Home > おみおくり
おみおくり
最後の明治人
- 2011-11-27 (日)
- おみおくり
25日の未明のことです。
京都の義母から電話があり「おばあちゃんが亡くなった」ことを告げられました。
亡くなったのはカミさんの祖母です。今年の6月に「99歳」という記事で紹介した人です。
享年99歳、あと半年で100歳というところでした。
祖母はずっと「大正元年生まれ」と周囲に言ってきました。
ある時、祖母に生年月日を教えてもらったところ「6月7日だ」と言われました。
ちょっと待てよ....明治天皇が亡くなったのは、7月か8月だかの暑い季節だったよな?
調べてみると明治天皇が崩御したのは7月30日の未明で、その日のうちに大正と改元されたようです。
そこで祖母に「6月7日ならば、まだ明治ではありませんか?」と尋ねると、祖母はニヤっと笑ってこう言いました。
「だって”大正生まれ”と言うた方が、若く見られますやろ」
そんな祖母でした。

(2011年5月4日)
「大正元年」...明治45年6月7日(実におぼえやすい日付!)に京都の鳴滝のお米屋さんに生まれた彼女は、大正デモクラシーの自由闊達な空気を吸い込んで育ちました。
昭和の初め頃、東京でOLとして働いていたこともあるそうです。
そりゃあもう綺麗でお洒落な人でしたから「モガ」だったのだろうと思っています。
その後、同じ京都の「西ノ京」に住む「りょうのすけさん」と結婚しました。
「りょうのすけさん」は祖母の話ではもともと近衛師団の騎兵だったそうです。
昭和天皇が即位した際に旗を持ってパッカパッカと先導したそうなのですが、このことをいつも誇らしげに語ってくれました。
「そりゃあもう、ほれぼれするような男前でしたわ」、というのは祖母がいつもその話のおまけにつける言葉でした。
(「ほんまかいな」と、この映像を見る度に思う)
太平洋戦争が始まると「りょうのすけさん」は、再び戦地に赴きました。
そして終戦後にソビエト軍の捕虜としてシベリアに抑留され、そのまま還らぬ人となったのです。
僕は一度、厚生省へ行って「りょうのすけさん」がどのような状況で亡くなったのか、資料を見せてもらったことがあります。
平成3年にロシア政府から返還されたリスト、その中の「プリモルスク地方」と書かれたファイルの「第11収容所・第7支部」の死亡者リストに、その名前を確認することができました。「りょうのすけさん」は平壌でソビエト軍の捕虜となり、札幌と同じ緯度のパルチザンスク(現在の地名)で最初の冬を越えることなく亡くなったのです。昭和21(1946)年2月19日のことでした。
未亡人となった祖母は、3人の娘を育てました。
「遺族年金で何とか食べてゆけた。りょうのすけさんのおかげや」と僕に言ったことがあります。
「シベリア抑留で亡くなった人は戦死扱いだから年金が出たけど、帰国直後に亡くなった人はそれも出なかった」とも言っていました。
今年の5月に、娘の十三参りで京都に行った際に、お会いしたのが最後となりました。
この時、僕は「りょうのすけさん」の遺影をiPhoneで撮影してもってゆきました。
その画像を義母が「おばあちゃん、これ誰だかわかる?」と見せると。
「わかるわぁ、りょうちゃんや!」と祖母は言いました。
「男前やったなぁ、ええ人やったわ」とも言いました。
この人が当時「りょうのすけさん」のことを「りょうちゃん」と呼んでいたことも発覚したのです。
「これは写真が見れる道具かいな?」と尋ねられたので、
「一応は電話なんですが、色々な機能がついているんですよ、例えば...」と言ってピアノアプリを起動させてお渡ししたら、
「ほう、こりゃあえらいものやなぁ~、面白いものやなぁ~」とポンポン音を出していました。

(iPhoneを触る99歳)
そしてご機嫌になった祖母は「夏も近づく八十八夜、とんとん」と歌いだしました。
本日、お通夜に出席するため、日帰りで京都まで行ってきました。

「おくりびと」によって死化粧をほどこされた祖母の顔は、80歳ぐらいにしか見えません。とても美しいお顔でした。
生前、花が大好きだった祖母は沢山の花に囲まれて嬉しそうでした。

そして遺影に選ばれたのは、僕とカミさんの結婚式に出席した時の写真でした。
これで僕の親戚で明治生まれの人はひとりもいなくなってしまったわけですが、こんな話はどうでしょう。
お通夜の後の料理の席上で、ある親戚が「あの人はいつの生まれだったかのう?」とみんなに尋ねました。
他の親戚が「たしか大正元年と聞いてますが」と言い、
それに同調して「そうそう、大正元年です」と言う人がいました。
「ああ、そうじゃった、そうじゃった」とその人は納得していました。
祖母は自分を若く見せることに最後まで成功したようです。
そして今頃は「りょうちゃん」と65年ぶりに再会しているのでしょう。
運命じゃ
- 2011-07-29 (金)
- おみおくり
親父から連絡があり、岡山に住む親戚の「弘さん」が亡くなったことを知りました。
弘さんは「犬神家の一族」風に言えば「本家の当主」です。
親父の従兄弟に当たります。戦時中、父たち兄弟が岡山に疎開していた時はお兄さんがわりになってくれた人でした。さぞかし親父は寂しくなったと思います。
次男坊だった僕の祖父は、東京に出てサラリーマンとなりました。
いっぽう祖父の兄、その息子の弘さんは家を守り続けてきました。
ですから岡山の家を「本家」、我々の家を「東京分家」とする言い方が、祖父の代まではあったのです。
今から18年ほど前のことですが、京都に住んでいた僕は、法事の席上で弘さんに言われたことがあります。
「あんた京都に住んでいるんだから、いつでも岡山に遊びに来んしゃい。家族なんじゃから事前に電話くれる必要はない。とにかくフラっと遊びに来たらええ。もしワシがいなくて会えんかったら、それは運命じゃ」(記憶で書いているのでかなりデタラメな岡山弁です)。
随分面白い言い方をする人だなと思いました。でも素敵な言い方だと思いました。
「そうか、この人とは滅多に会うことはないけど血がつながっているんだな」と思ったし、そう言われると逆に気軽に行けるなと思いました。また「会うも会えぬも運命」という言葉が印象に残りました。本来は重いはずの「運命」という言葉のなんだか気軽な使い方が印象に残ったのです。
この話を親父にすると、親父はこう言いました。
「弘さんは、海軍の予科練にいたんだよ。戦局が悪化するにつれて、自分の死も覚悟していたはずだよ。だから”運命”という言い方をするんだろうね。もっとも終戦直前は燃料集めで枯れ木拾いばかりやっていたらしいよ」。
1996年の正月休み(厳密には正月3が日は仕事だったのでその後でした)を利用して、結婚したばかりの僕とカミさんは二人で岡山を訪れました。事前に連絡もせずに運命に任せてみることにしたのです。
弘さんの家は新幹線の新倉敷の北側の玉島という場所にあります。
そうしたら運命の出した答は「会える」でした。弘さんはいらっしゃいました。
「おお、よう来たよう来た」とご機嫌な弘さんは、僕たち若い夫婦を歓迎してくれました。
2時間ぐらい居たでしょうか。僕が子供の時分に玉島に遊びにきた際の思い出話、祖父の話など色々伺いました。弘さんは「せっかくここまで来たんだから、御先祖様のお墓参りへ行こう」と言い、我々を農作業用の軽トラックに乗せてくれました。
そのお墓は街を見下ろす小高い丘の上、山陽自動車道のすぐそばにありました。
弘さんの話では山陽自動車道を建設するにあたって、移動させられたとのことでした。
僕は御先祖様のお墓なんて、今まで考えたこともなかったし、想像したこともなかったのですが、そこには6基のお墓が並んでいました。
じいさんのお兄さん、ひいじいさん、ひいひいじいさん、ひいひいひいじいさん....
みんな僕と血がつながっている人でした。
弘さんは言いました「この高速道路ができてから、みんな車でトットトットとお墓の横を車で通りすぎて行きよる。じゃけど、この道を通る際は、祖先のことを忘れずにお祈りしてくれい」。
この時、今まで意識したこともなかった「自分はどこから来たのか?」という答を得ることができたのです。
帰り際、弘さんは自分の父(=祖父のお兄さん。郷土史家だった)が書き残した家の歴史に関するパンフレットを何部か僕にくれました。こういうものがあることすら知りませんでした。それによれば、一番古いお墓の主”萬四郎さん”が海を埋め立てて間もない荒地に移住して開拓をしたのだそうです。その苦労があって、玉島は今のような農業地帯になったのだとありました。
だからいま、僕が辿っている道では、この”萬四郎さん”のことを意識してしまうのです。
そんなことを僕に伝えてくれた弘さんの訃報を聞き、何とか都合をつけてお葬式に行けないものかと考えました。
トンボ帰りでお葬式だけ参列できないものか?そんなことをあれこれ考えてみました。でも僕には今の仕事があり、とりわけ発表会の前日に岡山に行くというのはかなりの困難が伴います。それをあれこれパズルのように考えているうちにフト思いました。
「そうか、”行けない”というのもまた運命なんだな」。
都合のいい理由かもしれませんが、そういうことなんだと思いました。今回はそうなりましたが、もし四十九日法要があるならば今度は親父の代わりに僕が行けばいいのだと思います。できれば子供も連れて....「自分がどこから来たのか?」という答も見せられないものか?そんなことも思いました。
まだまだ精進が足りない自分には「何事も運命だ」と達観することは難しいです。何だかそういうものを達観したところにいる弘さんという人と会えたことは良かったと思っています。もちろん「自分はどこから来て、どこへ行くのか」ということを考えるきっかけを作ってくださったことを含めてです。
ご冥福をお祈りするとともに、この一文を捧げたいと思います。
いとこいの境地
- 2011-02-10 (木)
- おみおくり
明治の大落語家、三遊亭圓朝師匠は永年の研鑽と禅の修業によって「無舌(むぜつ)」という境地に至った。
僕は禅や落語の求道者ではないから「舌が無い」という言葉の真の意味するところはわからない。だけどこれは「語らずして語る」ということなんだろうな、と勝手に合点している。
噺(はなし)やしゃべくりを芸とする者が「語らずして語る」ことなどできるだろうか?
僕はそういう人たちを知っている。いや、知っていると思っている。
それは漫才の夢路いとし、喜味こいし師匠だ。2人のことを関西では「いとし、こいし」。さらに省略して「いとこい」と呼んでいる。

「昨晩ね」
「うん」
「エラい交通事故を目撃しましたよ」
「エラいってどんな?」
「交差点で車が正面衝突してね」
「ほう」
「双方の車がぐしゃぐしゃになっちゃったんだ、これが」
「ほう~ あ、そうそう、ぐしゃぐしゃと言えば君んとこのカミさん元気か?」
こう言っては失礼かもしれないけど、二人のネタをこのように文章にしても決して面白いものではないかもしれない。
現在の若手漫才とは比べ物にならないぐらいトークのテンポはゆったりだったし、ネタも古典的だった。オヤジギャグ的なダジャレの連発もあったりして、これをフツーの人が言っても全然面白くないだろう。
たとえば1990年代に関西ローカルTVで「いとこいの漫才を分析する」という特番をやっていたけど、その中で「湾岸戦争」というネタを見たことがある。
「僕の家でね~湾岸戦争が勃発したんだよ」で始まるこの漫才は、
いくらを食え~と(イラクとクェート)言ったから勃発した。
カミさんの投げたお椀がガーンとぶつかったから湾岸戦争。
隣の「タコを食う関君」が登場したから多国籍軍。
布施(東大阪の地名)のご隠居が登場したからフセイン.......と、本当に「しようもない」ネタの連発だった(個人的には好きだけど)。
(Youtubeにあった「湾岸戦争」。ただし僕が見たのと別番組)
ところがこのネタが「いとこい」というフィルターを通ると、思わず笑ってしまうのだから困ったものだ。
二人の声のトーン、表情、言葉のやりとりの「間(ま)」....そういった絶妙な要素がいくつも重なって、何てことないギャグを笑いにかえてしまうのだ。
上記の同じ番組内でレポーターの太平サブローが二人の漫才を音響学の専門家に科学的に分析してもらっていた。そうしたら「いとこいの声は、人間が一番耳を傾けやすい特性を持っている」という結果が出ていた。
当時は二丁目劇場の全盛時代だった。サバンナ、ジャリズム、千原兄弟、中川家、スミス夫人なんていう若手芸人たちのテンポの早い笑いや「しゃべくり漫才」ではなくて、コントが主流になりつつあった。そんな潮流の中で、この二人が登場すると自然と耳を傾けてしまい、そして笑ってしまうことの理由のひとつがわかった気がした。
そんなある日、二人の漫才をみていて気づいた。
この二人は「面白いことを言って笑わせよう」としているんじゃない。二人がそこにいること、そこでしゃべくりあっていること自体が面白いフェノメノン(現象)となっているからこそ、笑ってしまうのだ。
むろん二人は笑わせることを職業とした「漫才師」だ。
だけど永年の芸歴は彼らの「話芸」というものを究極の形まで完成させていた。ひとつひとつネタに頼らなくても面白い、というところまで成熟させてしまった、ということだ。
「語らずして語る」.....これこそ圓朝の「無舌」って境地なんだと思った。
以降「いとこいの漫才は神」っていうのが、僕とカミさん(笑いにはかなりうるさい)との共通認識となった。
2003年にいとし師匠が急逝する。昭和12年の結成以来、66年近く続いたコンビに終止符が打たれた。
直後に追悼番組が放映され、NHK大阪で収録された「いとこい最後の漫才」がオンエアされた。そこに登場したこいし師匠は、笑顔で話しながらも、とても辛そうだった。その後、こいし師匠は一切の漫才を封印、バラエティ番組のコメンテーターとしてテレビに出演するようになった。広島での被爆体験なども語るようになった。髭を伸ばしはじめた師匠を見て「もはや仙人か?」と思った。

そして本年1月23日、こいし師匠は肺がんのために亡くなった。
「自分のおじいさんが死んだ気分」とカミさんは言った。多くの関西人が同じことを感じたのだろう。
「語らずして語る」「歌わずして歌う」どちらもひとつの境地だと思う。
たとえば歌詞に意識的に耳を傾けなくても、あるいは何を歌っているかわからなくても、なぜか心にしみわたる、なぜか泣けてくるような歌声があるとするならば、そのボーカリストは多少なりともそういう境地にいるのかもしれない。
(僕の場合、例えばこの人。Van Morrison – Tupelo Honey)
そして、そういうことを気づかせてくれたひとつが、この二人の漫才だった。
(いとし こいし「ジンギスカン」)
出てくるだけでなぜか可笑しくなる。お客さんも笑っている。
これって「無舌」の境地なんじゃないだろうか。
Home > おみおくり
-
- Blue Passion
- Green View
- How do you like さぉ☆こじ ?
- Jamesの独り言
- JUNYAの勝負はこれからだ!
- KAKEL氏ガ語ルシス☆
- Like A Rolling Stone (Mackさん)
- Qumのブログ
- Sumihito SEKI
- The Pepperland Weblog
- Voluntary Mother Earth
- 「栞」日記
- かなで屋
- ぼやぼやぴぴんの生活
- まつざき幸介「君すむ街へ」
- ゆりなお工房(ゆっちぃほか5人によるプチ工房)
- ウォークオンやたにゆきのブログ
- カーリングチーム"隼"の 軌跡
- 上大岡、関内周辺でお茶してます
- 上大岡異業種交流会
- 千草とそよ風
- 喉のことでお悩みなら。(「喉」blog)
- 回天Blog
- 日々精進
- 有希乃路央(ゆきのじお)
- 色即是空 空即是色
- 薄闇の狂詩曲
- 飯田真のとんと、ご無沙汰。
- 魚好きの雑感