只見の河井継之助

8月16日に国道255号線を小出に抜けた際の話がまだ続く。
この日はいろいろ見すぎたかも。

塩沢という集落まで来たところで、道路沿いに「河井継之助(かわいつぎのすけ)記念館」という幟が100メートル以上にわたって大量にはためていた。
「のどかな里山風景」と「豪雨の爪痕」と「炭酸水」という街道道中で「絶対入ってくれ」と言わんばかりの気合の入れ方だった。

幕末史好きなら河井継之助という名を知っている人も多いだろう。幕末に登場した天才にして異端児、新潟の長岡藩の家臣として長岡に強力な軍事国家を作ろうとした男、機関銃のお化けみたいなガトリング砲を用いて官軍と大戦争をやった人、ということは思い出せた。司馬遼太郎が彼を主人公にした「英雄児」という短編を書いており、たまたまこれを読んだことがあったからだ(のちに司馬はこれを「峠」という長編小説に発展させている)。

なぜ長岡の人物の記念館が福島県の只見町にあるのかわからないけど急ぐ旅ではない。何か惹かれるものがあったので寄ってみることにした。
歩きながらカミさんが「河井継之助って誰?誰?」と尋ねてくる。また得体の知れない「誰か」の記念館に連れていかれると思っているのだろう。手短に説明するけど僕もよくは説明できない。

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受付の女性....一人でこの立派な施設を切り盛りしているらしい.....さっきまで玄関の花に水をやっていた....あの幟も彼女が毎朝設置しているのかも.....に入場料を払ったところで、彼女に言われた。
「今日は河井継之助の命日なんですよ」

本当だ驚いた。なるほどこの記念館に惹かれた理由はこれだったかと勝手に合点した。
これも何かの縁なのでじっくり見せて頂くことにした。

河井継之助は長岡で官軍に大負けしたため会津若松へと敗走する。しかし戦の最中に負った銃弾による傷が悪化したため、この塩沢で亡くなったのだそうだ。彼が亡くなった家はダム建設によって水没しそうになったのだけど、辛くも移築されて健在このように保存されているというわけだ。

二階のフロアへ行くと、あったあったガトリング砲だ。
説明書にはこうある。

ガトリング砲とは、1862年に米国人リチャード・ガトリングが南北戦争の最中に発明した最初の機関銃で、1分間に200発もの弾丸を発射できる当時最強の兵器であった。継之助は、当時日本に3門しかなかったガトリング砲を武器商人スネルから2門6千両で購入した。長岡城攻防戦では継之助自ら射手として西軍(筆者注:官軍のこと)に対し、大手門の土手を盾に乱射したと伝えられている。


解説によれば河井は怒涛のように押し寄せてきた官軍に対し、長岡藩は武装国家として中立の立場をとりたい、つきましては奥羽諸藩との講和の仲介をしたい、という意味のことを申し出たようだ。そういえば「英雄児」にもそんな話があったっけな。
大金を払って購った武器が河井に妙な自信を持たしてしまった可能性はあるし(いざ戦端が開いても)自分が天才的軍略家だという自負心もあったのだと思う。
相手は残念なことに河井という人物を知らなかった(あるいは見抜けなかった)、河井は河井でその合理的すぎる思考回路のせいか世のなりゆきを見抜けなかった。自分の理想の国家体制(あるいはアメリカ合衆国を目指していたのでは?)を世に提案しようとした。官軍はこの申し出を「冗談じゃない」と一蹴し、官軍対長岡藩の北越戦争へと発展してまう。

この戦では、一度奪われた長岡城を奪回するという、軍事史上稀にみる作戦に成功をした瞬間もあった。だけど結局のところ河井は局地戦の将だったようだ。総力戦では官軍に勝つことはできなかった。この点、同じ長岡出身の山本五十六(彼の記念館なら行ったことがある)もそうだったと言えるだろう。
傷を負いながら会津へ逃れる途中に八十里越(はちじゅうりごえ)という峠がある。ここで河井は「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠んでいる。

もし理解が間違っていたらごめんなさいだけど、そんなことを教わった。
理解が間違っていようといまいと学ぶべき教訓があったわけだから、それでいいと思った。

近くのお寺に河井継之助のお墓があるというので寄ってみた。

解説板によれば、河井の墓は長岡にあるのだけど残った遺骨を村人が拾い集めて手厚く葬ったのだという。
新しい石と古い石がつぎはぎだらけの墓だった。敗走の途中にここで亡くなったという縁、たったそれだけの縁を只見の人たちは大切にしてきたのだろう。

ぶうらぶら

Posted by spiduction66