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ぶうらぶら
土石流の爪あと at 上高地
- 2011-08-27 (土)
- ぶうらぶら
再び上高地の話。
交通規制のため、上高地へは車での乗り入れができない。だから関東方面から来た場合は沢渡(さわんど)の駐車場に車を乗り捨てるのが普通だ。
我々が沢渡に到着したのは夕方4時すぎだった。ここからは、シャトルバスに乗り換える。

(沢渡市営第二駐車場)
すでにバスのピークは過ぎたのか、バス停にいたのは我々家族4人だけだった。
(リンク先は2008年、真昼間の沢渡バス停の行列)
我々がチケットを買ったのを見て、係員の人が「それじゃあ、今からバスを呼びますね」と言う。
「えっ、呼ぶって?」と思っていると、1~2分でバスが走ってきた。
どうやら、この時間から上高地へ入山する人なんて宿泊客ぐらいなので、バスも定時運行ではなく、近くで待機しているようだ。
ってことは......

貸切じゃん!
いまバスが走っている国道158号は北アルプスを車で越えることのできる唯一の国道だ。沢渡から先、急峻な山々が道路の左右からますます迫ってくる。
上高地では穏やかな表情を見せる梓川も、ここでは渓谷となって激流が飛沫をあげている。そんな中を崖にへばりつくようにして国道は続いている。僕はこの風景が好きで、バスの最前列に陣取ってずっとビデオをまわしていた。

(梓川)
上高地へはこの先で県道24号(上高地公園線)へと入り、釜トンネルを通ってゆくわけだけど、目的地が自然の懐に抱かれた高地という穏やかな風景を持っているのに対して、このあたりの風景は全く違う表情を持っている。
ひと言で言えば、「自然の脅威」というやつだ。人間が道を作り、トンネルを穿ったとしても、山は容赦なくそれをひねり潰そうとする。
車窓からみると、梓川の対岸はことに地盤が弱いようで所々で崖崩れが発生している。国道側も同様だ、崖崩れによって放棄された旧道を、あちこちで垣間見ることができる。


たとえばこの2枚の画像は、2005年7月1日の土砂崩落で寸断された旧158号の現場。場所は沢渡より下流の「うすゆき橋」だ。
この崩落によって上高地へ入るルートは大幅な迂回を余儀なくされ、上高地観光に深刻な影響を与えた。
この対応は実に早かった。わずか2年9ヶ月後に、総工費16億、全長500mの「梓湖大橋(うすゆき橋バイパス)」が開通した。国道158号は現場を直線の橋でスルーするルートとなった。
さて、我々のバスはまもなく渋滞で停止した。
「あれ、もう釜トンネル(唯一の信号がある)の近くまで来ましたっけ?」と運転手さんに尋ねると、
「いえいえ、まだ坂巻温泉より手前ですよ。ほら2ヶ月前に土石流があったでしょう。復旧工事で片側通行になっているんですよ」。
6月23日の13時45分ごろのことだ。おりからの豪雨によってこの先のワラビ沢で土砂の流出が発生し、国道158号は寸断された。

(6/23 ワラビ沢の土砂流出直後 長野県松本建設事務所撮影)
渋滞は15分も続いただろうか、そろりそろりとバスは進み続け、現場を通過した。

(ワラビ沢土砂流出現場)
ほどなく、県道上高地公園線への分岐点となり、釜トンネルへと入る。

(釜トンネル)
僕は2008年に「不自然な上高地雑記」で釜トンネルについて書いている。だが、当時気づかなかったことがある。この釜トンネルが近年になって大幅なルート変更と拡張工事によって、片側1車線、大型観光バスも通行可能なトンネルへと生まれ変わったことは書いた。バス一台通るのがやっとだった旧釜トンネルの交互通行問題が解消されたことにも触れた。
問題は新トンネルの開通日だ。これが2005年の7月2日。
皮肉にも前述した「うすゆき橋」の土砂崩れの翌日だったわけだ。せっかくのトンネル開通でより一層の集客が見込めると思った直前に、ずっと手前で道路が寸断された。関係者の落胆ぶりは、相当のものだっただろう。
釜トンネル走行中に、運転手さんが教えてくれた。
「ほら、トンネルの壁面で泥の線が入っているでしょう。先日この先で起きた土石流で、流れ込んだ泥の跡ですよ」

(釜トンネル内部。泥の跡は画像ではわかりにくいかも)
6月23日に発生した自然災害はワラビ沢だけではない。
ワラビ沢で土砂が流出する25分ほど前、この釜トンネルの上高地側出口付近の産屋沢でも土石流が発生した。
この瞬間が映像におさめられている。撮影位置は上高地側(ターミナル、大正池などがある方面)だ。撮影者は話の内容から、松本砂防事務所か松本建設事務所の職員の方と思われる。
この方々は事前に現場の土石流の危険を察知して、県道に交通規制をかけた。その直後に撮影された衝撃的な映像だ。
「県道上高地公園線に押し出した産屋沢の土石流 提供:国土交通省松本砂防事務所」
釜トンネルから来て、あわてて退避する白い車も映っている。
現場を同じ上高地方面から撮影した画像がこれ。




流れ出た土石の多くは、ここにかかっていた産屋沢橋にダメージを与えながら梓川に流れ込んだ。そのいっぽうで土砂は勾配のきつい釜トンネル内にも流れ込み、トンネルの反対側つまり国道158号線側まで溢れ出たのだった。

(6/23 釜トンネル内を通って溢れ出た土石流 長野県松本建設事務所撮影)
そもそも旧釜トンネルなどは、もっと頻繁に土砂の崩落があるような場所に穿たれたトンネルだった。
1999年にはトンネル出口付近で大規模な土砂崩れが発生し、すんでの所でバスが難を逃れている。

より安全な場所へと穿たれた「新釜トンネル」も、このように土砂に襲われているわけだ。
6月23日の産屋沢の土石流は上高地で唯一通行路を寸断した。観光客860人、ホテルなどの従業員340人が孤立してしまった。2008年に我々が上高地を訪れた際も、わずか3日後に中千丈沢(上高地バスターミナルと大正池の間にある)で土石流が発生して350名が孤立している。
この件に関しては、西糸屋山荘に泊まった時に、スタッフの方に尋ねてみた。
「土石流の時は大変だったでしょう」
「ええ、ここにも80名のお客さんが振り分けられました」
「よく宿泊できましたね」
「シーズン・オフでしたから何とかなりました。今の時期(お盆)でしたら不可能だったでしょう」
「(食料などの)備蓄は足りたんですか?」
「ええ、予想外でしたが何とか大丈夫でした。逆にお客様によっては持ち合わせのお金がない方もいらっしゃいました。ですから、そういう方には後日送金していただくようにしましたよ」
一瞬にして地上の天国「上高地」は災害救助法適用地域になりかねない状況となった。
翌24日早朝、釜トンネル内を含めた土砂の撤去と仮歩道の設置が行われ、午後からは観光客の「上高地脱出作戦」が開始された。バスと徒歩によるピストン輸送で、夕方までに全観光客の下山が完了した。

(新釜トンネルと旧釜トンネルへの分岐点。バスがUターンできるスペースがあるので、ピストン輸送には助かっただろう。先ほど触れた映像に映っている白い車もこのスペースに退避したのだと思う)

(さらに大正池近くに発生した県道路肩の崩落現場)
自然が満ち溢れた場所だからこそ、人はそこに集まる。
上高地の観光客数は年々減少しているものの、今でも年間150万人が訪れる。
そんな上高地ではいま「野生動物の人間慣れ」が深刻な問題となっている。
観光客の中が野猿や鴨にエサをやってしまうために、動物たちが人間にエサを求めて近づくようになっているのだ。自力で食物の確保ができなくなった野生動物は、人間がいなくなる冬期には餓死してしまうだろう。
我々も大正池のほとりでアップルパイを食べていて、エサを求めて近づいてくる鴨に驚いている。

「もうここで食べるのはやめようか」とか「むしろ、おどかして追い払った方が、人間の怖さを知っていいのではないか」などと考える。
自然のなすがままに扱うということと、自然のなすがままに任せないこととの線引きというものは、本当に難しいものだと思う。道ひとつとっても、自然のなすがままに放置したら上高地へのルートなどあっという間に消え去ってしまうだろう。上高地は本当は人間に来て欲しくないから、あの手この手で人間が来るのを邪魔しているようにも思えたりする。
「なに新釜トンネルが開通するって?そりゃあいかん、人間どもが増えると生態系を壊すからな。よし手前の国道でも寸断させるか」なんて言っていたのかもしれない。
だから「自然に対して謙虚になる、いささかの畏れも込めて」という態度が、この地では一番正しいのだと思う。
宿のロシアンルーレット
- 2011-08-21 (日)
- ぶうらぶら
旅に出るとつい欲が出る。
「ここも行こう、あそこも行こう」考えた挙句、強行軍となってしまう。
旅先の昼食なんていうのは無用の長物で、名所が閉まる17時までにどれだけあちこちを廻れるかということを考えてしまう。
遠い場所へ行くと、往復の交通費のモトを取ろうとやっきになってしまうのは、貧乏性の成せる技だ。
上高地へと行くようになったのは、それが理由だ。
ここに行くと「何もしない」ということができることに気づいたからだ。
「何もしない」ということはお金を使わないで済む。実に経済的な行動なのだ。
ついでに言えば、上高地の平均気温は20度だから、節電にもなっている。
相も変わらず西糸屋山荘に宿泊する。上高地の宿にしては良心的な宿泊料で、食事が実に美味しいし、食べられないぐらい出る。コストパフォーマンス最高と家族誰もが絶賛する宿だ。
ここで、ひねもすボーッと過ごしていれば、普通の旅行よりも安上がりで済んでしまう。
だから今年も上高地へ「山篭り」してきた。

(早朝の河童橋)
この状況には、自分が保守的になってきたのかな?とも思う。
もともと行き当たりばったりの旅が好きで、お盆であろうとGWであろうと宿の予約をしたことがほとんどなかった。
行き先を定めずに飛び出し、走れるだけ走って気に入った場所で宿泊する。そんな旅をこの25年来ずっと繰り返してきた。
宿というのは選びさえしなければ、お盆だろうとGWだろうとどんな時期でも泊まれるものだ。キャンセルが入ったとか、トラブル対処のために予備の部屋を設けていたとかそんな理由が大半だろう。あるいは幽霊が出るという理由もあるかもしれない。
現地での宿探しの方法も時代とともに変わってきた。25年前には公衆電話から近辺の宿に電話をかけまくった。町に観光案内所が空いていれば宿さがしを頼むのがベストだった。今ではスマートフォンを使って楽天トラベルやマップルトラベルあたりで調べられる。その上で宿に直接電話をかけて交渉をすればいい。実に便利になったものだ。
さて、こういう旅をしていると宿の当たり外れというのがある。僕はそれを「宿のロシアン・ルーレット」と呼び、ある意味楽しんできた。
だけどカミさんとって、それは「とんでもない話」だったようだ。
だから、こっちが忘れてしまっているようなあんな宿やこんな宿のことをよく覚えている。
僕と泊まったひどい宿の記憶を訪ねてみたら、
「一番忘れられないのは奈良井の民宿。相部屋だった。どうしようかと思った」と出てきた。
奈良井は今年も訪れたけど、これは1994年の話だ。たしか9月のシーズンオフの旅行だったので、飛び込みで泊まった商人宿のことだ。
「えっ、相部屋なんか泊まったっけ?知らない人と布団並べて寝たことなんてあったかな?」と尋ね返す。すると、
「だって、ふすま一枚へだてて隣におっさんが泊まっていたじゃない」と言う。
「それは、ふすまで仕切られていたから”相部屋”とは言わないよ」と旅館業法の第ナン条みたいな否定をしてみる。

(17年ぶりに訪れた奈良井の宿)
もうひとつ出てきた。
「ベットが傾いていたペンションがあった。冷房はないしカビ臭いし部屋の扉は閉まらないし、朝から半強制的にパンを作らされた」
「妙高のペンションの話だね。さあ出発しようって時にパンを作らされたのには閉口したけど、子供たちも喜んでいたからいいんじゃない」
これは2006年の話。富山からの帰り、一日で横浜まで戻るのが面倒くさくなって、場当たり式に泊まった宿だった。
さらに出てくる。
「三段峡で泊まった旅館。絶対に何かがいた」
「ああ、あそこはちょっと不気味だったね。」
1995年夏のこと。広島の三段峡で泊まった旅館だ。中国自動車道SAの公衆電話でさがした宿だった。幽霊が隣に座っていても気づかないぐらい鈍感な人間にもかかわらず、眼下を流れる川から得体の知れない「気」が上ってくるのを感じて、嫌な心持ちになったのが忘れられない。

さらに出てくる。
「青森の線路沿いのビジネスホテルもひどかった。建物は古いし、列車の走る音がうるさかった」
「あれは無条件に認める。でもいいおばちゃんだったぜ。八甲田山の幽霊話は面白かったし、朝食もおいしかった」
まだ出てくる。
「行ったら”手違いで満室でした”と言われて、他のペンションを案内されたことがあったわね」
「白馬のペンションね。でもお陰でグレードの高いペンションに泊まることができたじゃん」
まだまだ出てくる。
「猪苗代のコンドミニアム。あれはひどかった」
「ああ、あれは無条件に認める。本当に最悪だった」
猛暑なのに冷房はない、網戸はちゃんと閉まらない、隙間から虫が入ってくる、そして床には南京虫らしいのもいた。あんまりひどいのできちんとしたホテル施設の方に部屋を移してもらおうと頼んだけど「またきたか」という顔で満室ですと断られた。二度と泊まりたくない宿の歴代1位となった。ただし検察側がそのように主張したとしても、弁護側は素泊まり5000円だから情状酌量の余地ありと弁ずるだろう。
まあ、そうやって話していると、とどのつまり「安かろう悪かろう」の域を越えていないレベルの低い話ばかりだってことに気づく。そして、「宿」というものに対する僕の考え方が、いかにカミさんとかけ離れていたのかが、よく判った。
全然関係ないけど1994年に宿泊した長野の鹿教湯温泉の旅館のことを思い出した。夜遅い時間だったと思うが、女将のお父さん....認知症になっていたようだ....そのおじいちゃんが行方不明になった。
あんまりフロントがあわただしいので、お客も「どうした、どうした」となり、結局みんなで「どこだどこだ」と探しに行くことになった。
考えてみれば、見ず知らずの土地で真夜中に見ず知らずの人物を探すことぐらい、あてにならない話はない。とりあえず20分ほど宿の周辺の田んぼやら小川やらを探して歩いた。嫌な予感を感じながら宿に戻ると、くだんのじいちゃんは帰ってきていて、女将に叱られていた。
「じいじゃん、どこ行ってた!」
「うーん、どこ行ったか、わしゃ知らん」
なんだかこの会話がおかしくて、今でも忘れられない。
話を戻す。
そんな風にロシアンルーレット的に宿泊してきた宿の中でも、大当たりのいい宿はある。
裏磐梯のペンション「サッチモ」
弘前のペンション「ル・カルフール」
蓼科のペンション「あーるいん」
これらはベストチョイスだったと、満場一致で可決された。
どこにも共通しているのは、部屋がきちんとしていて食事が美味しいことと、マンガや本が読み放題の談話室的な共有スペースがある点だ。もちろん、上高地の西糸屋山荘はこの条件をクリアしている。そのうえ談話室ではサービスでコーヒーが出る。朝いちで山荘の奥さんが松本のパン屋さんから運んでくるアップルパイが死ぬほど美味い。この2つセットで梓川を眺めながらボーッとしている時が自分にとっては至上の時だ。

(西糸屋山荘のコーヒーとアップルパイ)
こうした現在の状況を家族サイドから考えてみると「どこに連れて行かれるか分からない親父が珍しくベストチョイスしているわけだから、毎年同じ場所だとしてもここに行くのが一番無難だ」という消去法的な賛意が含まれているのは間違いないだろう。
そうやって話をしているウチに思った。
何のかんの言いながら、毎年こまめに家族を旅行に連れて行く。
自分という人間は結構いいお父さんなんじゃないかと。
保津峡を下った後の船の行方
- 2011-05-15 (日)
- ぶうらぶら
京都の夏の風物詩といえば保津川下り。
亀岡の船着場から激流の保津峡を下ってゆく。「英国王のスピーチ」のお兄ちゃんのエドワード8世も、昭和天皇もそれぞれ皇太子時代に、保津川下りをされたと公式サイトには誇らしげに記されている。
さぞかし涼しいだろうとは思うけど、残念なことに僕自身は一度も乗ったことがない。
ここで問題なのが16km以上の激流を下った船をどうするのか?ということ。
その答がコレ。

船はトラックで陸送される。
物集女街道(もずめかいどう)から千代原口(ちよはらぐち)に出たトラックは、国道9号を使って再び亀岡へと運ばれてゆく。
カミさんの実家が千代原口から近いせいか、必ずこのトラックと遭遇する。
だけどマトモに撮影できたのは今回が始めてだった。
「陸送される船」というのもまた京都の夏の風物詩。
(Wikiによると、かつては船頭さんが縄で上流へと引っ張り上げていたそうです。そして今では船頭さんは山陰本線で亀岡に戻るそうです)
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