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ぶうらぶら
おさるさん

おかんサル「ほな、この子のノミ取るで~」
おとんサル「おう」

次男サル「母ちゃ~ん、うちのも取ってぇ~、なあ取ってやぁ~」

次男サル「なあ、取ってやぁ~、ついでにポニョの映画連れてってぇ~、デトロイト・メタル・シティでもかまへんし~」

おかんサル「ああ!もぉうっとおしいわ!あっち行っとき!」
次男サル「そ、そんな押したらおちるやんか!うわぁ~」

おかんサル「父ちゃん、どないや?」
おとんサル「おお、もうちょいや、ここんとこにあと一匹おるわ」
ロケ地:長野県地獄谷野猿公苑
信州角間温泉(山ノ内町)越後屋
- 2008-08-23 (土)
- ぶうらぶら
長野オリンピックの際に作られた国道292号のバイパスを志賀高原方面へと向けて走り、これを佐野角間インターで降りる。
長野平野へと開けていた両側の山が急激に迫ってきて、いよいよ山地へと入ろうとするあたりだ。
斜面にへばりつくような農村風景を横目に、急勾配の坂道をえっちらほっちらと車で登ってゆくと、こじんまりとした集落の中心にお堂のような大湯(共同浴場)の建物があって、それに寄り添うように4軒の旅館があった。

この温泉が角間温泉(かくまおんせん)。
蓮如上人が発見したというから、600年以上の歴史があるようだ。
この温泉、湯田中や渋といった有名な温泉街とは、角間川と横湯川を挟んで対岸の高地にある。そして、その位置関係が対極の風情を醸し出していた。かたや繁華街と高級ホテルを交えた温泉地、かたや鄙びた湯治場....

夕刻になると、火の見櫓が影のように浮かび上がり、その風景は完全に時間を逆行していた。一軒だけ「よろず屋」があった。おばあちゃんが店番をしていて、100円のかき氷カップを買おうとしたら「50円...いや100円です」といい間違えられた。物価まで時代を逆行しかかっていた。

僕たち家族が2泊したのが、この「越後屋」。
最初にお断りしておくけど、この旅館は大人一人が一泊ニ食つきで8000円台。至って庶民的な値段だ。しかし食事はきちんとしているし、嬉しいことに24時間入り放題で貸切も可能な温泉内湯が4つ、それと別に外湯が3つあった。そして素晴らしかったのが女将さんで、ほぼ一人で切り盛りしているのだけど、細やかな気遣いがどれだけ嬉しかったかわからない。4人家族での連泊には、ありがたいぐらいの宿賃だった。
そしてとどめの素晴らしさは、旅館の建物そのものが登録有形文化財のように楽しめたことだった。

この建物、WEBでは「明治後期の建築」と書いてあるけど、女将さんは「明治3年の建築です」と僕に語っていた。そちらの方が正しいような気がする(ただし後述する風呂は明治後期のものだろう)。
僕たちの部屋は別館だったため、女将さんに頼んで本館を案内してもらった。

装飾が実に凝っていてユニーク。この障子窓は蝶と月にも見えるが、あるいは蛾と繭かもしれない。

この部屋では階段側にわざわざ出窓をあつらえて、京都の町屋みたいな外観を作っていた。

「以前、旅行雑誌が取材に来た時は、この擬宝珠を一生懸命撮影していましたよ」というのは女将さんの弁。
お次は僕たちが宿泊した別館へ。こちらは大正時代の建築とのこと。
本館とは廊下続きの別館は、奥の階段から2階に上がる形、段差のある地形に建てられているため、登ったフロアが別館の1階となる。
まず奥の階段。

床に埋め込まれた歯車、そして周囲にモザイクがちりばめられていた。
お次は僕たちが宿泊した部屋、廊下に面した扉のひとつがこれ。

ううむ、何だか凄い。

よくはわからないけど、大正モダニズムの風が信州の鄙びた温泉地を吹き抜けていったことだけはたしかだ。
きっとこの別館を作った時代の越後屋のご当主は、そうした時代の風を受け止めるだけの感覚を持っていたのだろう。

一方でこんなことも感じた。
階段にしても扉にしても....斬新なデザインに挑戦しようとしたけど、挑戦し切れなかった。
大胆な発想をを残しながらも、結果として何とも素朴な形となってしまった.....
きっと当時のご当主は、この建物を施工した大工さんに、色々なアイデアを指示したのだろう。
だけど、その大工さんが100%それを消化できなかったんじゃないだろうか。
ご当主のチャレンジ精神と、妥協の産物。それがこの階段と扉にはあるような気がする。
長野といえば松本市の開智学校が有名だけど、それと共通する「和洋ミクスチャー」な空気を感じた。

これが我々の宿泊した部屋。扉の意匠に反して中は純和室6畳の2間続き。縁側があり、欄間があり、粋な雪見障子があった。
家族4人ということで、女将さんのご好意で、わざわざ大きな部屋を用意してくれたのだと思う。
残念ながら宿泊客がいたため見学はできなかったが、この上の部屋には大正時代、まだ新人作家だった吉川英治が滞在していたそうだ。吉川英治記念館の学芸員さんが書かれたblog「草思堂から」中の記事「角間温泉」によれば、大正12年の関東大震災を契機に専業作家となることを決意した英治は、翌13年に1年ほど越後屋に滞在し、『角間温泉滞在日誌』も書き残しているそうだ。それだけ愛された宿だった、ということだ。
「英治の書はあるんですか?」と女将さんに尋ねると、
「昨日お食事された部屋に飾ってあったのがそうですよ」と苦笑された。

ありゃりゃ、よく見れば「英治書」とあった。
額には「三佳亭 山川一佳 天然一佳 人情一佳」とあった。
これと同じものが石碑となって、旅館の中庭にもあった。
旅館内にはお風呂が4つある。家族風呂、大浴場、檜風呂、露天風呂だ。
そしてこれ以外に角間温泉共通の外湯(申し出ると女将さんがサッと走ってくれて鍵で開けてくれる)が3つある。
僕は3日間にわたって、一日に3~4回も入りまくっていた。
このうち、内湯の家族風呂と大浴場を紹介する。
家族風呂はこんな雰囲気だ(画像をクリックすると拡大します)。
外観が純和風の旅館にもかかわらず、完全な洋風風呂。

浴槽内と床と壁にはモザイクが敷き詰められており、凝った模様を浮き上がらせていた。

浴槽内が椅子のようになっていて、腰掛けてゆっくり足を伸ばせる形になっている。なぜかあさっての方向を向いている蛙ちゃんの足元から、掛け流しの温泉がチョロチョロ流れていた。

そして浴槽の窓はアーチ状になっていた。おそらく建築当初、上部の半円形の窓にはステンドグラスでも入っていたのかもしれない。
お次は大浴場。


浴槽のタイルは明治後期のものらしく、以前INAXが取材に来たことがあったとのこと。

浴場の隅にあった流し台(画像をクリックすると拡大します)。

「風呂つながり」に過ぎないのかもしれないけれど、1912(明治45)年に沈没したタイタニックにあったという「トルコ風呂(いわゆるスチームサウナみたいなもの)」のカラフルな内装を思い出した。
何だか長くなってしまったけど、今までの人生の中で、これほど旅館そのものについて面白がったことはない。
宿泊料といい、女将さんの人柄といい、タイムスリップ感覚といい、何度でも行きたくなる宿、それが越後屋だった。
いつか冬の季節にでも行ってみようかな。
【角間温泉:越後屋】
TEL 0269-33-3188
料金(1泊2食) ¥8,550~¥10,650(税込・長期滞在・応相談)
チェックイン 14:00
チェックアウト 10:00
【電車でのゆきかた】
JR長野駅から長野電鉄長野線で湯田中下車。
駅からは3kmぐらいあると思います。
碓氷峠鉄道文化むら
- 2008-08-18 (月)
- ぶうらぶら
行ってきました長野方面への旅。
目に触ったものを適当にUPします。
【電気機関車】
まずは群馬県の横川に到着。ここから碓氷峠の旧道を登って軽井沢方面へと抜ける段取り。とりあえずこのあたりで退屈している子供たちを遊ばせようと「碓氷峠鉄道文化むら」へ。

ここは鉄道が好きな方々には「聖地」に違いない。かくいう僕も小学校低学年の頃、鉄道少年だった。親父に連れられて交通博物館へ行って喜んでいたものだ。ただ当時からズレていたのは大昔の蒸気機関車や旧型の電気機関車以外は興味がなかった、ということ。新幹線や特急列車、当時の小学生の間で流行だったブルートレインには全く興味なし。あの頃から重厚で古臭くて、機械臭いデザインのものが好きだったようだ。

たとえばこの電気機関車(昭和7年ごろ)。「見てくれ」を全然気にしていない。地味ぃ~にこげ茶色に塗られた車体、リベットむき出しの重厚なボディ、前照灯をボディにすっきり収めようなんて発想もない。こういうのをみていると今でもゾクゾクする。
そんなわけで「昭和以前の工業デザインマニア」という視点から、この「聖地」を楽しんでみる。
【流線美の春】

「デゴイチ」の愛称で知られる「D51(昭和11年~)」には、このような煙突まわりを流線型にデザインしたものが存在する。設計上の色々な理由もあったのだろうけど、そんなことよりも大事なのは、昭和9年頃から世界規模ではじまった「流線型」ブームの余韻の中で設計されたということだ。空気抵抗を極力減らした洗練されたデザインは斬新だった。そんな中から以下のような素敵なデザインの列車が生まれている。

C55蒸気機関車

EF55電気機関車

52系電車
ところがどっこい、こういった機械全体を流線型のカバーで覆ってしまうことにはそもそも無理があったようで、無意味にメンテに手間のかかるシロモノだったらしい。
余談だが、「流線型ブーム」は音楽にも及ぶ。昭和10年に宝塚春のおどりで「流線美の春」というジャズ・ソングが二条宮子によって歌われ、コロムビアレコードからリリースされている。
「春だ、踊りだ、踊りだ春だ、今年ゃ流線流線、美の春だ。花は咲いた流線美の都、空に流線、海にも流線、街には流線、山にも流線」というわけのわからない歌詞だった。
このわかったようなわからないような「流線型ブーム」だが、間もなく日中戦争が勃発すると、次第に実用本位のデザインに戻されていったようである。
【昭和の食堂車】

昭和30年代に使われた食堂車らしい。
東宝映画「社長シリーズ」にでも登場しそうな雰囲気。

この椅子は実にシンプルな造り。教室のロビーの椅子もこんな雰囲気を残している。腰掛けた森繁久彌に対し「社長っ!温泉に着いたらパァーと行きましょう!パァーっと!」と三木のり平がアオりまくるというのは僕の想像だ。

食堂車のクーラー。昭和40年代のものと思われる。当時のクーラーは木目調のものが多い。これは山の涼しげな雰囲気を家庭に持ち込みたいという当初のコンセプトがあったからだと思う。三菱電機のクーラーにはもう40年近く続いている「霧ヶ峰」というネーミングのシリーズがあるけど、これなんかも長野県の「霧ヶ峰」を商品名にしているわけだ。
【装置類】
鉄道文化むらの片隅に様々な装置が置いてあった。
これがまたマニア心をくすぐる装置ばかり。

「S型受信機回路試験器」

「車上子結合度試験器(昭和39年)」

「オルガノ式電気なんとか器」

「河村式濃度計」
これらの使い方?
そんなのわからないけど、この独特の雰囲気には卒倒しそうになった。
【給水器】

今でもヘタしたら、どっかの列車にあるんじゃないかな。
昔はよく見かけた給水器。「冷水を給水する」それ以上の目的がないため、デザイン感覚はなさげな装置だ。折りたたんである紙コップを広げて、そこに水を入れたんじゃなかったかな。コップ一杯分の水では、喉の渇きを潤わせることができなかった記憶がある。
【ED166のプレート】

これを資料館で見た瞬間「あっ」と驚いた。
先日「祖父と湯の花トンネル列車銃撃事件」というのをUPしたけど、祖父が乗っていた「419列車」を牽引していた電気機関車はED16-7だったと書いた。ウィキペディアによれば国鉄ED16形電気機関車は昭和6年に18台製造されたらしい。祖父が乗っていたのはこのうちの7号機で、これは6号機のプレート。
つまり1番違いということになる。
【管理人】

スリリングな場所でくつろいでいる管理人。線路が冷たいので二重の意味で涼しい。娘に笑われている。別に「下山事件」について検証中、というわけではない。
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