高明神」「保鷹明神」「寶髙明神・保寶明神(上野国上名帳さん情報)」あたりが、軒並み「武尊神社」と改名されているようだ。

Wikipedia「武尊山」を読むと、

山名に日本武尊の「武尊」の字をあてるようになったのは、江戸時代と考えられている。山麓に点在する約30の神社の名が「武尊」表記となったのは明治以降である。

草木橋
(草木橋。この橋の左詰直下に武尊神社はあった)

真田家(沼田城)の侍医だった鈴木法橋さんの「日本武尊」マイブームからはじまり、山の名前が「武尊山」となり、修験者によって武尊(山)信仰が広められてゆく。
改名されなかった神社も明治の神教ブームに乗っかって軒並み「武尊神社」と改名する。そんなところではないだろうか。

武尊神社(群馬県みどり市)異聞録 [3]へ続く