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歴史の切れ端
30年目の公開。John Lennonの死を伝えたニュース(音声のみ)
- 2010-12-09 (木)
- 歴史の切れ端
1980年12月9日の話。
中学校3年生だった僕が学校から帰ってきたのは、午後15時45分ぐらいだったろう。16時からの刑事ドラマ「大追跡」の再放送を欠かさずに見ていたのだ。むろんビデオデッキなどまだ我が家にはなかった。
テレビをつけてチャンネルを日テレにあわせ、冷蔵庫に行き牛乳をコップに入れ、ソファーに座ってテレビを見ていた。
15時50分からのニュースが始まった。
これから外出するのだろうか、お袋が隣の部屋で着替えながら僕に何かを話しかけてきた。
それに答えようとした瞬間、テレビのアナウンサーの「元ビートルズのジョンレノンが....」という言葉に反応した。当時ビートルズのことをテレビで放送するなど皆無に近かった。だからお袋が話しかけるのを制してテレビに見入った。
「....射殺されました」。
「ジョン・レノン」と「射殺」という二つのキーワード。
これが頭の中で結びつかなかった。
結びつかないまま、一瞬振り返ったときに見たお袋の着替え姿、テレビで何かをしゃべっているアナウンサー、マンションの窓から見える冬空、そんな断片的な映像が今でも頭の中に残っている。
我に帰ってチャンネルを回すが、16時からはどこもそんな報道がない。そこでラジオをつけると、NHKFMからビートルズの曲が流れてきた。
カセットテープでそれを録音した。
さて、ラジオの録音を始めた僕は、そのあと姉の部屋に行き、姉の「いいほうの」カセットテープレーコーダーを強奪し、それをラインでテレビのヘッドホン端子につないだ。
そしてランダムにテレビのニュースを録音していった(映像はありません)。
(おそらく6時のニュース。4分44秒)
(これはNHK”ニュースセンター9時”だったと思う。テープが途中で終わっているが、15分以上の特別コーナーで彼の死を報道した)
録音したのはSONYの90分テープ。
音楽好きな叔父の「名犬」さんからもらったテープで「グレープ・かぐや姫」と書いてあるにもかかわらず、急激に聞く音楽が変化する年頃ゆえ、いつの間にやらラジオのエアチェック用に利用していた。名犬さんごめんなさい。そんなエアチェックした音楽の後に唐突にニュースを録音したのだけど、直前の曲がビートルズの「All You Need Is Love」だったというのは偶然すぎる。その前には日本のテクノバンドPlasticsの「Copy」が入っているというのは無茶苦茶すぎる。本当に揺れ動く「15の耳」だったんだなぁと思う。

当時の新聞記事の切り抜きや12月24日に日比谷野音で行われた「ジョン・レノン追悼集会」に友達と3人で行った際の写真とかもあったのはずだと探してみたけど、見つからなかった(年末の大掃除の際に探してみます)。とにかく高校受験を前にして1ヶ月ぐらい勉強が手につかない「15の冬」だった。
翌日、英語の授業でビートルズが好きだった麗しのミチコ先生が泣きながら思い出話をしてくれた。
「ビートルズが日本に来たとき、私はあなた方と同じ年齢でした。とても先生に行くのを反対されたまして。それで”英語の勉強になるからいいでしょ”と先生を説得して....何とかコンサートに行けたのが今でもいい思い出です」
「1980年12月」を僕の記憶の中で際立たせているのは、もちろんジョンの死が大きい。この先生の言葉も忘れられないし、ジョンの追悼集会に行って終電ギリギリまで常盤橋公園でギターを弾くお兄さんたちに混ざって彼の歌を合唱したという思い出もある。もちろん自分自身が15歳の誕生日を迎えたということもあったし、さらにいえば新聞の片隅にあった「イギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリンが解散宣言」という記事でさえも覚えている。
「あの時、何をしていたかよく覚えている」というのはJFKの暗殺事件や全米同時多発テロに直面した人たちが共通で抱く記憶じゃないかと思う。
人間の記憶とは、こういう外的な衝撃によって鮮やかにすりこまれるもののようだ。
でもそんな15歳の心は移ろいやすい。コンピューター的な緻密さを持つポールに比べて、喧嘩っ早くて飲んだくれでマザコンでマイブーム平和野郎のジョンが次第に「愛と平和の使者」として祭り上げられてゆくのが嫌になり....今ではそれを誰が仕掛けたのかも知っているが.....1年後にはThe Whoにどっぷりハマっている自分がいたのだった。
「15歳」といえば、僕と生まれた日が4日違いだった尾崎豊の「15の夜」を思い出す。彼のように盗んだバイクで走り出すほどの度胸はなかったけど、聞かなければいけない音楽、見つけなければいけない音楽を求めて走り出す衝動だけは凄くあった。そんな「15の夜」だった。
なお、当日の国内のテレビニュース映像ならば昨年からmeganeWorkerさんによってYutubeにUPされている。
15時のニュースだから、彼の死(現地時間で12月8日の23時前、日本時間では12月9日の13時前)の直後のもので、大変貴重なものだ。
さらに、これは余談。
先に録音したNHK FMのラジオ番組、これはNHKの緊急追悼番組として2日連続でオンエアされた。12月9日がビートルズ時代、10日がソロ時代という構成だった。10日にはリリースされたばかりのソロアルバム「Double Fantasy」のうち放送禁止となった「Kiss Kiss Kiss」以外の全曲をすべてオンエアするという凄いものだった。1980年といえば、ビートルズの曲のうちどれが曲がジョンの書い作品で、どれがポールの書いた曲かなんてあんまり認識されていなかった時代だったと思う。だけどNHKにはプロデューサーで好きな人がいたのだろう。この対応は素晴らしいものだった。
そもそも「ロックミュージシャンの死」というものに、全くテレビのメディアが全く敏感でなかった時代だ。追悼スペシャル番組なんて一切無かったし、翌日のワイドショーなどで取り上げられることもなかった(お袋談)。辛うじて市川でも見れた「ミュートマ(だと思う)」が5分程度の「追悼コーナー」で「Revolution」のPVをチラっと流したのと、「題名のない音楽会」が「ジョン・レノン追悼」と銘打って「Yesterday」、「Let It Be」、「Fool On The Hill」などポールの曲ばかりを紹介したぐらいだ。
そんな時代によくこれだけのラジオ番組を流したと思うし、おかげでジョンについて自分の知らない多くのことを教わった。このテープは今でも家のどこかにあるはずだ。
追記:本記事に関して、lackofsleeeepさん運営の「8分の7拍子天国」においてこのような形でご紹介頂いた。
lackofsleeeepさんが書かれているように、ジョンが亡くなったのが日本時間では12月9日というのは間違いない話で、僕は高校生の頃は毎年12月9日のジョンが亡くなった時間(日本時間の13時前....ちょうど昼休みの時間となる)にやはりJohnが好きだった友人のコクボ君と黙祷を捧げたものだ。
現地時間に合わせた日を命日とする....もっと具体的に言えば、たとえば墓石に書かれた日付が.....もっともジョンの墓石は存在しないか内緒かのどちらかなのだけど.....「-1980/12/8」であればその日が世界的に同一の命日になることは、一見当たり前のことのように思える。しかしリアルタイムで事件を知り、その感覚を引きずってきた人間には「12月8日命日」というのにはかなり違和感を感じる。
今でも思い出すのだけど、1980年12月24日に日比谷野外音楽堂において行われた「John Lennon追悼集会(おいおい”集会”っていうのがなんだか1970年代的精神の下にあるなぁ~)」において、どなたか音楽業界の関係者(僕の嫌いな香月利一だった気がする)が、「ジョンの亡くなったのは現地時間の12月8日、実はこれって真珠湾攻撃を日本が行ったときの日本の現地時間なんですよね(ハワイでは7日)。平和を訴え続けたジョンがこの日に銃で亡くなったことに因縁を感じます」という演説をしていた。「おいおい、なんだか無茶苦茶だな」と感じたのを覚えている。実はこの「真珠湾攻撃との因縁」というヤツがミソでして、そういう関連付けをしようとする動きによって、次第に12月8日に亡くなったことに日本でもなっちゃった感がしてならないのだ。もちろん僕の気のせいなんでしょうけどね(笑)。
海の底のルバイヤート
- 2010-07-10 (土)
- 歴史の切れ端
ルバイヤートっていう詩集があるらしい。
“あるらしい”と書かざるを得ないのは、名前だけ知っているのに今までマトモに読んだことがなかったからだ。
先日ペルシア書道展に行った際、その出展作品の中に「ルバイヤート」の詩の一節を引用した作品があった。
それでようやくルバイヤートがペルシアの詩集であることを学んだ。
ふむふむ、作者は11世紀のペルシアの学者ウマル・ハイヤームという人だったんだね。
そんなことも知らないくせに、僕はルバイヤートという書物に対して22年にわたってひとつのイメージを持ち続けていた。
それは”海の底で詠みあげられる詩”というものだ。
1911年のこと。
イギリスの有名な製本会社であるサンゴルスキー&サトクリフ社のフランシス・サンゴルスキーが豪華な装丁によって一冊の芸術品を作り上げた。

その本の名前は「ルバイヤート(Rubaiyat of Omar Khayyam)」。
ペルシア書道の会場で羊子さんに尋ねたら「それはきっと写本よ」と言っていたが、そのとおりだった。
ルバイヤートは前にも書いたとおり11世紀に書かれた作品。それを19世紀の半ばになってエドワード・フィッジェラルドというイギリス人が初めてペルシア語から英語に翻訳した。
サンゴルスキーはその翻訳版をたった1冊製本し、そこに豪華な装飾をくわえたのだ。

表紙や裏表紙、そしてカシの木で作られたケースに1500種類もの色とりどりの革が張られペルシア風の意匠を形作った。
表紙には金泊で飾られた3匹のクジャクが表紙いっぱいにきらびやかな尾を広げていた。裏表紙には金泊を使って民族楽器の図柄が施された。
さらに本全体をルビー、ガーネット、アメジスト、トパーズ、トルコ石など1051個の宝石、象牙、マホガニー、銀などで飾った。花の模様ひとつひとつ、葡萄の房ひとつひとつに宝石が埋め込まれた。彼は、この装丁に2年の歳月を費やしたといわれている。
もちろんこれは読むためのものじゃなくて価値のある宝飾品だ。
製本された「ルバイヤート」は「製本の歴史上、最も大胆な作品」と評され、ウマル・ハイヤームにちなんで「偉大なるウマル(Great Omar)」と呼ばれた。
サンゴルスキーはこの本を経済的に成長しつつあったアメリカで売ろうと考えたのだろう。
「ルバイヤート」は船積みされてアメリカへと渡った。ところがアメリカの税関はこの本に対して「途轍もない」関税をかけようとした。サンゴルスキーはこの関税の支払いを拒んだため「ルバイヤート」はアメリカ上陸を目前にして、再びイギリスへと持ち帰られた。
結局のところサンゴルスキーは「ルバイヤート」をサザヴィーのオークションに出品することにした。少なく見積もってもこの「本」は1000ポンドは下らないだろうと言われていたし、サンゴルスキーもそれ以上の価格で売るつもりだった。
ところがどっこい、運悪くオークション当日(1912年3月29日)が炭鉱ストライキにぶつかってしまった。当時イギリスの工業を動かしていたのは石炭。「黒いダイヤモンド」と呼ばれたゆえんだ。それを掘り出す炭鉱夫たちのストライキはオークションを直撃した。
結局のところアメリカ人によって「ルバイヤート」は予想をはるかに下回る405ポンド(2,025ドル)で落札された。
さてさて、以下の計算方法があっているのかどうかわからないけど、当時のアメリカ人の平均年収がこちらのサイトにあった。だいたい500ドルぐらい(1910年)になっている。2007年の国税庁「民間給与実態統計調査」によれば日本人の平均年収は437万だそうだから、「ルバイヤート」は現在の日本人の感覚でいうと1750万で売れたということになる。充分高価じゃん!
だけどサンゴルスキーのガッカリ感は相当なものだったと思う。ストは終結したのは4月3日のことだった。2年もかけて作り上げた本は数日の差で安値でアメリカに売られることになってしまった。
多くのイギリス人が、「偉大なるウマル(Great Omar)」がこんな値段でアメリカへと売られてゆくのに意義を唱えたようだ。しかし、落札されてしまったものは仕方がない。
サンゴルスキーは苦々しい顔をしていたかもしれないけど、炭鉱ストが終結したことで石炭を燃料としていた船の船主は大喜びしていた。再びイギリスの港には活気が戻った。4月10日、この本はサウサンプトン港から客船に船積みされ、新しい持ち主の待つアメリカへと旅立つことになった。その船の名はRMSタイタニック。

現在もこの本は北大西洋の深海4000m近くに眠り続けている。
僕がこの「海の底のルバイヤート」について知ったのは海洋地質学者のロバート・D・バラード(Robert Ballard)が書いた「タイタニック発見」という本だった。彼は1985年に海底探査で沈没したタイタニックの残骸を発見し、それを映像と写真で記録した。この本の日本語版は1988年に出版されているけど、この本がなければあの映画はなかっただろう。
ロバートが「ルバイヤート」について触れているのはわずか1行足らず。だけど「海の底に宝石を散りばめた詩集が沈んでいる」というイメージは強烈だった。
その本には海底に散らばった様々な「遺品」の写真が掲載されている。

これが砂に埋もれているということはない。子供用の人形、便器、ストーブ、石炭、食堂の皿、浴槽、スーツケース、ベッド、手鏡、ワインのびん、ちりとり...不気味なことに二足揃った革靴もあった。これは遺体のみが朽ち果てていったが「革をなめすときに使う薬品がバクテリアの口に合わなかったらしい」とロバートは結論づけている。

だとすれば「ルバイヤート」も金泊と宝石に飾られた革表紙ぐらいは残っているじゃないだろうか?
当時、そう思った。
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今回、この記事を書くにあたって、青空文庫にある「ルパイヤート」を読んでみた。
豪華客船の処女航海における沈没、贅を尽くした「本」の運命、そんなものを暗示するような詩があるんじゃないかと思ったからだ。
そうしたらこんな一節を見つけた。

よい人と一生安らかにいたとて、
一生この世の栄耀をつくしたとて、
所詮は旅出する身の上だもの、
すべて一場の夢さ、一生に何を見たとて。
ううむ、何だか意味深である。
こんな詩もあった。
この万象の海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にも出来ない。
あとこんなのもあった。

この永遠の旅路を人はただ歩み去るばかり、
帰って来て謎(なぞ)をあかしてくれる人はない。
気をつけてこのはたごやに忘れものをするな、
出て行ったが最後二度と再び帰っては来れない。
おお、こんな風に読んでいると、タイタニックや「ルバイヤート」の運命を、ルバイヤートそのものが予言しているようにもみえるではないか。
何だかオカルトな話になってきた...........なんてね。
実はこういう事象には理由があったりする。
ルバイヤートに綴られている詩の大半は、飲んだくれだったであろうウマル・ハイヤームが感じていた「人生の無常さ、儚さ」そういうものから成り立っている。「形あるものはいずれ土に還る」なんてことを詠んでいる。
つまりタイタニックやそこに積まれた「ルバイヤート」の運命とは偶然にもテーマが一致した、ただそれだけのことだ。
逆に「沈没の予言」という視点からルバイヤートを読んでみると面白いだろう。解釈の仕方によっては、すべての詩がそうした運命を予言しているかもしれない。
さて、その後の運命の話。
自分の手がけた「ルバイヤート」を安値で買われたうえ、そのものまで失ってしまったサンゴルスキーが亡くなったのは事故からわずか6週間後のことだった。
ウエストサセックス州にある海岸で静養中、溺れかけていた女性を助けようとして溺死したのだ。
そもそも彼は泳ぎ方など知らなかったといわれている。
サンゴルスキーの「ルバイヤード」を復元した人たちもいた。彼が遺したオリジナルの下絵を元にして「ルバイヤード」は6年がかりで復元された。今度は海をわたることもなく銀行の金庫に保管されたが、よりにもよってナチスのロンドン空襲によって直撃弾を受け焼失した。

その後2000年になって「ルバイヤード」は復元され、現在はロンドン図書館に所蔵されている。
僕の頭の中にあったイメージをルバイヤート風に書くと、こうなる。
光も届かぬ海底では、宝石すらその輝きを失う。
それでも「本」は詩を詠みつづける。
一瞬で消えた舟とおのれの栄華は遠い昔。
今は迷える霊魂に対して詩を詠みつづけるのみ。
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あとは余談。
1997年頃、「タイタニック」という船内で繰り広げられるアドベンチャーゲームの日本語版が発売された。船内がCGで再現されていて、主人公はそこを歩くことができるという素晴らしいゲームだった。あの映画を製作するにあたってジェームズ・キャメロン監督も参考にしたいわれている。ところがXP環境ではこのゲームは動作不良を起すようで、今では家のどこにあるかわからない。
だからストーリーをよく覚えていないのだけど、主人公はイギリスの元秘密諜報部員でタイタニックに乗船している。ある男が船内から盗んだ「ルバイヤート」を取り戻すための取引条件として、船が沈没するまでに3つのアイテムを探しだすというストーリーだった。
うまく3アイテムを見つけ出し、なおかつ「ルバイヤート」も手に入れてタイタニックから生還すると、ゲームのエンディングがこうなる。
①ルバイヤートとネックレス:セルビアのテロリストたちの資金源になるはずのものだった。これを主人公が入手したことでセルビアのテロリズムは頓挫する。だからサラエヴォ事件が発生しない。つまり第一次世界大戦が勃発しない。
②絵画:本来必要だったのは絵画の裏に貼り付けられた機密文書だった。だがタイタニックから救出された唯一の絵画ということで、この絵は高値で取引されることになった。おかげでこの絵を描いた人物も有名画家となる。その人の名前はアドルフ・ヒトラー(ヒトラーはもともと画家志望だった)。つまり第二次世界大戦が勃発しない。
③ノート:ロシアの共産主義者のリストだった。これが無事持ち帰られたことにより共産主義者は一網打尽に捕まえられた。したがってロシア革命は発生しない。東西冷戦も発生しない。
つまり20世紀は平和な百年になりましたというオチでした。
御茶ノ水研究会紀要(3)
聖橋
- 2010-06-18 (金)
- 歴史の切れ端
【ここまでのあらすじ】
1978年、当時中学校1年生だった僕とH君は、東京観光気分で御茶の水を訪れました。
まずは神田明神へ行こうと聖橋を渡った僕は、父から借りたカメラで御茶ノ水橋方面、そして秋葉原方面を撮影したのです。
何も考えずに朝のさわやかな空気の中で撮影したこれらの写真が、今では「それなりの歴史の記録」になってしまったことに、図らずも(少なくとも)32年以上も生きてしまったことを痛感する今日このごろです。
【本文】
さて、僕とH君は神田明神へと行き、そこで祭太鼓を叩く方々をひとしきり眺めていたのを覚えている。
そして神保町に向かうべく御茶ノ水橋を渡った際に撮影したのがこの写真だ。

聖橋(1978)

(2010)
「それほど景観に大きな変化がない」と感じるのが第一印象ではないだろうか。
実はそうではない。一度大きく変化しながら元に戻ったのだ。
ウィキペディアに、数年前に撮影された「聖橋」の画像があった。
見ればわかるとおり、聖橋を圧迫するかのように白いビルが屹立と聳えている。
我々がこの写真を撮影した5年後の1983年のこと。「さぁこれからバブルの時代だぞ!」と言わんばかりに聖橋のたもとに20階建のビルが竣工した。通称「日立ビル」と呼ばれていたこのビルの正式名称は「日立御茶ノ水ビル」。
このビルが日立の本社として使用されたのはわずか23年足らずだった。
2006年には本社は移転、2008年からビルの解体工事が始まり、半年でビルは地上から消滅した。
わずか25年の命だった。お向かいのニコライ堂が築120年になることを考えたら、なんともバカバカしい話だった(もっとも10年ちょっとで解体された磯子の横浜プリンスホテルなんてもっとバカバカしいのだが)。
そんなビルだったけど、地下駐車場が界隈では最も安かったこと、近隣にあった某大学では「ちょっと日立に面接に行ってくる」が合言葉だったことが印象に残っている。
まあとにかく、一時的ではあるけどそしてお茶の水の空の広さが戻ってきた。そして聖橋もスッキリとした表情をしている。
そんな聖橋を、僕は東京で最も美しい橋のひとつだと思っている。
だからもう一枚画像を紹介する。
僕の好きなサイトである土木学会付属土木図書館さんのサイトから許可を得て、転載させて頂いた。

聖橋(1927年頃 出典元および出典許可:土木学会図書館戦前土木絵葉書ライブラリ)
定点観測写真の試みについては「京都、円通寺裏定点画像」を、
画像拡大の試みについては「最も新しき大大阪名所絵葉書(3 難波橋編)」を、
画像とその情報に関する試みについては「『ベスト オブ くるり / TOWER OF MUSIC LOVER』全画像解説」などもご覧あれ。
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