罪を憎んでその音楽を....(フィル・スペクターと小室哲哉)

(2021/1/19 追記:このの記事は2008年に小室哲哉が詐欺容疑で逮捕された時に書いたものです。本日、フィル・スペクターの死に際し、改めて読んだらYoutube動画のリンクがすべて消えていたので、そこだけ作り直しました)

「憎まず」....ということができるだろうか?
少なくとも僕はそれをやっていることに気付いた。
と、いうのも「彼」のことを思い出したからだ。
といっても先日逮捕された「」のことではない。

60年代のアメリカのポップミュージック史を語る上で、絶対欠かせないプロデューサーにPhil Spector(フィル・スペクター)という男がいる。


「プロデューサー」といえば裏方的存在だった60年代のミュージック・シーンにおいて、今なお、多くのリスナーに語り継がれているのはジョージ・マーティン(ビートルズのプロデューサー)と、この人ぐらいだろう(他にもアンドリュー・オールダム、バート・バカラック、リー・ヘイゼルウッド、ブライアン・ウィルソン.....とか語るとキリがないのですが)。

たとえば、この曲。誰もが聞いたことがあるはずだ。
The Ronettes “Be My Baby"(1963)

日本では当時、伊東ゆかりなんかがカバーしていた。キャッチーなイントロのドラムスからはじまる音楽の良さもさることながら、「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」と呼ばれたその音響技術がフィルの特徴だった。分厚い音の壁につつまれている感覚、空から音が降り注いでくるような感覚、そんなゴージャスなサウンドが「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれるゆえんだった。ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンはこの曲にインスパイアされて"Don’t Worry Baby"を書いている。

完璧主義者のフィルはこういった音を作り出すために、独裁者のようにスタジオで振る舞った。時にはピストルでスタッフやアーチストを威嚇したこともあるらしい。それが交際している女性にまで及んだことを、ザ・ロネッツのメンバーでフィルとの結婚歴もあるヴェロニカ・ベネットこと、ロニースペクター(上の画像一番右)は自らの自伝で暴露している。

お次はThe Crystals “Da Doo Ron Ron"(1963)


当時は「ハイ・ロン・ロン」なんて邦題がついていた。この三連符にビートルズの「All My Loving」におけるジョンのリズム・ギターが影響を受けたことは、想像に難くない。また、大瀧詠一ははっぴいえんど時代にこの曲にインスパイアされて「はいからはくち」を書いている。

ビートルズとフィル・スペクターといえば有名なのがアルバム「レット・イット・ビー(1970)」だ。オクラ入りしていたビートルズのレコーディング・テープに、フィルがゴージャスなオーケストレイションやコーラスをオーバーダビングさせて「再生」させたアルバムだ。

この仕事をジョンとジョージが気に入って、解散後にそれぞれプロデュース・ワークを依頼した。そのいっぽうでポールがそのアレンジ・ワークに不快感を示して訴訟騒ぎにまでなったのは有名な話だ。ジョンのアルバム「イマジン」で聞ける豪華なオーケストレーションはまさしくフィルのものだし、ジョージの最高傑作である「オール・シングス・マスト・パス」を貫いている独特の分厚い浮揚感は、まさしくフィルの作り出したサウンドだった。

ただしジョンの「ロックン・ロール」のレコーディング中にジョンの意見の合わなかったフィルがブチ切れて、スタジオのトイレの天井にピストルをぶっ放したり、マスターテープを持ち逃げしてしまった、という話も聞いたことがある......つまり天才でありながら、傲慢で分裂しているというのがフィルという人間だった。

そんなフィルがプロデュースした最高傑作アルバムがコレ。
“A Christmas Gift For You (1963)"

フィルの息のかかったグループ総出演のクリスマス・アルバムで、フィルの音楽がどういうものであったかを知るのに最高の一枚だ。

The Ronettes"Frosty The Snowman"

The Crystals “Rudolph the Red Nosed Reindeer"

Darlene Love “Winter Wonderland"

僕はクリスマスの季節になると、このCDを職場で流している。「ただカバーしただけ」という凡百のクリスマス・アルバムが多い中で、このアルバムだけは絶妙なアレンジワークとともに、不思議な輝きを今も残している。

そして、日本でフィルの音楽に魅了されたのが、先ほども紹介した大瀧詠一であり、山下達郎だった。
大瀧詠一「君は天然色(1981)」


大瀧詠一の「君は天然色」を「Da Doo Ron Ron」と聞き比べればその影響は一目瞭然だ。

今年の3月に「音壁 Japan」という面白いコンピレーションがリリースされた。
1.夢で逢えたら / シリア・ポール
2.一千一秒物語 / 松田 聖子
3.SOMEDAY / 佐野 元春
4.つのる想い / 須藤 薫
5.世界中の誰よりきっと / 中山 美穂 & WANDS
6.二人は片想い / ポニー・テール
7.夏休みの宿題 / 杉 真理
8.酸っぱい経験 / 多岐川 裕美
9.恋のハーフムーン / 太田 裕美
10.雨は手のひらにいっぱい / シュガー・ベイブ
11.涙のメモリー / 原 めぐみ
12.YOU MAY DREAM / シーナ&ロケッツ
13.Ring Ring Ring / YUI(浅香 唯)
14.うれしい予感 / 渡辺 満里奈
15.ドゥー・ユー・リメンバー・ミー / 岡崎 友紀
16.青空のように / 大滝 詠一
17.わすれたいのに / モコ・ビーバー・オリーブ

要するにフィルのサウンドに影響された挙句「音の壁」になってしまった曲ばかりを集めたコンピレーションなんだけど、このズラリと並んだ曲の数々を見ていると、フィルが与えた影響の程度がよくわかると思う。

2003年2月、思いもかけずフィルの名前を日本の新聞紙で見ることになった。
「名プロデューサー、射殺容疑で逮捕」とか、そんな感じの見出しだったと思う。
ロスにあるフィルの自宅で、B級映画女優のラナ・クラークソンの射殺死体が見つかったからだ。

ラナはフィルとその前夜に出会い、フィルの自宅に連れてゆかれた。その際に何か諍いがあったのかもしれない(なかったのかもしれない)。ラナは頭部を打ちぬかれた死体となって発見され、駆けつけた警察官に抵抗を示したフィルはスタンガンで制圧逮捕されたのだった。

この裁判だが、フィル側の弁護士がラナの自殺を主張しており、長期化している。裁判の経緯に関しては、「酔吟阿蛮」さんの「フィルスペクターの殺人事件」に詳しい。

さて、このあたりでもう一人の「彼」、小室哲哉のことも書いておこう。
2年ほど前に「秋の大収穫祭」という記事で、僕はこう書いている。
「小室サウンドというのは基本的に好きじゃなかったが、数少ないフェイバリット・ソングのひとつに、hitomiの"Go To The Top"があった」。

まあそれは好き嫌いの話であって、彼の音楽が一世を風靡したのは紛れもない事実だ。"T.K Rave Factoy"から生産された膨大なミリオン・セラーの数々、これが現在の20代後半から30代前半の世代にとって、どれだけ「青春の音楽」としてのウェイトを占めていたかは、実際にレコードショップに勤めていた者として容易に想像できる。そして、僕自身いくら月給暮らしだったとしても、間接的にはお世話になったことには変わりない。

この人たちにとって、これらの曲が今後マスメディアやレコード会社によって封印されてしまうことがあるとすれば、それは大変辛いことだと想う。現在進行形で彼の曲を封印しようとしても、彼の音楽が好きだったリスナーの心の中に残り続ける「KOMURO SOUNDへの想い」だけは封印できないからだ。

いずれまた彼の残した音楽が復権する時代が来るだろう。それが5年後か10年後かはわからないけど、それまでの間は自分が持っている「音楽への想い」というものを大切に暖めておくのがいいだろう。

なぜなら、罪を憎んでも、その音楽までは憎めないからだ。