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歴史の切れ端

鶏の恨み

戊辰戦争で仙台藩が降伏し、官軍が仙台の街にやってきた。
ひいひい爺さんの家は官軍の宿舎にされてしまった。
官軍の連中は、家の畳を全部裏返しにして、土足であがりこんだ。
そして庭にいた鶏をすべて食べてしまったんだそうだ。

「あんな悔しいことはなかった」。

折に触れてひいひい爺さんはそう言っていたらしい。
その家に嫁に来ていたひい婆さんはその話を自分の娘に伝え、娘は孫の僕に話してくれた。

(母方のひいひい爺さんとひいひい婆さん。二人とも江戸時代生まれで昭和初期に亡くなった。どうでもいい話だけど誰でも「ひいひい爺さん」「ひいひい婆さん」は8組16人いる。明治初期の人口がせいぜい4千万人だから、理屈の上では250万人に1人が御先祖様だった確率となる。)

いくら官軍の兵装が洋式だったとしても土足で家に上がるものなんだろうか?とか、
畳を裏返しにしたってことは、意外とそういうことには配慮する連中だったんだろうか?とか、
その割には無法にも鶏を食べちゃったんだな、とか色々想像を巡らすことのできる話だ。
身内の江戸時代の話では、唯一と言っていいぐらい残っている話なんで、娘には何度かこの話をしている。

あとは余談。
(明治35年、報知新聞記者の篠田鉱造が、江戸時代を生きた老人たちからさまざまな体験談を聞き書きして「幕末百話」というのを出版しています(岩波文庫で入手可能)。高級役人や政治家を除外したのが特徴で、「辻斬り」「殿様商法」「取調べ」「大砲の鋳造」から「安政の大地震」に至るまで、市井に生きたさまざまな人たちのバラエティに富んだ話が浮き上がってきて実に面白いです。この本がなかったら「辻斬り」なんて忘れ去られていたかもしれません。
直接老人に話を聞いて歴史の記録とする手法は、現代では「オーラル・ヒストリー」と呼ばれいます。)

第二次世界大戦の第一報

ある日のこと…..
とある古本屋さんへブラリと入った。
いろいろ漁っているうちに稲垣史生の「江戸編年事典(青蛙房)」を発見。「買っとけ!」とばかりにレジに向かった。

そうするとレジの近くに大型本が横積みされていて、その中の2冊の赤い本に目が入った。
タイトルはこうだ。
「大東亜戦争画報」(昭和16年)
「大東亜戦争画報」(昭和17年~昭和18年)
パラパラめくってみると、どうも戦前の同名雑誌のバックナンバーを一冊に製本したもののようだ。

復刻版ではなく、明らかに当時のものだ。
「これは…..」とお店の人に尋ねてみた。
「ああ、これですか」とお店の店主。

店主の話によると、この本の持ち主は製本屋さん。
自分の持っていた過去の雑誌を自分で製本したものなんだそうだ。
ところがその方は亡くなり、遺族がそれを処分するため下取りに出したものなんだそうだ。

「実は、その本だけじゃないんです」
といってレジの置から何冊もとりだしてきた。

大阪毎日・東京日日「支那事変画報」(昭和12年~昭和14年)
アサヒグラフ「支那事変写真集」(昭和12年~昭和15年)
内閣情報部編集「写真週報」(昭和14年~昭和15年)
内閣情報部編集「写真週報」(昭和15年~昭和16年)

うひゅあ、何か知らんけど、す凄い…..

1年以上前にお客さんが「必ず買うから」と言って取り置きを依頼したらしい。ところがその人が一年たっても取りにこないのだという。
そして「あなたが欲しいのならば、どうぞ」と言われた。
誰も「欲しい」とは言っていないぞ。

この雑誌、バラのバックナンバーなら神保町あたりにありそうだ。
だけどこうやって製本されているのは珍しいんじゃないか?
何よりもこの6冊の本が「ねえ私を買って」と、とんでもないコトを言っている。
おそるおそる値段を尋ねると。
「いや、もうあなたの言い値で結構です」と言われてしまった。

そこで僕が「一冊こんなもので、6冊合計でこれではいかがでしょうか?」と、ある金額を提示すると、
「ああ、それで結構ですよ」と顔色ひとつ変えずに承諾された。

そんなわけで大型本6冊を持って帰った僕は、カミさんには呆れられ、子供たちからは「ひょえー」と言われた。

パラパラっとめくってみた。

このうち「支那事変画報」は毎月8日発売の月刊誌だったようだ。
「画報」とは名のとおりでグラビア誌のこと。そして内容はタイトルどおりで戦争一色だ。
戦地での日本軍の活躍や現地人との交流風景などが記事とともにふんだんに織り込まれていた。
そして、昭和17年1月8日号から「大東亜戦争画報」と改題されているのは、前年12月8日の真珠湾攻撃をきっかけに戦局が拡大したからに他ならない。

そんな昭和17年1月8日号は真珠湾攻撃を成功させた山本五十六が表紙だ。

この号を開いてゆくと「米太平洋艦隊全滅す 航空兵力も全滅」とあった。

軍事機密だったのか、編集段階では写真が公開されてなかったのか戦闘の模様は想像画だ。

これ一冊で記事がいくつ書けるかわからないネタの宝庫なんだけど、キリがないから省略する。

でも本当に凄かったのは別にある。
このうちの1冊の表紙を開いたところ、数ページにわたって新聞の号外がスクラップされていたのだ。
おそらくこの本の持ち主(製本者)が、コレクトしていたものを貼っていったのだろう。
この内容が凄かった。

これは昭和14年9月1日の朝日新聞の号外。
「独波両軍国境で激戦中」とある。「独」はドイツ。そして「波」はポーランドだ。
その記事はこう書かれている。

【ベルリン三十一日発 同盟至急報】三十一日午後八時(日本時間一日午前四時)正規軍の支援を待つポーランド便衣隊は上部シレジアのグラウヴィッツに侵入し同市放送局を占領その二ケ所に於て越境し来り目下独波は国境において激戦中である。

これを意訳するとこうなる。

【ベルリン8月31日発 同盟通信社による至急電】8月31日午後8時(日本時間の9月1日午前4時)、正規ポーランド軍の支援を待っているポーランド軍の一般市民を装った兵隊たちが、ドイツ領土であるライン川上部シレジア地域のグライヴィッツ市に侵入し、市にあるラジオ放送局を占領した。あわせて二ヶ所において国境を越えてきた。現在ドイツ・ポーランド軍は国境付近において激しい戦闘を行っている。

今ではこの「グライヴィッツ事件」がポーランドからの攻撃ではなく、単なるナチスドイツのでっちあげ事件だったことは3歳の子供でも知っているけど、これによりドイツ軍のポーランド侵攻が始まった。

歴史好きな人ならわかると思うけど、これは第二次世界大戦勃発を知らせる号外だったわけだ。

そして9月3日、イギリスがドイツに宣戦布告。「俄然欧州大動乱勃発」とある。

人類史上最悪の6年間が始まった….

これ以外にもこの本には当時の地図など色々なものがスクラップされている。
そのひとつひとつが記事になってしまうような価値がある。

12月5日に叔父から貰った祖父の遺品もそうなんだけど「好きな人間」というものはそのジャンルのモノを引き寄せる傾向がある。ただし今回ばかりはその内容の濃さに恐怖を感じている。

30年目の公開。John Lennonの死を伝えたニュース(音声のみ)

1980年12月9日の話。
中学校3年生だった僕が学校から帰ってきたのは、午後15時45分ぐらいだったろう。16時からの刑事ドラマ「大追跡」の再放送を欠かさずに見ていたのだ。むろんビデオデッキなどまだ我が家にはなかった。
テレビをつけてチャンネルを日テレにあわせ、冷蔵庫に行き牛乳をコップに入れ、ソファーに座ってテレビを見ていた。
15時50分からのニュースが始まった。
これから外出するのだろうか、お袋が隣の部屋で着替えながら僕に何かを話しかけてきた。
それに答えようとした瞬間、テレビのアナウンサーの「元ビートルズのジョンレノンが....」という言葉に反応した。当時ビートルズのことをテレビで放送するなど皆無に近かった。だからお袋が話しかけるのを制してテレビに見入った。
「....射殺されました」。

「ジョン・レノン」と「射殺」という二つのキーワード。
これが頭の中で結びつかなかった。
結びつかないまま、一瞬振り返ったときに見たお袋の着替え姿、テレビで何かをしゃべっているアナウンサー、マンションの窓から見える冬空、そんな断片的な映像が今でも頭の中に残っている。

我に帰ってチャンネルを回すが、16時からはどこもそんな報道がない。そこでラジオをつけると、NHKFMからビートルズの曲が流れてきた。
カセットテープでそれを録音した。

さて、ラジオの録音を始めた僕は、そのあと姉の部屋に行き、姉の「いいほうの」カセットテープレーコーダーを強奪し、それをラインでテレビのヘッドホン端子につないだ。
そしてランダムにテレビのニュースを録音していった(映像はありません)。

(おそらく6時のニュース。4分44秒)


(これはNHK”ニュースセンター9時”だったと思う。テープが途中で終わっているが、15分以上の特別コーナーで彼の死を報道した)

録音したのはSONYの90分テープ。
音楽好きな叔父の「名犬」さんからもらったテープで「グレープ・かぐや姫」と書いてあるにもかかわらず、急激に聞く音楽が変化する年頃ゆえ、いつの間にやらラジオのエアチェック用に利用していた。名犬さんごめんなさい。そんなエアチェックした音楽の後に唐突にニュースを録音したのだけど、直前の曲がビートルズの「All You Need Is Love」だったというのは偶然すぎる。その前には日本のテクノバンドPlasticsの「Copy」が入っているというのは無茶苦茶すぎる。本当に揺れ動く「15の耳」だったんだなぁと思う。

当時の新聞記事の切り抜きや12月24日に日比谷野音で行われた「ジョン・レノン追悼集会」に友達と3人で行った際の写真とかもあったのはずだと探してみたけど、見つからなかった(年末の大掃除の際に探してみます)。とにかく高校受験を前にして1ヶ月ぐらい勉強が手につかない「15の冬」だった。

翌日、英語の授業でビートルズが好きだった麗しのミチコ先生が泣きながら思い出話をしてくれた。
「ビートルズが日本に来たとき、私はあなた方と同じ年齢でした。とても先生に行くのを反対されたまして。それで”英語の勉強になるからいいでしょ”と先生を説得して....何とかコンサートに行けたのが今でもいい思い出です」

「1980年12月」を僕の記憶の中で際立たせているのは、もちろんジョンの死が大きい。この先生の言葉も忘れられないし、ジョンの追悼集会に行って終電ギリギリまで常盤橋公園でギターを弾くお兄さんたちに混ざって彼の歌を合唱したという思い出もある。もちろん自分自身が15歳の誕生日を迎えたということもあったし、さらにいえば新聞の片隅にあった「イギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリンが解散宣言」という記事でさえも覚えている。
「あの時、何をしていたかよく覚えている」というのはJFKの暗殺事件や全米同時多発テロに直面した人たちが共通で抱く記憶じゃないかと思う。
人間の記憶とは、こういう外的な衝撃によって鮮やかにすりこまれるもののようだ。

でもそんな15歳の心は移ろいやすい。コンピューター的な緻密さを持つポールに比べて、喧嘩っ早くて飲んだくれでマザコンでマイブーム平和野郎のジョンが次第に「愛と平和の使者」として祭り上げられてゆくのが嫌になり....今ではそれを誰が仕掛けたのかも知っているが.....1年後にはThe Whoにどっぷりハマっている自分がいたのだった。

「15歳」といえば、僕と生まれた日が4日違いだった尾崎豊の「15の夜」を思い出す。彼のように盗んだバイクで走り出すほどの度胸はなかったけど、聞かなければいけない音楽、見つけなければいけない音楽を求めて走り出す衝動だけは凄くあった。そんな「15の夜」だった。

なお、当日の国内のテレビニュース映像ならば昨年からmeganeWorkerさんによってYutubeにUPされている。

15時のニュースだから、彼の死(現地時間で12月8日の23時前、日本時間では12月9日の13時前)の直後のもので、大変貴重なものだ。

さらに、これは余談。
先に録音したNHK FMのラジオ番組、これはNHKの緊急追悼番組として2日連続でオンエアされた。12月9日がビートルズ時代、10日がソロ時代という構成だった。10日にはリリースされたばかりのソロアルバム「Double Fantasy」のうち放送禁止となった「Kiss Kiss Kiss」以外の全曲をすべてオンエアするという凄いものだった。1980年といえば、ビートルズの曲のうちどれが曲がジョンの書い作品で、どれがポールの書いた曲かなんてあんまり認識されていなかった時代だったと思う。だけどNHKにはプロデューサーで好きな人がいたのだろう。この対応は素晴らしいものだった。

そもそも「ロックミュージシャンの死」というものに、全くテレビのメディアが全く敏感でなかった時代だ。追悼スペシャル番組なんて一切無かったし、翌日のワイドショーなどで取り上げられることもなかった(お袋談)。辛うじて市川でも見れた「ミュートマ(だと思う)」が5分程度の「追悼コーナー」で「Revolution」のPVをチラっと流したのと、「題名のない音楽会」が「ジョン・レノン追悼」と銘打って「Yesterday」、「Let It Be」、「Fool On The Hill」などポールの曲ばかりを紹介したぐらいだ。

そんな時代によくこれだけのラジオ番組を流したと思うし、おかげでジョンについて自分の知らない多くのことを教わった。このテープは今でも家のどこかにあるはずだ。

追記:本記事に関して、lackofsleeeepさん運営の「8分の7拍子天国」においてこのような形でご紹介頂いた。
lackofsleeeepさんが書かれているように、ジョンが亡くなったのが日本時間では12月9日というのは間違いない話で、僕は高校生の頃は毎年12月9日のジョンが亡くなった時間(日本時間の13時前....ちょうど昼休みの時間となる)にやはりJohnが好きだった友人のコクボ君と黙祷を捧げたものだ。
現地時間に合わせた日を命日とする....もっと具体的に言えば、たとえば墓石に書かれた日付が.....もっともジョンの墓石は存在しないか内緒かのどちらかなのだけど.....「-1980/12/8」であればその日が世界的に同一の命日になることは、一見当たり前のことのように思える。しかしリアルタイムで事件を知り、その感覚を引きずってきた人間には「12月8日命日」というのにはかなり違和感を感じる。

今でも思い出すのだけど、1980年12月24日に日比谷野外音楽堂において行われた「John Lennon追悼集会(おいおい”集会”っていうのがなんだか1970年代的精神の下にあるなぁ~)」において、どなたか音楽業界の関係者(僕の嫌いな香月利一だった気がする)が、「ジョンの亡くなったのは現地時間の12月8日、実はこれって真珠湾攻撃を日本が行ったときの日本の現地時間なんですよね(ハワイでは7日)。平和を訴え続けたジョンがこの日に銃で亡くなったことに因縁を感じます」という演説をしていた。「おいおい、なんだか無茶苦茶だな」と感じたのを覚えている。実はこの「真珠湾攻撃との因縁」というヤツがミソでして、そういう関連付けをしようとする動きによって、次第に12月8日に亡くなったことに日本でもなっちゃった感がしてならないのだ。もちろん僕の気のせいなんでしょうけどね(笑)。

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