秋山郷 -北越雪譜から始まる旅-

ええと、秋山郷へ行ってきました。

これが「白川郷に行ってきました」だと「世界遺産だよね。それはうらやましい」と言われるのだけど、「秋山郷」だと「どこ、それ?」と尋ねられるのが関の山だろう。

だけど知っている人はマニアックに知っている、というのが「秋山郷」の面白いトコロじゃないだろうか。
何しろ僕なんぞは、行きもしないのに6年前「秋山紀行、北越雪譜と鈴木牧之」という記事を書いている。
秋山郷 屋敷集落付近
(秋山郷 屋敷集落付近)
秋山郷」とは苗場山の山麓….と言っても苗場スキー場とは山を挟んで反対側….の中津川沿いに広がる地域のことだ。東を苗場山、西を鳥甲山に挟まれた狭隘な地域に、中津川に沿って12の集落が点在している。

行政的には新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内郡栄村にまたがる日本でも有数の豪雪地帯だ。


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なんともおかしな話なんだけど、僕が「秋山郷」と出会ったのは、旅行のガイドブックでもパンフレットでもなく、江戸時代のある紀行文からだった。
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(「北越雪譜」新潟県立図書館蔵)

江戸時代の後期、一大ベストセラーとなった書籍に「北越雪譜(ほくえつせっぷ)」というのがある。作者は越後国塩沢(現在の新潟県南魚沼市塩沢町)の鈴木牧之(1770-1842)という人だ。

彼は、家業の越後縮(ちぢみ)の仲買人として江戸に出る機会があり、また俳諧や書画と嗜む文人として江戸の戯作者や浮世絵師たちとも交流があった。そんな中で思ったのは江戸の人たちが豪雪地帯の雪の厳しさ、そこで暮らす人たちの厳しい生活のことをほとんど知らないことだった。
きっと彼が真顔で「私どもの故郷ではひと冬だけで五十四メートル以上雪が積もります。ハイ」と江戸の人に言ったら、大ぼら吹きだとゲラゲラ笑われたのだろう。そんなことの積み重ねが彼の中ではトラウマになっていたに違いない。そのぐらい越後国と江戸とは「遠い国」だった。

それならば「雪国の百科全書」を書いてやろうと試みたのが天保8年(1837)に出版された「北越雪譜」だった。
北越雪譜岩波文庫版・現代語訳版
(岩波文庫版「北越雪譜」と、抜粋現代語訳された「北越雪譜物語」)

そこには想像を絶する雪の恐ろしさと、厳しい自然と対峙しながら暮らす人たちの姿が詳細に描かれている。雪がもたらす恐ろしい自然現象、雪国の土地案内や地域特有の風習、名産品や生息する動物の話、さらには雪国の奇譚や怪異など実に多岐にわたっていて実に面白い。民俗学や地理学の嚆矢とも言える内容だった。雪国を知らない江戸の人間にとって、それは遠い異国の想像を絶する話だった。好事家たちはこの本を買い求め、たちまち江戸で大ベストセラーとなった。

そんな「北越雪譜」の中に「秋山の古風」という一節がある。
かつて牧之が秋山郷を訪れた際の紀行文だ。当時の秋山郷は、さほど塩沢から遠くもないのにかかわらず閉鎖的で古くからの生活習慣や風俗が根強く残っている地域だった。塩沢あたりの人たちからも「山奥の秘境」と呼ばれ、習慣の違いが話題になるほどの地域だった。

きっと江戸と越後との精神的な距離感をはかるように、牧之自身も塩沢と秋山郷との距離感をはかってみたかったのだろう。牧之が秋山郷への旅に出たのは文政11年(1828)9月8日のことだった。ときに牧之59才、案内してくれたのはこの地域に行商に行く桶屋の段蔵だった。

僕が群馬県の四万温泉から秋山郷の最奥部にある切明温泉へと向かったのは8月12日のことだった。
この2点、直線距離では20kmも離れていないにもかかわらず、三国山脈に隔てられている。
だから車で移動するには志賀草津道路から奥志賀林道と雑魚川林道を使って110km以上の大回りをしなければならない。
ただしそれは夏場までの話だ。冬季はこの林道も閉鎖されてしまうから、新潟県津南市から国道405号でアクセスするしかない。そうなると150km以上の大迂回となるだろう。それだけ秋山郷は秘境だってことだ。

【志賀高原丸池分岐(地図ではバルーンA)】
志賀草津道路(国道292号)の渋峠(日本の国道最高地点)を越え、志賀高原の丸池から奥志賀スーパー林道(長野県道471号)へと入る。
奥志賀林道
林道のくせに予想に反して道幅の広い国道並みの道が続くなぁと思っていたら、これは長野オリンピックの際に整備されたものらしい。奥志賀スキー場あたりを越えたら期待通りの「狭さ」になってくれた。
秋山郷への標識
初めてみかけた「秋山郷」への標識。常に先へ先へと導かれてゆく「旅」というものへのワクワク感が、この標識にはある。

【雑魚川林道入口(地図ではバルーンB)】
雑魚川林道入口
雑魚川林道入口
丸池から25分ぐらい走ると、唐突にカーブの先に雑魚川林道への入口が現れる。この林道は冬期は完全に閉鎖されるため、重厚なゲートが用意されている。
ここから道は鳥甲山の南側のうねうねとした道を、雑魚川沿いに進んでゆく。
雑魚川林道
冬は雪に覆われて、除雪すらままならぬ道なはずなのに、不思議と路面の亀裂は少ない。細かいカーブの連続だけど比較的スムーズに走れる。
ところどころに「落石注意」の看板があって、実際に石がゴロゴロしている。
こういう道は大好きだ。できれば1時間でも2時間でもこういう道を走り続けたらどんなに楽しいだろうかと、そんなことを思いながら運転する。とにかく道は山の中をひたすら続いている。
雑魚川林道
僕がスマホに入れているナビは林道をルートとして認めていない。だから現在位置を確認するしかないのだけど、これを見たところで何がわかるわけでもない。
もし、これが牧之の時代にあったら、彼は何を思いながら山道を歩いただろう。
雑魚川林道
牧之は秋山への旅の記録を3年後の天保2年(1831)に「秋山紀行」というタイトルで一冊の草稿に書き上げた。
土地の風景や風習、生活の姿や家の造作、狩り漁の風景や人々との会話、そして絵心のある牧之が自ら絵図まで手掛けた意欲的な作品だったが、この草稿が出版されることはなかった。6年後に出版された「北越雪譜」の中で辛うじて「秋山の古風」という一章にとどまらざるを得なかった。そして「雪譜」の出版から5年後に、牧之は亡くなってしまう。

彼が感じていた「江戸の越後の距離感」がもうひとつあるとすれば、都会優位でモノを考えようとする江戸の文化人たちの傲慢さだったかもしれない。
そもそも彼は「北越雪譜」の出版の実現に実に40年の歳月を要している。江戸の文化人たちは越後の田舎者の書いた草稿に対して、一定の興味を示しながらも、それをハナで嘲笑っていたように思う。牧之がどんなにかけあっても、なかなか出版の実現に対して配慮をしてくれなかった。商業的に成功するかどうかに対して二の足を踏むならまだしも、都会の人間に受け入れられるはずがないという先入観を持っていたからだろう。

「秋山紀行」は幸いにも草稿だけが残った。おかげで現在では現代語訳版も出版されており、詳細で貴重な集落の記憶が現代に引き継がれたのである。
切明リバーサイドハウス
なんてことを書いているうちに、車は秋山郷の最奥部と呼ばれる切明温泉に到着した。
雑魚川林道を走ること30分の道のりだった。
夜、宿の部屋で横になりながら「秋山紀行」の現代語訳版をひもといてみた。津南町の方角から秋山郷へ分け入った牧之とは逆コースになるけど、明日は一日かけて秋山郷を堪能しようと思いつつ、いつの間にか眠ってしまった。

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