おそうしき

【訃報】
4月30日23時、祖母危篤の連絡を受け西荻窪の病院へと向かう。
途中、東戸塚で叔母さん夫婦をピックアップする。
横浜新道に入る寸前、叔母さんの携帯に電話が入った。
「うん、うん....そう...」と叔母が相槌を打つ。
電話を切った叔母がポツリといった。
「23時21分だったって」。
車内に沈んだ空気が流れた。
横浜新道から第三京浜へ合流する地点で、バックミラーを見た瞬間、ギョッとした。
死んだはずの祖母が後部座席に座っている。

よおく見たら、叔母さんだった。
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(昭和24年ごろの祖母と祖父)

【病院】
午前0時すぎ、病院で祖母と対面する。
おでこを触ると、まだぬくもりがあった。寝汗で額がまだ湿っていた。
「おーい、そっち行ったらだめですよ~」と呼びかたけど、もう戻ってこないようだ。
あと30分来るのが早ければ、生き返らすことができたかもしれないと、
あえて根拠のない自信をベースに、悔やんでみたりする。
午前1時30分、祖母を乗せた葬儀社の車が病院から自宅へと出発した。
僕の車で追走する。深夜の五日市街道を2台の車が、静かに進んで行く。
運転しながら、この人の淹れるお茶はとても美味しかったことを、思い出す。
前の車の尾灯を凝視していたら、ふと視界が曇った。
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(昭和26年ごろ。岡山の円通寺から水島方面を眺める)

【サバ】
叔母の話で初めて知ったのだけど、95歳になっても祖母は毎週のように美容院に通っていたらしい。
前回の日記にも書いたけど、亡くなるほんの10日前に、
「定額給付金を貰っても、貯金しないで、一度でいいからエステに通ってみたい」と言っていたそうだ。
祖母が亡くなった翌々日、祖母の家の門前に訃報を貼り出した。
老夫婦が通りかかって、僕に話しかけてきた。
「おばあさん亡くなられたんですか」
「ええ、一昨日の夜でした」
「それはご愁傷さまでした。ご高齢なのにお洒落な方でしたね」
「ありがとうございます。95歳になってもお洒落に気を使っていたようです」
「えっ....85歳と伺っておりましたが」
この瞬間、祖母が近所に10歳サバを読んでいたことが発覚した。
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(昭和28年ごろ)

【おくりびと】
正式には「湯灌の儀」「納棺の儀」と呼ぶそうだ。
映画「おくりびと」でも話題になった「納棺師」の女性が専用車でやってきた。車からは簡易型の風呂桶が搬出され、祖母の眠る部屋に置かれた。
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祖母の家では風呂場からお湯をホースで引けたので、その必要はなかったけど、車の中には給湯器が搭載されていて、そこからお湯を供給することも可能なようだ。
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準備が整うと、納棺師の方から呼び出され、親戚一同がぞろぞろと部屋に入った。
風呂桶には簡易型のハンモックが敷いてあって、その上に祖母が寝かされていた。祖母の体の上には毛布ほどの大きなバスタオルが広げられていた。
納棺師の方が挨拶をする。
「それではこれよりお体を清めさせて頂きます。なるべくお体が見えませんように、気をつけながら進ませて頂きます」。
1名が祖母の頭にシャンプーをつけて頭を洗う。もう1名はバスタオルの上からシャワーをかけながら、バスタオルの下に手を差し入れて、手探りで体を清めてゆく。顔にクリームを塗って産毛を剃り落とし、化粧をほどこす。髪の毛はドライヤーで丁寧に整えられた。
ここで一旦親族は部屋を退出、再び呼び出されて部屋へ行くと、すでに祖母は布団に移され、納棺師によって死装束が整えられていた。親族で分担して足に脚絆と足袋、手には手甲を着せる。
最後に「三途の川の渡し賃」として頭陀袋に一文銭を六枚入れて、胸元に入れてあげる。
こうして「湯灌の儀」は終了。
続いて祖母の下に敷かれているシーツを全員で持って、御棺の中へ祖母を入れる。
いささか窮屈そうになった祖母の足元へ草履と杖、枕元に笠を置いてあげる。
この装束で冥土まで四十九日間の旅に出るのだという。
御棺の蓋を閉め、線香をたむけると、これで「納棺の儀」が終了した。
淡々としながらも、大変厳かな光景だった。
なんだか、祖母は一気に30歳ぐらい若返ったように見えた。
祖母にとってはエステと似たような「体験」だったと思う。

【焼鳥】
祖母は明日には自宅を出て斎場で通夜を行う。
祖母がこの家で過ごすのも今日が最後なので仮通夜を行うことになった。
皆で何か注文をしてもよかったのだけど、近所の商店やスーパーで食材を買ってきて、それを食べようじゃないかということになった。誰もがちょっと買い物でもして気分転換をしたかったのだと思う。
叔父や叔母とともに、この街をぶらぶらする。
考えてみると、こんなことは30年ぶりだった。
まず焼き鳥の「鳥一」というお店へ。
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遠方から買いに来る人もいるという有名な焼き鳥屋さんらしい。
実はこの日、僕は朝から全く食事していなかったので、お腹がペコペコだった。
「にんにく鶏」に惹かれて、1本だけ立ち食いをする。
「この辺りで路上で焼き鳥を立ち食いをする人は居ないよ」と、叔父に冷やかされた。
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(1970年ごろの祖母と僕)

【恋文の複製】
仮通夜....と言っても、単に皆で飲みながらワイワイやっていただけだったが.....
その最中に「恋文」の話題となった。
二人の縁談がまとまった際、祖父から祖母に送った手紙だ。
「恥ずかしいから1回だけよ」と祖母に言われながら、ここの出席者の多くがそれを何度も「読まされていた」らしい。
「あの手紙はどこにあるのだろう?」
そんな疑問が親族の中から巻き起こり、みんなで家さがしを始めた。
1時間後、その手紙は祖母が寝ている8畳の和室の押入れの中から発見された。
祖父は「お互いに相寄り、相助け、二人の幸福のために努力しよう」と書いていた。
叔母の話だと祖父と祖母は、当時の人としては珍しく、手をつないで散歩するような人たちだったらしい。そんな二人の気持ちが手紙からは伝わってきた。
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一旦は「この手紙を明日、お棺に入れてあげよう」ということになったが、このまま燃やしてしまうのはあまりにも惜しいと思った。そこで僕の方でスキャナにかけてプリントアウトをし、全く同一の複製を作った。三途の川の渡し賃である六文銭ですら紙製の時代だから、まあ許されることだろう。
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(2009年2月8日、一週間遅れで誕生日を祝った。蝋燭は9+5で14本)

【メモリアルDVD】
祖母を僕なりに追悼しようと思った。映像作品を作ることにした。
斎場のロビーにDVDプレイヤー内臓の液晶テレビがあったので、そこで流そうと考えた。
仮通夜を終えて帰宅後、徹夜で2本の映像作品を作りあげた。
戦後間もない頃から10年ぐらいの祖母や家族の写真、そして「恋文」もスライドショーにして、1月に業者さんに頼んで8mmフィルムからデジタル化していた45年前の祖母の映像も加えた。「G線上のアリア」をBGMにして「過去」というタイトルの作品に仕上げた。
叔父からUSBで貰った近年の画像に、僕が撮影した画像も加えて、スライドショーにした。
2005年の新年会のスナップから、今年の3月11日の奥湯河原への最後の旅行まで、この5年間の祖母の表情が蘇った。BGMを「パッヘルベルのカノン」にして「21世紀」というタイトルの作品に仕上げた。両方ともヘタな感情移入をせず、淡々とした構成にしてみた。
葬儀の当日、大勢の方が斎場ロビーでこの映像に見入ってくれた。泣いてくださった方もいた。自分が今まで作ってきたショートクリップの中では、最高の作品を作り上げたと確信している。
実は今でも毎日のようにこれを見てしまうのだ。
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(2009年3月11日、奥湯河原のホテルにて)

【お坊さんの話】
「世は無常である。常に移ろいゆくものである。栄えるものはやがて滅びる。
大切なのはその世の中で、常に正しき心にて、生きることである」。
ふうむ。

【お経】
相変わらず木魚の心地よいグルーヴに、指がカウントを始めそうになるクセだけは直りそうもない。

【お焼香】
相変わらず、僕の親族は焼香の作法がまちまちだ。
あとで、お辞儀の順番は近親者へが先か、会葬者へが先かを、近親者同士で論議していた。
そんな中、娘たちは単独でのお焼香デビューもした。
前回は実に絶妙なリアクションをやってくれた次女も、なんだか場慣れしてしまって面白くなかったが、焼香の後に手についたお香をパタパタはたく程度のことはやってくれた。
ああそうだ、彼女は自分で考えたヘンな鳥のキャラクターを「最近私が書いているマンガのキャラクターです」というキャプションつきで書いて、それをお棺に入れていた。
それを天国へのメッセージにして、どうするのだ。
一昨年の母方の祖母の死に引き続いて、僕の4人の祖父母は全員旅立ってしまったわけだけど、僕がこんな年になるまで、一緒にいれたことは本当に素晴らしいことだったと思う。
孫が11人、ひ孫が9人....こりゃあひとつの記録だ、と思った。
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(2007年の新年会で、孫とひ孫に囲まれて)

【骨壷】
火葬場の扉が開いて、祖母の骨が出てきた。
「喉仏」と呼ばれる第二頚椎の骨が、このお年できれいに残っているのは珍しいと係員の方が言っていた。この言葉、前に母方の祖母の焼骨の際にも言われている。
やはり長生きの秘訣は骨にあると確信した。

みんなで集まって、ワイワイガヤガヤやるのが好きだった祖母。
そんな祖母にお似合いの「おそうしき」だったと思う。