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下山事件資料館

事件オタクたち

僕がやっている「へたれ」サイト「下山事件資料館」が縁で知り合った香川県のKさんという方がいる。今までは何度もメールでやりとりはしていたのだけど、今度たまたま出張で東京に来られたので、これを機に初めてお会いすることにした。

場所は池袋。居酒屋「月の雫」。

Kさんはとても気安い方で、たちまち打ち解け、下山事件の話で盛り上がる。「自殺説はどーだ、他殺説はどーだ」なんてことを居酒屋の片隅で盛り上がっているわけだから、危険この上ない。

その上、お互い「事件オタク」なもんだから帝銀事件財田川事件、名張ブドウ酒事件、徳島ラジオ商事件なんてネタがボンボン出てくる。ちなみにKさんは池袋に出てきたのをいいことに、今回隣駅(椎名町)の帝銀事件現場跡まで行ったらしい。

まあ、そんなこんなで結局4時間も居酒屋に居たのだけど、一滴のアルコールも飲まずに(二人とも下戸)、食べまくりましたとさ。

下山事件 ガリ版資料展示

「足立区の郷土博物館で下山事件の資料を展示していると朝日新聞に載っていた」という情報を「下山事件資料館」へ来てくださっているみなさんからメールで教えて頂いた。この場を借りて御礼申し上げます。

さっそく記事のコピーをとりよせてみる。1月22日の朝刊だ。「下山事件 ガリ版資料展示 総裁夫人の供述も 足立・郷土博物館」とある。それによれば捜査関係資料と思われるガリ版刷り6点と、事件直後に発行された事件関連の雑誌8点が公開されているらしい。こうした一連の資料を2005年に郷土博物館が古本屋から購入したのだそうだ。

そんなわけで2月19日にようやく行ってきた。

ここには3年前に事件現場の地勢を理解するために訪れたことがある。その際、郷土資料室で「下山事件」と尋ねたら怪訝な表情をされたことを今でも覚えている。その時は「そうか足立区ではタブーなのかな」と思ったのものだ。そうしたタブーをあえて郷土史の一断片として扱った博物館の判断は素晴らしいと思いながらかの地へと向かった。

それらの展示資料は、入口を入ってすぐの場所に展示されていた。名目上は新収蔵資料展ということだったが、資料のほとんどが下山事件関係。中でもわら半紙にガリ版刷りされた事件資料には、思わず見入ってしまった。

6つのガリ版資料の内容は以下のとおり
ガリ版1「他殺、自殺両見地から事件を見た場合の根拠、疑問点について」
ガリ版2「7月5日における下山総裁の行動(大西運転手の供述による)」
「7月4日における下山総裁の行動(大西運転手の供述による)」
「足首、靴、靴下止め 散乱状況」
ガリ版3「自殺にあらずとする下山総裁夫人の供述」
ガリ版4「下山総裁を轢過した機関車を使用して行った試験結果」
ガリ版5「下山事件その後(7月21日第一回合同捜査会議以降)の捜査経過」
ガリ版6「機関車気圧放出試験」

これらの資料のこまかい検証(出所や何のために作られた資料か?)には時間が必要なので別にゆずりたいが、僕が興味をひかれたのは、いわゆる捜査一課から流出したとされる「下山事件捜査報告書(いわゆる下山白書)」には記載されていない、いくつかの内容が散見された点だ。

たとえばガリ版2に記載されている大西運転手の供述だが、7月5日だけを見ても下山白書よりも遥かに詳細に記載されている。とりわけ驚いたのは大西運転手が築地の自宅を出発してから洗足の下山邸に向かうまでのルートと所要時間、さらには総裁が三越で失踪するまでのルートと各主要ポイントまでの所要時間が詳細に記されている点だった。これらは「下山白書」には記載されていない内容だった。

これによれば大西運転手は午前7時45分に築地の自宅を出発し、三原橋交差点→昭和通→新橋電停というルートで下山邸にむかったことがわかる。洗足までの所要時間は25分とある。僕が今まで不明だった点のひとつに、大西運転手はまず国鉄本庁に出勤し、そこから総裁専用車で総裁邸に向かったのか、直接築地の自宅から総裁邸に赴いたのかがあった。だが、これにより判明した次第。そうか大西さんの家の敷地面積が妙に大きかったのは(下山事件ギャラリーを参照のこと)きっとあのどデカいビュイックを駐車するためだったんだね。

また下山邸の直前に「池上線陸橋」と記載されていることから考えると、大西運転手は洗足の住宅地に入るのに恒常的に陸橋ルートを使っていたと考えられる。これは僕が主張していた「淡谷のり子邸の前は通っていない説」にひとつの光明をあてているのではないだろうか。

いっぽうで洗足池から三越までのルートが詳細に記されていることで、今まで推定でしか語れなかった各ポイントの通過時間を、修正しなければならない可能性があらたに出てきた。

たとえばガリ版にはこのような表記がある。

下山邸(8時20分頃発)→(12分)→品川→(3分)→三田→(4分)→御成門

僕が今まで推定していたものを上と同じ表記にすると、

下山邸(8時20分頃初)→(13分)→品川→(3分)→三田→(3分)→御成門
という具合に若干の誤差が生じてくる。

とまあこんな風に、たった一枚のガリ版資料にも、何だか新たな発見のあるこの資料展。3月12日まで公開しているので、「シモヤマニア」な人は行くべし!

最後になるが、ガリ版5「下山事件その後(7月21日第一回合同捜査会議以降)の捜査経過」の隅にペン書きでこのような書き込みがあった

「25 3 12 布施君より受取」。

布施君といえば、事件現場の検証段階から立ち会い、事件そのものの主任検事だった東京地検の布施健検事(のちの検事総長)その人に違いないだろう。彼を「君づけ」で呼べる人物こそが、この一連の資料を所持していた人物ということになるようだ。

鈴木市蔵氏死去

実はこのblog、僕が運営している別サイト「下山事件資料館」とも共有しているので、珍しく本日はそちらの方の記事を書く。

今日の神奈川新聞朝刊(朝日では昨日の夕刊だったらしい)に元国鉄労働組合副委員長である鈴木市蔵氏の訃報が掲載されている。

鈴木市蔵氏
(すずき・いちぞう=元国鉄労働組合副委員長、元参院議員)
1月29日午後11時30分、慢性腎不全のため埼玉県朝霞市の病院で死去、
95歳。(以下省略)

僕の購読している神奈川新聞では下山事件うんぬんなんてことは特に書かれていない(そういう記事を書くとしたらたぶん朝日新聞かな)。しかし事件に関する書籍を読んだ人ならば、必ずこの名前を目にしているはずだ。

まずは「下山事件」について簡単に説明しなきゃいけない。
「下山事件」とは、昭和24年7月5日午前9時30分ごろ、国鉄総裁の下山定則が東京日本橋の三越本店から謎の失踪を遂げ、翌6日の午前零時すぎ、常磐線の北千住と綾瀬駅間において轢死体となって発見されたという事件だ。

当時の国鉄は敗戦後の痛手から立ち直るために、余剰人員9万5千人の人員整理を余儀なくされていた。国鉄の労働組合はそれに反対し、国鉄当局と真っ向から対立していた。

鈴木市蔵氏はこのとき労働組合の副委員長だった。当時委員長がフランスに出張していた関係で、実質的に組合側の代表者として下山総裁ほか国鉄当局と交渉したのだった。

たとえば7月2日、下山総裁が国鉄労働組合との話し合いの打ち切りを宣言した瞬間にも、鈴木氏は組合側の代表者として交渉の現場にいた。そして7月4日に第一次人員整理者のリストが国鉄当局から発表される。

そしてその翌日、事件は発生したのである。

事件発生当初から、誰もが総裁の死は労働組合と背後にある共産党の犯行と考えた。いっぽう警視庁捜査一課が出した結論は総裁の失踪前の言動や行動に不可解な点が多く「自殺」だった。その後アメリカ軍の諜報組織による犯行説(共産党を陥れるための)が有力となり、現在にいたっている(詳しくは僕のサイトを読んで頂ければいいので、ここでは省略する=宣伝)。

僕は「下山事件資料館」を運営してゆく中で、氏がいまだご存命で生活の困難にあわれていることを知った。そして有識者の方々により「鈴木市蔵さんの介護を支援する会」が発足していることを知り、思想や立場を越えた形での支援をサイト内で呼びかけてきた。

僕自身が特定の思想や立場に身をおくことをしない人間なため、文面はこんな感じだ。
下山事件とも関係の深い鈴木市蔵氏に関するお願い
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僕もぜひ氏とお会いしたかったのだが、ご本人の体調も思わしくなく、また老人性の痴呆症が進行していたため、差し控えさせて頂いていた。ただ昨年「支援する会」の代表の吉川氏にメールで近況を問い合わせている。「これまで住んでいた家を貸家にすることができたため、最低限の老人ホーム入居費等はどうやらまかなえるようになったが、年金がないため、今後も支援を続けてゆく」とのことだった。ひとまず安心したため、その内容もUPしている。

そして1月29日、氏はあの世へと旅立たれた。

事件後、鈴木氏は国鉄を追われ、その後参院議員にもなったのだが、肝心の共産党からも除名処分を受けている。そうした経緯もあって老後の年金が大変僅少だった。時代の荒波に押しつぶされたという意味においては下山総裁も鈴木市蔵氏も同一だったといえるだろう。

そして「同一だ」と思う視点から歴史は語ってゆくべきだと、いつも考えている。

謹んで氏のご冥福をお祈り致します。

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