ふたりのウィンストン

(今から8年ほど前、1965年のミュージックシーンだけをデイリー・クロニクル形式でとりあげた「1965」というサイトを趣味で作ったことがあります。ポピュラー・ミュージックの歴史の中でも、とりわけ「濃い」1年だったこの年を、ぶった切ってみようと思ったのです........まあ、結局、尻切れトンボに終わり、ぶった切れたのは「尻」だけだったわけですが......この中で「1月24日の出来事」として、一見音楽に関係なさそうな「サー・ウィンストン・チャーチル死去」という記事を書きました。先ほどマイミクのWTB taiさんの日記で10月9日がジョン・レノンの誕生日だったことを思い出し。この記事のことを思い出しました。歴史が好きな人以外は退屈な文章ですが、まあ、いってみます)

この日(1月24日)の朝8時、ロンドンのハイドパーク・ゲートの自宅で、政治家で著述家でもあったサー・ウィンストン・チャーチルが亡くなった。死因は脳卒中、享年90歳だった。
サー・ウィンストン・チャーチル
1874年生まれ、子供の頃は手のつけられない悪戯好きで、最低の成績で陸軍士官学校に入学するが、その後文筆の才能をめきめきと発揮する。彼の戦地からのレポートは大勢の愛読者を作り上げたそうだ。彼の名を高めたのは1899年に新聞特派員としてボーア戦争に従軍したときのこと。この時捕虜となった彼はスリリングな脱出劇を演じてみせ、この体験記は後世まで語り草となった。僕も小学生の頃、この話を読んで胸をときめかせたものだ。

その後、政界に乗り出した彼は、1900年下院議員に当選、1910年には内務大臣に就任する。
シドニー街の銃撃戦」が起きたのはこの頃のこと。ロシア人のアナーキストがシドニー街のある家へ強盗に入ったところを包囲された。彼らは警察に発砲し、爆弾を投げつけて3人もの警察官を殉職させてしまう。手をこまねいた警察ではついに軍隊の出動を要請し、チャーチルが陣頭指揮をとった。この事件の最終幕は家ごと炎上させてアナーキストを全滅させるという最悪のシナリオで終わった。
軍隊の手を借りざるを得なかったこと、これはチャーチルにとっては「触れられたくない傷」だったようだ。後年、この事件をモチーフにヒッチコックが「暗殺者の家(1934)」を撮影した際、チャーチルは何かと撮影に対して横槍を入れたらしい。

さて、第一次世界大戦勃発時には海軍大臣に就任したチャーチルは、戦車の開発も推進したが、トルコ攻撃を主張して悪名他いガリポリ上陸の戦いに失敗し、その責任をとらされて辞任している。一時は軍隊に戻って前線で指揮をとったチャーチルだったが、大戦末期にはロイド・ジョージ内閣での軍需大臣、やがて大蔵大臣などを歴任している。

1940年5月10日、時のイギリス首相チェンバレンは紙切れ1枚の約束をヒトラーに反故にされてしまう。ドイツは西ヨーロッパへと侵攻、チェンバレンは退陣する。
それを受けて、チャーチルは首相に就任した。以後第二次世界大戦時の指導者のひとりとして、勝利のVサインを掲げて国民を励ましながら戦い抜いた。

彼のクライマックスはやはり1940年の”バトル・オブ・ブリテン”だろう。ヨーロッパで大負けして撤退し、孤立無援の状態にあったイギリスに対してドイツが仕組んだ作戦は空軍を先鋒とした上陸作戦(アシカ作戦)だった。これに対しチャーチルは、イギリス空軍による水際撃退作戦で抵抗し続けたため、結局ドイツ空軍は大打撃を被り、ヒトラーにビッグベンを拝ませることを断念させたのだ。

これは余談だけど、この際に孤軍奮闘するイギリス空軍のパイロットたちを音楽で元気づけたバンドがあった。
イギリス空軍(ROYAL AIR FORCE、略してR.A.F.)では、兵士を慰安し士気高揚を図るためには音楽が大切だと考え、民間人ミュージシャンの採用行ったのだけど、そうして「ザ・スクァッドロネアーズ(The Squadronaires)」というビッグ・バンドが結成された。
ここにクリフ・タウンゼント(Cliff Townshend)というサックス奏者がいた。また正式にはメンバー登録されていないが、ベティ・デニス(Betty Dennis)という女性シンガーがいた。この二人はやがて結婚し、ドイツが降伏したまさに勝利の歓喜の中(1945年5月19日)、子供を授かった。The Whoのピート・タウンゼント(Pete Townshend)その人だ。

さて、チャーチルの話。
ヨーロッパ戦線が終結した直後の7月、労働党アトリーとの選挙に敗れ退陣する。彼にとっては衝撃的な出来事だったが、国民は冷静だった。彼らにとってチャーチルとはあくまでも非常時に必要な政治家だったのだ。

翌年アメリカの地方大学で演説した「鉄のカーテン」発言が、東西の対立を公然なものにしてしまったのは有名な話。そして、1951年~1955年に再度首相を務め、80歳になった機会に半世紀以上にわたった政治家活動から引退する。そうした中で著述家として1953年にノーベル文学賞を受賞している。

彼の業績というものは現在でも評価と非難が相半ば、という感じだが、歴史好きな人間にとっては実に興味深い人物だろう。鉄の意志とうらはらにチャーチルが重度の鬱病だったのは有名な話だ。冷酷さと暖かい人間性、失敗と成功の両方を兼ね備えながら激動の時代をくぐり抜けてきた90年の人生は、ヘタな小説よりはるかに面白い。

さて、話を第二次世界大戦中に戻そう。1940年10月9日、彼は保守党党首の座を承諾する。 1904年以来、彼は自由党と保守党の間を行きつ戻りつしていたため、必ずしも保守党の幹部連からは歓迎されていなかったが、ドイツ軍の向こうを張る男を看板にすることが党としてはどうしても必要だったようだ。

そして同じ日の夕方6時30分「激しい空襲の最中」、リヴァプールのオックスフォード通りの産院で、男の子が生まれた。
母親は彼のミドル・ネームに彼女が敬愛していた政治家の名前をつけた。
ジョン・ウィンストン・レノン。後にチャーチル以上に有名になる人物の誕生だった。

「激しい空襲の最中」、これはしばしばジョンの伝記で書かれていることだけど、伝説や作り話のたぐいと思っていいだろう。
メンバーのインタビューに基づく伝記本「アンソロジー」に、この話が登場していないところをみると、ジョンの周辺から出た話ではないだろうか?もしかしたらジョンの育ての親で冗談好きだったミミおばさんあたりが彼に吹き込んだのかもしれない。

1940年10月9日に本当にリバプールで空襲があったかどうかについては、英国空軍の「The Battle of Britain」というサイトに詳しい。その結果、10月9日はマンチェスターとリバプールを結ぶエリアで敵機が確認されたが、リバプールでの空襲は報告されていないことがわかる。この日の空襲はロンドンがメインで、とりわけ夜間からのものは激しいものであったと記録されている。
目立った被害としては、ロンドンっ子の誇りであるセント・ポール寺院が直撃弾を浴びて、祭壇と聖歌隊の控室が破壊されている。

「私はヒトラーがセント・ポール寺院に大穴を空けた日に生まれたんです。アルバートホールをその穴で一杯にするには、何個穴が必要かも知っていますよ」なんて"A Day In The Life”的なことをジョンがうそぶいたら、きっと面白かったろうに。

いずれにせよ、第二次大戦中にリバプールだけで70回以上の空襲があった上、翌年の5月3日夜半から4日にかけての大空襲では400人以上が死亡、3000軒の住宅が焼けたそうだから、あの4人よくぞ無事に生まれ育ったと思う。

後年、ジョンは、「チャーチルと比べられるのがいやだ」という理由で”ウィンストン”を”オノ”に変更する。

彼は最後までチャーチルという人間を毛嫌いしていたようだ。そして新しいジョン・オノ・レノンという言葉の響きを大変気に入っていたという。