レミちゃんは満州育ち

首都新京。整然と区画整理がなされている”藤原てい”という人が書いた小説に「流れる星は生きている」というのがある。

昭和20年、終戦を満州国(ウィキペディアで調べる)の首都新京でむかえた作者が、せまりくるソ連軍の南下を逃れて、3人の幼子を抱えながら逃避行するノンフィクションだ。そこに描かれた母と子の逃避行は、過酷でかつ悲惨だ。

生徒さんのレミちゃんの話をしよう。ステレオタイプで聞かされる「満州引揚の苦労話」とはちょっと違う話。

レミちゃんはお父さんが日本の国策会社「満州電業」に勤めていた関係で、満州の首都新京(現在の長春)で育った。お父上のお兄さんは満鉄の社員だったというから、二人ともいわば満州では特権階級だったといえる。

レミちゃんの家は大きなお屋敷で、中国人の使用人が6人もいた。このお屋敷には、当時の日本では考えられないくらい豪華な設備が整っていた。システムキッチンがあり、電熱器で料理が作れた。風呂は電気湯沸し方式だった。トイレは水洗で(新京は全域完備)、スチームによる全室冷暖房が完備していたそうだ。

戦時中の日本では物資が欠乏していたが、満州では潤沢にモノがあった。当時新京にあった「みなかい」というデパートでは....

管理人「えっ、”みなかい”ってどういう字ですか?」
レミちゃん「もう忘れちゃったわよ」
(管理人注 : これは「三中井百貨店」と書くらしい)

....「みなかい」というデパートではベティちゃんのポーチを売っていたという....

管理人「ベティちゃんって、ベティ・ブーブでしょ、思いっきり敵国の商品じゃないですか」
レミちゃん「だけど売っていたのよ。”みなかい”では...欲しかったのよ、私。」

当時の満州では、砂糖も容易に入手できた。甘い洋菓子、チョコレート、キャラメル...戦争の激化とともに、もはや日本では入手できなくなった物資を、レミちゃんの家では、コンスタントに日本の親戚に送っていたという。

そんなレミちゃんが、足を怪我して半年ほど通院生活をした時、はじめて中国人街をのぞく。

レミちゃん「凄かったわよ。日本人街とは大違いの貧しい暮らしだった。女性は纏足(てんそく)で、子供たちがみんな汚れた格好で地べたに座って食事をしてるの。さすがに正視できなかった」

その後レミちゃんは朝鮮国境の安東へと疎開し、終戦を迎える。満州はソビエト軍に占領される。やがて出征していた父が、安東に迎えにくる。そのお父さんがまた凄い。

レミちゃん「新京にあったソビエトの収容所から逃げてきたのよ。ある暖かい日に、監視がうつらうつらと居眠りを始めたその隙に走り去ったらしいわよ」

さらに凄いのは、レミちゃんを迎えに来たお父上は、家族とともに、今逃げてきたばかりの新京に戻ったのだという。さすがに自宅には戻らなかったが、兄の家に転がりこんだ。そしてその場所で半年弱を暮らすことになる。

レミちゃん「女性のソビエト兵がね、略奪した時計を、腕にびっしりつけて歩いているのよ。兄の家にも、蒙古兵が金目のものを求めて家捜しに来たわよ」

やがて、ソビエト兵は新京からひきあげる。おりから中国では、共産党軍と国民党軍の内戦が勃発し、新京でも市街戦が行われた。レミちゃんは街にごろごろ横たわる中国兵の死体を見ている。

それでも「食べるにはそれほど困らなかった」というから驚きだ。
やがて、日本に帰れる日がやってきた。ほとんどの財産を残し、満州から日本へ。

レミちゃん「そりゃあつらかったわよ。私は1歳の妹を背中にしょって、着の身着のままで無蓋貨車に乗りっぱなしだったんだから。そのあと引き揚げ船でしょ。船倉に下りてゆく急な階段が恐くてねぇ。食事も不味かったし...」
管理人「それで日本までの旅はどの位かかったんですか?」
レミちゃん「1週間か10日位だったわよ。あたしの経験は小説になるわよ」
管理人「ならない、ならない」

レミちゃん「同じ引き揚げ船に、女優の小暮実千代がいたのよ。故郷の博多にようやくたどり着いたら、仮設の舞台があって、歌手の並木路子と平野愛子が慰問に来ていたわ。あの時いただいたおにぎりのそりゃあ美味しかったこと。」

と嬉しそうに話すレミちゃんの笑顔には屈託がない。

僕の調べでは女優の小暮美千代が満州から引き揚げたのが、昭和21年9月だった。そして藤原ていが死地を越えて3人の子供たちと引き揚げたのは、奇しくも同じ9月だった...

レミちゃんは、お家が資産家だったということもあるけど、相当な強運の持ち主だったのだと思う。

そりゃあご苦労もあったのだろうけど、僕は今だかつて、これほど平穏無事に満州から帰ってこれた人の話を聞いたことがない。

レミちゃんの屈託のない笑顔は筋金入りだということがこれでわかった。