碓氷峠鉄道文化むら

2015/5/9 土曜日

行ってきました長野方面への旅。
目に触ったものを適当にUPします。

【電気機関車】
まずは群馬県の横川に到着。ここから碓氷峠の旧道を登って軽井沢方面へと抜ける段取り。とりあえずこのあたりで退屈している子供たちを遊ばせようと「碓氷峠鉄道文化むら」へ。

ここは鉄道が好きな方々には「聖地」に違いない。かくいう僕も小学校低学年の頃、鉄道少年だった。親父に連れられて交通博物館へ行って喜んでいたものだ。ただ当時からズレていたのは大昔の蒸気機関車や旧型の電気機関車以外は興味がなかった、ということ。新幹線や特急列車、当時の小学生の間で流行だったブルートレインには全く興味なし。あの頃から重厚で古臭くて、機械臭いデザインのものが好きだったようだ。

たとえばこの電気機関車(昭和7年ごろ)。「見てくれ」を全然気にしていない。地味ぃ~にこげ茶色に塗られた車体、リベットむき出しの重厚なボディ、前照灯をボディにすっきり収めようなんて発想もない。こういうのをみていると今でもゾクゾクする。
そんなわけで「昭和以前の工業デザインマニア」という視点から、この「聖地」を楽しんでみる。

【流線美の春】

「デゴイチ」の愛称で知られる「D51(昭和11年~)」には、このような煙突まわりを流線型にデザインしたものが存在する。設計上の色々な理由もあったのだろうけど、そんなことよりも大事なのは、昭和9年頃から世界規模ではじまった「流線型」ブームの余韻の中で設計されたということだ。空気抵抗を極力減らした洗練されたデザインは斬新だった。そんな中から以下のような素敵なデザインの列車が生まれている。

C55蒸気機関車

EF55電気機関車

52系電車
ところがどっこい、こういった機械全体を流線型のカバーで覆ってしまうことにはそもそも無理があったようで、無意味にメンテに手間のかかるシロモノだったらしい。
余談だが、「流線型ブーム」は音楽にも及ぶ。昭和10年に宝塚春のおどりで「流線美の春」というジャズ・ソングが二条宮子によって歌われ、コロムビアレコードからリリースされている。
「春だ、踊りだ、踊りだ春だ、今年ゃ流線流線、美の春だ。花は咲いた流線美の都、空に流線、海にも流線、街には流線、山にも流線」というわけのわからない歌詞だった。
このわかったようなわからないような「流線型ブーム」だが、間もなく日中戦争が勃発すると、次第に実用本位のデザインに戻されていったようである。

【昭和の食堂車】

昭和30年代に使われた食堂車らしい。
東宝映画「社長シリーズ」にでも登場しそうな雰囲気。

この椅子は実にシンプルな造り。教室のロビーの椅子もこんな雰囲気を残している。腰掛けた森繁久彌に対し「社長っ!温泉に着いたらパァーと行きましょう!パァーっと!」と三木のり平がアオりまくるというのは僕の想像だ。

食堂車のクーラー。昭和40年代のものと思われる。当時のクーラーは木目調のものが多い。これは山の涼しげな雰囲気を家庭に持ち込みたいという当初のコンセプトがあったからだと思う。三菱電機のクーラーにはもう40年近く続いている「霧ヶ峰」というネーミングのシリーズがあるけど、これなんかも長野県の「霧ヶ峰」を商品名にしているわけだ。

【装置類】
鉄道文化むらの片隅に様々な装置が置いてあった。
これがまたマニア心をくすぐる装置ばかり。

「S型受信機回路試験器」

「車上子結合度試験器(昭和39年)」

「オルガノ式電気なんとか器」

「河村式濃度計」

これらの使い方?
そんなのわからないけど、この独特の雰囲気には卒倒しそうになった。

【給水器】

今でもヘタしたら、どっかの列車にあるんじゃないかな。
昔はよく見かけた給水器。「冷水を給水する」それ以上の目的がないため、デザイン感覚はなさげな装置だ。折りたたんである紙コップを広げて、そこに水を入れたんじゃなかったかな。コップ一杯分の水では、喉の渇きを潤わせることができなかった記憶がある。

【ED166のプレート】

これを資料館で見た瞬間「あっ」と驚いた。
先日「祖父と湯の花トンネル列車銃撃事件」というのをUPしたけど、祖父が乗っていた「419列車」を牽引していた電気機関車はED16-7だったと書いた。ウィキペディアによれば国鉄ED16形電気機関車は昭和6年に18台製造されたらしい。祖父が乗っていたのはこのうちの7号機で、これは6号機のプレート。
つまり1番違いということになる。

【管理人】

スリリングな場所でくつろいでいる管理人。線路が冷たいので二重の意味で涼しい。娘に笑われている。別に「下山事件」について検証中、というわけではない。