天明の大飢饉で滅びた村 -大秋山村のこと-

今から10年ほど前、くるりの岸田は「ハイウェイ」でこんな風に歌っている。

「僕が旅に出る理由はだいたい百個ぐらいあって....」

全くそうだと思う。
旅に出る理由なんてひとつひとつあげていたら、本当にキリがない。
理由になんかなってない理由だってあるし、後づけで理由になることだってある。
考えてみればこれが理由だったな、と思うことだってある。

大秋山郷への道

とにかく8月13日の午前10時15分ごろ、僕はこんな場所(※1)に車を停め、この先を進むべきかどうか悩んでいた。

ここ一か月ほど車が通っていないのだろう。轍の跡はずっと先まで続いているけど、ヘビでも隠れていそうな高さまで雑草が生えている。

道は狭くなる一方だし、この先転回できる場所があるという保証はない。だから、ここから先は覚悟を決めて歩くことにした。
家族に車内で待つように言うと、ひとりカメラを担いで歩きはじめた。

草いきれがひどくたちこめた道を少しばかり歩き、ぞんざいにコンクリート舗装された急坂を登る。
その坂を登り切って急なカーブを折れたところに、とつぜん目的の「大秋山村跡」が目に入ってきた。歩いた距離はせいぜい150m。覚悟を決めた割には、拍子抜けするような近さだった。

秋山郷 大秋山村跡

そこには天明の大飢饉によって滅びた集落の跡があった。

(秋山郷 大秋山村跡)

新潟県の津南町と長野県の栄村にまたがる地域を「秋山郷」という。
東西を苗場山と鳥甲山に挟まれた狭隘な谷あいを中津川が流れ、川沿いに13(文献によっては12)の集落が点在する。
秋山郷は冬ともなれば四方を豪雪に閉ざされてしまう。そうなると津南町からの国道405号が唯一この地域へたどり着くライフラインとなる。

(地図の位置関係は大体記憶で書いています。正直申し上げて県道に車を停めて、歩いて行かれることをお勧めします。あくまで自己責任で)

平成18年の豪雪では雪崩によってこのライフラインが絶たれた。孤立した秋山郷には災害救助法が適用され、連日ニュースで自衛隊による救援活動が報道されたことは記憶に新しい。

ましてや江戸時代、この地域は周囲から文化的にも経済的にも隔絶された土地だった。

秋山紀行

今から185年前の1828年(文政11年)9月8日。
越後国塩沢に住む随筆家で、のちに「北越雪譜」の作者として知られるようになる鈴木牧之(すずきぼくし)は、秋山へと旅に出た。
たまたまこの地に詳しい桶屋の段蔵が秋山に行商に出るというので、これ幸いとばかりに案内人に仕立てての秋山ゆきだった。
彼はこの時の見聞を「秋山紀行」という題で書き残している(生前には出版されなかった)。

(「秋山紀行」)

見玉不動尊の滝

この日、牧之と段蔵は秋山郷の入口にあたる見玉という集落に一泊し、翌9日はいよいよ秋山郷の奥へと入ってゆく。

(牧之が宿泊した見玉不動尊の滝)

秋山郷 牧之の道

夕刻、牧之は秋山郷の「甘酒(天酒)」という集落を通りかかった。
ここはわずか2軒ばかりの集落だ。
牧之は煙草の火を求めてこの一軒に立ち寄る。
男は山に働きに出ているようで、女が一人いた。

(今でも現存する「牧之の道」。この道を分け入った先に甘酒集落はあった)

秋山郷

牧之が女に「雪の中での暮らしはさぞかしさびしいでしょう」と尋ねると、
彼女はこう答えた
「雪のうちは里の人は一人もきません。秋田の狩人が時々来るぐらいです」
さらに女は続けた。
「昔からこの村の住民は増えもしなければ減りもしません。
かつてはこの秋山の発祥の地である”大秋山”という八軒の村が川の西側にありましたが、
今から四十六年前の卯の年(天明三年=1783年)の大飢饉で八軒がことごとく死に絶えてしまいました。
その時、私どもの村はわずか二軒ですが、何とか飢饉を凌いで、今では食べるには困りません(「秋山紀行」)」

(牧之が描いた秋山郷の地図。甘酒集落と大秋山集落の位置関係がわかる。大秋山集落については「四十六年前の卯年の凶作で八軒すべてが死に絶えた」ということが書かれている)

これを聞いた牧之は、わずか二軒ながら生き延びたことに感銘し、
「甘酒の村はわずかに家二軒 卯の凶年にこぼさぬと云ふ」と一句を詠んでいる。「甘酒」と「こぼさぬ」を引っ掛けたわけだ。

さて、時計を現代に戻す。
僕が草いきれの中をたどり着いた「大秋山村跡」。
これこそ鈴木牧之が「秋山紀行」で書き残した「天明の大飢饉でことごとく死に絶えた」集落の跡だった。

秋山郷 大秋山村跡
大秋山村跡 解説版

ここには、かつて人間が住んでいた痕跡など何もない。
山道の突き当たり、林の中にやや開けた場所で、少し進めば南向きの急斜面という場所だった。
今ではほとんど人が立ち寄るような場所ではないことは、轍の跡からも明らかだった。


解説板にはこう書いてあった。

平家の落人伝説が残る大秋山跡は、秋山で最初に人が住み着いた場所とも言われています。天明三年(1783)の大凶作で八軒の家が滅びました。現在はその八軒の墓石が並び、毎年八月十四(十五という数字の上にシールが貼ってあり、そう書いてある)日に屋敷地区の人たちが供養しています。秋山郷の名も、この大秋山村に由来していると伝えられています。

大石慎三郎の「天明三年浅間大噴火(角川選書 1986)」という本には「天明の飢饉」についてこう書かれている。

生産力が全体的に低い上に、交通が不便で、かつ地域的な封鎖経済が行われていた明治以前の社会にあっては、ちょっとした凶作が大きな飢餓現象に発展することが多かった。(中略)そのなかで被害・社会的影響ともにもっとも大きいとされているのが、浅間山の噴火と大きなかかわりのある(※1)天明の飢饉である。

天明三年の浅間山の大噴火は各地にさまざまな被害を与えた。
噴火の影響による二億トンもの熱泥流は吾妻川に近い鎌原村に襲いかかり、死者は1,500人以上にものぼった。
僕はこのことを今から6年ほど前に「天明三年、浅間山大変記 ~鎌原村土石流~」という記事にしたことがある。

さらに噴出された大量の火山灰は直接農産物に被害をもたらしただけではなく、太陽の日を遮ることで冷害をもたらした。ただでさえ不作の傾向にあった東北を中心に、農作物に壊滅的な被害を与えたのだった。

秋山郷の段々畑

秋山郷が日本有数の豪雪地帯であることは、今も変わりない。
土地が狭く、夏が短いということもあったのだろう。天保年間当時は水田による稲作など行われていなかった。
彼らは畑作などで栃の実、ナラの実、豆類を収穫し、それを主食にしていた。

(こうした段々畑による稲作が始まったのは明治になってから)

浅間山からは直線距離でわずか40km。その噴火は秋の収穫を目前にした8月5日(旧暦7月8日)のことだった。ただでさえ食に乏しい村に、飢饉が襲ってきた。

鈴木牧之は彼の名を高めた「北越雪譜」の中で「秋山の古風」で、天明の飢饉で滅びた大秋山村についてこんな風に書いている。

「人家八軒ありて、此地根元の村にて相伝の武器など持しものりしが、天明卯年の凶年に代なしてかてにかえ、猶たらずして一村のこらず餓死して今は草原の地となりしときけり」

意訳するとこうなる。「大秋山村には人家が八軒あった。ここは秋山郷の発祥の地ともいえる一番古くからある村で、先祖代々伝わる武器(秋山郷は平家の落人部落とも言われている)を持っている者もいた。ところが天明三年の凶作では、その武具すら売り払って食糧にかえたのだけど、それでも食糧は足りず、結局八軒の住民がすべて餓死してしまった。今は原っぱが残るだけだと聞いた」。

当時の日本の人口はせいぜい2600万人。
一説には人口の1割近くが減少したとも言われる天明の飢饉については、全国に様々なエピソードが残っている。
村を逃げ出した人たちも、結局食べるものがなくて行き倒れとなり、街道ぞいのあちこちに人骨が転がっていたという。犬や馬を殺して食べるだけではなく、自分の子供や病弱の家族を殺して食べてしまった話は枚挙に暇がない。行き倒れの死体を切り刻んで食べた話、「犬の肉」として売っていた話なんていうのもある。村々に散らばる死体の山は疫病を発生させ、さらに死者を増やしていった。牧之も色々と伝え聞いたとは思うけど、生々しい部分に関しては書けなかったかもしれない。

そんな牧之は秋山からの復路で、この大秋山村跡へと寄っている。

此村哀れ、人種尽て今は一軒もなく果しなき茅原となり、平氏の歴々隠家も、時ならぬ晩秋蟋蟀の数限りなうすたく音のみ。小路に刈稲時の螽のことく草鞋の踏敷なきほと飛ひぬるを 是や平家の落人の幽魂ならめと思ふ。
白旗の御代となりたる秋山や ただ一面になひく穂薄

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「この村は哀れだ。住む人も死に絶えて一軒もなく、今は果てしない茅野原と化している。
平家の落人以来、脈々と続いてきた隠れ家も、晩秋の今は沢山のコウロギが鳴く声だけが聞こえてくるだけである。道にイナゴが、稲刈の時のように、草鞋の踏み場所もないぐらいぴょんぴょんと飛び回っているのを見て、これは平家の落人の魂なのではないだろうかと思った。そこで"白旗(源氏)の時代となった秋山には、ただススキの穂が一面をなびくだけ"と詠んでみた」。

(大秋山村跡にある墓石群)
牧之の書いた文章には、なんとなく松尾芭蕉の「おくのほそ道」の影響を感じずにはいられない。
だけどこの世から滅びてしまったものへの感傷って、いつの時代でも一緒なんだろう。
だから僕もふらっとここへ来たのかもしれない。

秋山先祖代々の墓
大秋山跡

昭和の初めになって、大秋山から一番近い屋敷集落の人たちが、この地を整備した。
自分たちの先祖の村をきちんと管理してゆこうということになったのだ。墓石や慰霊碑などが30基が寄せられ、跡地を取り囲むように並べられた。


(墓石群)

大秋山郷 石臼

この整備の際に出土されたと思われる、当時の石臼も墓石に間に並べられている。

(石臼)

天明三年の飢饉では「大秋山」と「矢櫃」という二つの集落が滅んだけど、その後も秋山郷の苦難は続く。
牧之に大秋山村の話をしてくれた甘酒村は、それから9年後の天保八年(1837)に天保の飢饉で滅んだ。
この飢饉では同じ秋山郷の「高野山村」も滅んでいる。秋山郷では合計4つの集落が二つの飢饉で滅んだことになる。
それでも人々は秋山郷に住み続け、現代に至っている。

こんなことを思った。
今では江戸時代と「食」というものの意味がまったく変わってしまっている。当時は生きることと食べることは同義語だった。
今はどうであろう?潤沢に販売され、潤沢に消費される食糧の山、山、山。我々は生きるに困らないだけの食糧をいつでも近所で手に入れることができる。頑張れば豪華な食事にだってありつくことだってできる。どこそこの生産物は放射能汚染されているかもしれないから食べないなんていうお賢い方々もいる。今、我々はひたすら食を選ぶ立場にいて、食を消費するために食べている。

こんな時代と江戸時代を比べることはできない、できないけれど、もし生きることと食べることが同義語な時代が来たら、我々はどうするだろう?やはり動物的本能のまま行動するに違いない。買占めと奪い合いが進み、さらに食糧事情が悪化すれば略奪だって殺戮だって起こすに違いない。20年前の「1993年米不足」、1995年の「阪神淡路大震災」、2011年の「東日本大震災」直後の食糧パニックを垣間見たからこそ、なおさらそう感じる。人間は動物的本能を理性や知恵というオブラートで包んでいるけども、結局そこから逃れることはできない。

それは今も江戸時代も変わらないだろう。当時の日本の人口を一割近く減少させた天明の大飢饉は「人間とは何か?」ということを示したパンドラの函なのかもしれない。

※1 大秋山村跡へは秋山郷の「屋敷」という集落から北へと進みます(長野県下水内郡栄村屋敷)。途中に民家と「大秋山村跡」という看板があります。そこからちょっとした下り坂を右側に入り(やや入ると人家、庚申塔がある)、山道を進んで1kmぐらいです。実際には村跡の先に車が転回できるスペースもありますし、3ナンバー車でも入れないことはありませんが、正直おすすめできません。県道に駐車して歩くことをおすすめします。冬場は侵入自体が無理と思われます。詳しくは栄村秋山郷観光協会で確認してください。

※2 浅間山の噴火による灰が成層圏にまで達し、北半球を中心に日照不足を起こしたため世界的に飢饉となったという考え。「浅間山噴火=フランス革命の遠因」説となりました。ただし近年の研究では天明の飢饉が噴火の前年(天明二年)から始まっていたことや、フランスでも数年前から不作や凶作が続いていたこと、浅間山噴火の数日前にはアイスランドのラキ火山が噴火しており、その噴出物が北半球を覆ったことの方が世界的な飢饉の原因として有力であるといわれています。

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