Home > おみおくり
おみおくり
You Only Live Twice -ジョン・バリー死去-
2月1日付の新聞各紙は、紙面の片隅で作曲家のジョン・バリーの死について報道した。
ロイター通信によると、ジョン・バリーさん(英国出身の作曲家)が1月30日、心臓発作のためニューヨークで死去した。77歳。
ロンドンで作曲を学び、ジャズ・バンド活動後、映画音楽を数多く手がけた。「007」シリーズの「ゴールドフィンガー」「ロシアより愛をこめて」などのテーマ曲が有名。映画「愛と哀しみの果て」「ダンス・ウィズ・ウルブズ」などでアカデミー賞を5回受けた。(ロンドン)
1960年代のブリットポップ、とりわけスパイ・ミュージックのマニアにとっては、ジョン・バリーという名前は格別な意味を持っている。
初期「007」のサウンドトラックには必ず演奏者として”John Barry Orchestra”の名前がクレジットされているからだ。
僕が持っているサウンドトラック
「ドクターノオ Dr.No (1962)」
「ロシアより愛をこめて From Russia with Love (1963)」
「ゴールドフィンガー Goldfinger (1964)」
「サンダーボール作戦 Thunderball (1965)」
「007は二度死ぬ You Only Live Twice (1967)」
のオリジナルサウンドトラックはすべてジョン・バリー・オーケストラの名義になっている。
また「007」シリーズではリアルタイムで有名なシンガーによって、様々な主題歌が歌われてヒットしているけど、
「ゴールドフィンガー」(シャーリー・バッシー)
「サンダーボール」(トム・ジョーンズ)
「007は二度死ぬ」(ナンシー・シナトラ)
という初期の名曲を作曲したのもジョン・バリーである。
じゃあ。キム・ヨナも氷上で踊ったあの有名なエレキギター「デンデケデンデンデン~デンデンデン」ではじまる「James Bond Theme」を作曲したのもジョン・バリーかといえば、話はややこしくなる。
この曲は様々なスパイ・ミュージックやサウンドトラックのコンピレーションに収録されているけど、その作曲者クレジットは「モンティ・ノーマン」。つまりジョン・バリーではない。ところが中には「ノーマン/バリー」とクレジットされているものもある。
真相はこうだ。
1:「007」の第一作「ドクターノオ」の映画音楽を、プロデューサーのアルバート・R・ブロッコリとハリー・サルツマンはモンティ・ノーマンに依頼した。
2:ところがモンティ・ノーマンは「Under the Mango Tree(マンゴーの木の下で)」というカリプソ色全開のノンビリした曲を作曲、それを映画のテーマ曲にしようとした。「ドクター・ノオ」がジャマイカを舞台にした映画だったからだ。
「Under the Mango Tree(マンゴーの木の下で)」
3:それに反発したプロデューサーたちは、テーマ曲を書き直すようにノーマンに依頼する。ノーマンはヤケ気味になって、新たにテーマ曲を作曲する。元ネタはノーマン自身が前年に作曲した「Good Sign, Bad Sign」という曲。V・S・ナイポールの小説「ビスワス氏の家 A House for Mr. Biswas」をミュージカルにした際に、彼が書いたスコアの中の一曲だった。
「Good Sign, Bad Sign」(この音源はノーマン自身が「ボンド」を自分の作曲だとアピールするためにあえて再録音された音源。
4:ところがノーマンは相変わらず土着的なアレンジから逃げ出せない。そのアレンジ作業は袋小路にハマっていた。本人はよほど「マンゴーの木の下で」が気に入っていたようだ。それを手助けしたのがジョン・バリー。彼もまた自分が2年前にアダム・フェイスのために書いた「Poor Me」のイントロ部分などを、再利用しようと考えた。
「Adam Faith Poor Me (1960)」
5:そしてバリーはさらに原曲を解体修理する。彼はこの曲に当時アメリカから輸入されてイギリスでも流行っていたサーフ・ミュージック(イギリスでサーフィンができるかどうかは知らないけど、The Whoのキース・ムーンも当時はサーフ・ミュージックのバンドでドラムを叩いていた)に目をつけ、デュアン・エディ風のギターサウンドと、ジャジーな展開による豪華なオーケストラアレンジをほどこした。
「007 -James Bond Theme-」
スパイ音楽の「お手本」みたいになったこの「ジェームズ・ボンドのテーマ」はその後も「007」シリーズの中で使われ続け、舞台がアメリカになろうと、日本になろうと、宇宙になろうと、普遍のサウンドを鳴らし続けている。というわけ。「007」をシリーズ化して、どんな舞台にも耐えうるテーマを作ろうとした点で、ジョン・バリーとプロデューサーには先見の明があったといえるだろう。
こと作曲に関してはノーマンなんだろうけど、むしろジョン・バリーのアレンジの功績が大きすぎるが故に1990年代になって訴訟騒ぎまで起きている。
いやはや、こんな小難しい話はもういいや。
この曲は3歳の子供でも知っている。
僕の子供たちが小さかった頃、この曲にあわせて踊っているのを見たことがある。むろん彼女たちはこの映画を知らない。
知らないにもかかわらず、「迫り来る危険」を体で表現していた。しかも決して楽曲を怖がる風ではなく、コミカルな感じでそれを表現していた。
この時、僕は「あっ、ジョン・バリーはジェームズ・ボンドのキャラクターを、誰にでもわかるぐらい見事にアレンジしたんだな」と思った。
迫り来る危険をいささかコミカルなタッチで凌いでゆく主人公に、これほどお似合いのアレンジはなかっただろう。
以下余談。
バリー・グレイが1966年から67年にかけて作曲した「007は二度死ぬ」(ナンシー・シナトラ)には2バージョンある。
ナンシー自身がシングルとしてリリースし、映画のオープニングで使われたのはイントロにバックコーラスがあり、ボーカルに入ってからのファズギターがかなり前に出ているバージョン。(リンク先参照)
いっぽうサウンドトラックのバージョンでは映画の舞台が日本ということもあって、「えせ日本サウンド」とでもいうべき、中国風の木琴が高らかにからんでくる。
「You Only Live Twice (1967)」
なんのかんの言いながら、モンティ・ノーマンもジョン・バリーも「異国的」というのには目がなかったと思われる。これを聞くと日本のエージェントとして出演していた丹波哲郎を思い出す。
実はこれがモトネタだったんじゃないかという曲がある。
2年後にリリースされたKing Crimsonの「I Talk To The Wind」だ。
「I Talk To The Wind (1969)」
まあ、そんな風にゼロから音楽が生まれないわけで.....そこが音楽の面白いところかもしれない。
最後にジョン・バリーのこれまた有名な映画主題歌で彼のご冥福を祈る。
「野生のエルザ Born Free (1966)」
遠くで汽笛を
- 2010-06-17 (木)
- おみおくり
日曜日は朝から法事だった。
8日に亡くなった父の従姉妹のマッチャンのお葬式へと行ってきた。
マッチャンは大学生の時に岡山から上京してきて、僕の祖父母の家に下宿していた(大学生が親戚の家に下宿するなんて、なんだか昭和な話だ)。
今でもよく覚えているのはマッチャンに近所の本屋に連れていってもらい「もぐらくん、まちへゆく」とかいう絵本を買ってもらったこと。「もぐら君」が自分で車を作ってドライブするというストーリーが面白かったのを今でも忘れない。数年後に図書館の職員となったマッちゃんらしいプレゼントだったと思う。
お葬式でご住職がお経を読むわけだけど、実に変わったもので、そのお経の中でマッチャンのプロフィールが読み上げられた。
「昭和何年に生まれ、何歳で上京し、何の仕事について、何年に結婚し、子供を設け、趣味は何で」という感じで故人の歴史や趣味を唱えてくれるのだ。こういうお経は初めてだった。
そんな一節にこういうのがあった。「アリスの音楽が大好きで、特に堀内孝雄の大ファンだった。一番好きな曲は”遠くで汽笛を聞きながら“だった」。
こんな話は親戚一同初耳だった。
そして僕とカミさんは別の意味で驚いていた。
先週の金曜日、つまマッチャンが亡くなった2日後のことだ。
僕は関内にある飛び入り参加自由のフォーク居酒屋「マークⅡ」にいて、「何を弾き語ろうかな」とお店にあるコード本をめくっていた。そして、たまたま見つけた「遠くで汽笛を聞きながら」を弾き語ったばかりだったのだ。
夜が明けたら -浅川マキの世界-
- 2010-01-21 (木)
- おみおくり
高校生の頃っていうのは、女の子のことか、バンドのことか、スポーツのことか、やたら難しいことか、やたら簡単なことか、メインストリームのことか、アンダーグラウンドなことか、その全部を一生懸命に考える年頃でして、そんなパーツのひとつとして、僕がハマったものに寺山修司がいた。
この人ぐらいマルチメディアな人はいなかった。ウィキペディアの「寺山修司」をみると、「詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家」と1次元から3次元まで(という表現法であっているのかどうかは知らないが)あらゆる表現活動を行っていた。
この人は僕が高校3年生のときにあっさり亡くなってしまった。
これは余談だけど、それから間もない時期に青山だったか渋谷だったかとんと記憶がないのだが、大きなホールで開催された「寺山修司追悼集会」に行った。今だったら「追悼イベント」とかという表記なんだろうけど、当時は「集会」だったことに、70年代的な臭いを感じなくもない(すでに1983年だったが)。
ここで、大学時代に寺山の親友だった山田太一が壇上に上がって追悼の公演を行った。
「(大学生の頃)新宿にあった広い空き地で、なんだか急に可笑しくなって、寺山と二人でずっとゲラゲラ笑い転げていたことが、いい思い出です」。これが妙に印象に残っている。
この「集会」で寺山の遺作となった監督映画「草迷宮」が日本初公開された。結局この映画がきっかけで大学時代に泉鏡花にハマるようになった。
中3のときに体験したJohn Lennonの死同様、人生の節目節目にこういう人が亡くなることで、かえって次のステージに自分を進ませるように「ケリ」をつけられていたのだと思う。ただ今でも彼が自分の心の中のどこかにあるのは、彼の才能の凄さもさることながら、彼が亡くなったのが阿佐ヶ谷の河北病院が、かつて僕が生まれた病院だった、という偶然からだろう。
そんな彼が「生み出した(正確には見出した)」のが「浅川マキ」だった。
彼とマキが出会ったのが、寺山が主宰する劇団「天井桟敷」だったのかどうかは知らない。まあおそらくあの劇団には居候とか色々な人がゴロゴロしており、ある日現れたかと思うと、ある日には消えていたりしたから(そんな中に小椋佳もいた)。そんな中の一人だったんじゃないかと勝手にそう思っている。彼女のアルバム「浅川マキの世界」は、その楽曲の多くを寺山が作詞している。間のSE(汽車の音など)も寺山の演出だ。
僕はこのレコードを高校の通学途中にあったレンタルレコード屋さんで借りた。場所は千葉県市川市真間にある大門通り商店街入口の国道14号線に面した角地。国鉄市川駅のすぐ近くだった。
これは余談になるけど、当時はレンタルレコード店(CD店)の創成期で、全共闘くずれ(かどうかは知らないけど)30過ぎのお兄さんが、自分の持っていたレコードコレクションを元手に、レンタル屋さんを始めるというパターンだった。
僕と仲の良い友人とが通っていたその店は、店内にズラリとレコードが並んでいるのではなかった。この人が撮影した一枚一枚のレコードの写真がカタログになっていて、その中から選んだものを、お兄さんが後ろの棚から出してくれるというものだった。現在のTSUTAYAみたいに大量の在庫を並べないでもレンタルレコード屋ができた時代だったのだと思う。
さらに話は脱線する。この店の前にいつもママチャリが止まっていて、それがその店のお兄さんのママチャリだと気づくのにそうはかからなかった。そこには住所と名前が書いてあった。市川市国分に住む山田徹(仮名)さんだ。それからは彼のあだ名は「山田徹」となった。山田徹のコレクションは60年代の邦楽と洋楽が充実していた。
山田徹はお店にないレコードを尋ねると、「すいません、ありません」と平謝りした。
その「平謝り」の感じが実に絵に描いたような「平謝り」さ加減だった。
それが面白くて、明らかにないと分かりながら随分無茶苦茶なリクエストをしに行ったものだ。
「The Kinksの Village Green Preservation Societyありますか?」
「すいません、ありません」。
でも山田徹を平謝りさせるには、こちらもそれなりに勉強をしなければならない。そうやって僕と友人はロックの知識を広げていった。だって「ヴィレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサエティ」って英語を覚えるだけでも大変だ。山田徹も自分のコレクションの痛いところを突いて来る生意気な高校生2人を面白がっていたと思う(あるいはマジで嫌がっていたかもしれない)。
この人のおかげで、僕とその友人はどれだけ自分の音楽世界が広げられたかわからない。
当時、一般市場でマトモに入手できなかったThe Whoの過去のアルバムでも随分お世話になったし、The ByrdsやVan Morrisonに出会うことができたのも、この人のおかげだった。「何かおすすめありますか?」と尋ねて「Van Morrisonの”Moondance”なんかどうですか?ハッキリ言って名盤です!」この「ハッキリ言って名盤です!」というセリフを何度聞いたかわからないけど、それを聞く度に自分の音楽世界は広がっていった。
山田徹は新譜の貸し出しもしているのだけど、そのラインナップが滅茶苦茶だった。
Oingo BoingoのNothing To Fear(1982)とか、Klaus NomiのSimple Man(1983)、Penguin Cafe OrchestraやBrian Enoの一連のアルバムとか、もう当時の新譜としてもわけのわかんないものだらけのオンパレードで、新旧入り混じってお世話になったものだ。だけどこのお店でMichael JacksonのThriller(1982)を貸していたという記憶が全くない。おそらく貸していなかったんじゃないかと思う。
そんな山田徹のお店だったわけだけど、2年ほどたったある日、友人と行ってみたら「空店舗」の札がかかっていた。
友人がつぶやいた。「しまった!ホラ以前”ママチャリで走る山田徹を追跡して、山田徹の家をつきとめよう”って言っていたことがあっただろ?あれをやっておけば良かったな」。
わずか2年の間にレンタルレコードの黎紅堂が全国展開しつつあり、どこでも似たような品揃えのレンタルレコード屋があっという間に浸透しつつあった。そんな時代に山田徹のお店はマニアックすぎたのだろう。
エイベックスのマックス松浦がレンタル・レコードの「友&愛」の港南台店でアルバイトを始めるのは、この数年後。それがきっかけてで「友&愛」上大岡店を開くのはもっと先のことだ(これがエイベックスの前身となってゆく)。
音楽には「伝承文化」として側面があるけど、山田徹コレクションにもまさにそういう一面があった。山田徹から借りたThe Byrdsのベストがきっかけで、今は彼らのCDが20枚以上のコレクションとなっている。楽器フェアではRoger McGuinnからサインをもらうこともできた。Van Morrisonに至っては30枚以上のCDが後生大事に家に並んでいる。
つまり山田徹のコレクションは、僕に伝承されているわけだ。当時は害悪ばかりが叫ばれていたレンタルレコード屋さんだけど、それないに音楽業界に寄与していたんだと思う。特に僕みたいな馬鹿野郎には。
さあて、何の話をしていたんだっけ。そうだ浅川マキだ。
彼女の訃報が届いたのはおとといのことだった。
公演先のホテルで亡くなっているのが見つかったという。
たった独りで亡くなってしまうなんて、なんだか彼女らしい最後だと思った。
彼女が持っていた70年代のアングラな雰囲気そのままだ。
寺山修司が持っていた美学を彼女はずっと伝承して、
そのまま21世紀まで生きた数少ない人だったと思う。
(朝日楼)
彼女の有名な「夜が明けたら」は、こんな出だしだ。
夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
切符を用意してちょうだい
私のために
一枚でいいからさ
今夜でこの街とはさよならね
わりといい街だったけどね
(作詞 浅川マキ)
きっと彼女はお決まりの黒のロングコートにブーツ姿で、
今ごろ汽車に乗っているのだろう。
話が脱線しまくりの「おみおくり」記事でした。
Home > おみおくり
-
- Blue Passion
- Green View
- How do you like さぉ☆こじ ?
- Jamesの独り言
- JUNYAの勝負はこれからだ!
- KAKEL氏ガ語ルシス☆
- Like A Rolling Stone (Mackさん)
- Qumのブログ
- Sumihito SEKI
- The Pepperland Weblog
- Voluntary Mother Earth
- 「栞」日記
- かなで屋
- ぼやぼやぴぴんの生活
- まつざき幸介「君すむ街へ」
- ゆりなお工房(ゆっちぃほか5人によるプチ工房)
- ウォークオンやたにゆきのブログ
- カーリングチーム"隼"の 軌跡
- 上大岡、関内周辺でお茶してます
- 上大岡異業種交流会
- 千草とそよ風
- 喉のことでお悩みなら。(「喉」blog)
- 回天Blog
- 日々精進
- 有希乃路央(ゆきのじお)
- 色即是空 空即是色
- 薄闇の狂詩曲
- 飯田真のとんと、ご無沙汰。
- 魚好きの雑感