祖母...昭和20年、夏

今年もまた暑い夏がやってきた。

4月30日に亡くなった僕の祖母は、昭和11年に最初の結婚をした。
東京の目黒の貸家に所帯を持ったのが、2月のある大雪の日だったと、祖母から聞いたことがある。
「それって、まさか....」と僕が言うと、祖母は笑って答えた。
「そう、二・二六事件のあの大雪よ。届けを出すのに区役所まで行くのが大変でねぇ~」

やがて広島県福山市に一人暮らしをしている姑のため、夫が日本火薬製造(のち日本化薬)福山工場へと転職したため、夫婦は福山に引っ越した。
なお祖母の故郷は福山から至近距離の岡山県井原市である。

当時はすでに日中戦争の真っ最中。昭和14年に夫あてに福山の歩兵第41連隊から召集令状が届き、夫は中国へと出征した。祖母は姑とともに福山で暮らしていたが、やがて太平洋戦争が勃発すると、夫とは音信普通となってしまった。

歩兵第41連隊は、各地を転戦したのち、昭和17年8月にニューギニア島で壊滅的な打撃を受け、編成を変更後の昭和20年1月にレイテ島で玉砕した。だが、祖母は何も知らされなかった。たまたま夫の戦友から届いた手紙の文末に「衷心よりお悔やみ申し上げます」と書かれてあるの読んで、はじめて夫の死を確信したのだった。二人だけで過ごした新婚生活はわずか2年足らずだった。

その前後の時期、日本火薬の社長だった原安三郎の口利きで、祖母は日本火薬福山工場に勤務している。この際に原安三郎から色紙「至誠、天に通ず(真心を以って物事にあたれば、必ずそれは通じる)」を貰っている。
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やがて福山の町を空襲による被害を食い止めるため「建物疎開」が行われることになった。
祖母と姑は住み慣れた家を追われることになった。

ここが現代人の感覚と違うところなのかもしれないが、祖母が凄いと思ったのは、これを機に日本火薬を辞めて、姑を自分の実家である井原に連れて行くことにしたことだ。
祖母の井原の実家は、もともと米騒動にも遭遇したことのある米屋で、昭和20年当時は薪炭屋を営んでいた。僕も15年前にこの家に行ったことがあるが、土蔵と離れが何軒もあるような広い敷地で、面白いことにその離れの一部をピアノ教室に貸していた形跡もあった。
曽祖母にあたる人はとても親切な人だったそうで、その人の勧めがあったのかもしれない。祖母は姑とともにその離れに引っ越すことにしたのだった。それが昭和20年8月のことだった。
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人間の運命など、誰にもわからない。
この数日間を通して、日本全国で様々な運命が様々な体験をしたと思うが、僕の近しい肉親も例外ではなかった。

●8月5日:母方の祖父は、疎開先の叔父に会いに行く途中湯の花トンネル列車銃撃事件に遭遇し、九死に一生を得た。

●8月6日:当時、父方の祖父は同盟通信社の記者として東京で働いていた。この日の朝、広島支社との連絡が突然取れなくなったことに「広島で何かあったな」と思ったと、祖父は後々まで語っていた。福山から距離にしてわずか80km。すでに広島は原子爆弾によって壊滅していた。

●8月7日:祖母は家財道具を大八車に乗せて福山から岡山県井原市へと引越しをした。今年の正月、僕は祖母に「広島で原爆が投下されたからあわてて引越しを早めたのか?」と尋ねた。
すると「女二人でそんな簡単に引越しできるわけないわよ」と祖母は笑って言った。

●8月8日:91機のB29が福山市に来襲、空襲によって当時の福山市の81%の家屋が消失した。死者354人。いわゆる福山大空襲だ。「取り壊すはずだった家は焼け、家財道具は前日に井原に運んでいたから無事。まあ運がいいというのはこういうことだったわね。かわいそうだったのは広島から避難してきた人たち。ようやく逃げてきたのに大勢亡くなったそうよ」。
ついでを言えば、祖母が勤めていた日本火薬福山工場は攻撃目標とされ、多大な損害を受けていた。
もし祖母が福山にいたとしたら、彼女は僕の祖母ではなかったかもしれない。

●8月9日:長崎に原爆。

祖母と姑の井原での暮らしは数年続いた。わずか数年の新婚生活だったにもかかわらず、その縁を大切にし、姑をここまで世話する祖母を、現代の感覚ではかるのは難しいかもしれない。さらに曾祖母というのがとても親切な人で、この姑さんを嫌な顔ひとつせずに住まわせ、仲良くしていたのだという。

その姑のほうから再婚話が持ち上がってきたのは昭和23年ごろだった。
相手の男は1年前ほど前に妻を病気で亡くし、4人の子供を抱えて途方にくれていた。岡山の出身で、現在は東京で記者として働いていた。姑の親戚に当たる人が、その男の亡妻と遠縁だったのである。

祖母はその男とお見合いをした。
「四人の子供がいて、お給料もいくらかも知らされておらず、やっていけるのか心配ではあったが、タバコはピースを吸っており、娘にはピアノを習わせていると聞いて、それなら、なんとかなるのではないかと思った」。

ほどなく男から手紙がきた。
「この上は相寄り、相助けて、お互いの幸福のため、努力しよう」
祖母はこの手紙を生涯大切にした。

そんな風にして、この人は僕の祖母となる運命となった。