車に乗っていたのは金正日同志でした

猛吹雪の平壌の街中を、ひとりの女性が子供を抱きかかえながら歩いていた。
母親はこの子を病院まで連れて行かなければならなかった。
そう、子供は重い風邪を患っていたのだ。

凍てつく寒さの中を歩いていると、一台の黒塗りの車が女性のそばまで来てピタリと停まった。後部座席の車の窓がスルスルと開いて、中からから紳士的な男性が女性に話かけた。

「同志、こんな寒い中、子供を連れてどこへ行かれるのですか?」
「子供が風邪をひいてしまい...病院へ連れてゆくところです」と女性が答えると。
「よろしい、私の車にお乗りなさい。病院までお連れしましょう。」とその男性は答えた。
その黒塗りの車は病院まで母子を送り届けたのだった。

このエピソードのオチはわかりやすい。
後日(その時は気づかないというのがポイント)、後部座席の男が偉大なる国家主席金日成の長男にして次期後継者にふさわしい人格と識見の持ち主金正日同志(長いな)であることを知った彼女は、感動に打ち震えながら改めて国家への忠誠を誓った、というものだ。

このエピソードは1985年ごろ、図書館で借りた北朝鮮から出版された日本語訳本に書かれていた。今となっては正確な書名は判然としないが、そのまんま「金正日伝」というタイトルだったように記憶している。当時、大学のサークル(京都奈良を愛する「古都研究会」)仲間で「北朝鮮研究」がブームで、朝鮮側から日本語訳で出版されている書籍をお互いに読みあっていたのだ。

そんな金正日の父、金日成が亡くなったのは1994年のことだった。

(金日成の死去を報じる1994年7月9日京都新聞夕刊と、金正日の死去を報じる2011年12月19日朝日新聞夕刊とを並べてみた。我が家にはこういう新聞がたまるいっぽう。ちなみに「主席」というのはワンアンドオンリーだった金日成にのみ冠される敬称となった)

金日成の後頭部にある大きな「こぶ」のことが取りざたされていた中、彼の死が報じられたのは7月9日のことだった。
テレビのニュース速報で彼の死を報じる第一報が流された時、僕は彼女(今のカミさん)と共に京阪電鉄東福寺駅前にあった古びた定食屋でやや遅い昼食を食べていた。
一瞬、定食屋の空気が凍りついたのを今でも忘れられない。「おー」「へぇ」「ふーん」という声が定食屋のあちこちから起こった。むろん僕もその中のひとりだ。
「世界各国の首脳で、死去したことでこういう反応が起きるのは、合衆国大統領と金日成ぐらいだろう」と思った。

(こんな新聞も出てきた。2000年6月15日...金大中と金正日、二人とも故人となった)

そして今回。
正午を5分も過ぎていなかったと思う。たまたま母を近所の病院に連れていった際に、ロビーのテレビで流れたニュース速報で金正日の死(これまた第一報)を知った。
その瞬間、受付の2人の事務員さんは「おー」「へぇー」という、全く同じ反応をした。
とどのつまり「世界の正義の代表」と「悪の国家の首領」というわかりやすいイメージのみが、「死」というものを印象づけるようだ。

金正日はすでに父親の死去の10年ほど前から後継者を賛美するための本が出版されていた(実際には後継者としての活動を1970年代から開始している)。この点、昨年ぐらいから「後継者」として脚光をあびはじめた金正恩(キム・ジョンウン)とは大きく違う点だ。今後の北朝鮮の政局に混乱が生じることは間違いないだろう。

冒頭に書いた「車のエピソード」にはオチがある。
10年ほど前にソビエトのプロパガンダに関する本を読んでいたところ、全く同じようなエピソードが掲載されているのに驚いた。
そのエピソードでは舞台はモスクワで、車の後部座席に乗っていたのはスターリンだった。国家社会主義的な権力者の下では、こういうエピソードは類型化された都市伝説になるらしい。

もうひとつ言うとすれば、スターリンも金正日も自分の車内に一般人を招き入れることなど絶対しない人間だ。
細心の注意を払ったからこそ、彼らは権力を掌握し、それを維持できたのだから。