運と縁なんだと思います

3月18日で今の事業を初めてちょうど10年となりました。
何とも感無量です。我ながらよく組織を潰さずにここまでこれたものだと思っています。
パルポート上大岡
(旧教室物件=パルポート上大岡405号室を最初に発見した時の画像。2004年1月13日17時32分)

改めて10年目の感慨として何か書こうと思ったのですが、何を書いていいのかがわかりません。10年間の苦労話を書いても仕方がないし、高邁な経営理念を書けるわけでもない。なぜ10年間組織を潰さずに済んだのかを書いても、それが明日通用するかどうかはわかりません。

だから、こんな話を書いてみます。
とても生々しい黒歴史です。
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(初めて物件を内見した日。2004年1月15日)

実は、僕は今のスクールを始める直前「自分の人生は終わった」と思った時があります。

明治乳業
(現「明治」)のアイスクリーム販売部で営業職に就いていた僕が、京都にあるCDショップに転職したのは1994年のことでした。彼女が京都にいたこと、京都好きと音楽好きが高じてしまったことが理由でした。
そして阪神淡路大震災の発生した1995年の11月に結婚。家内は前会社の京都支店時代に同じ課で働いていた子でした。そのタイミングで店長に昇格。そして99年までに二人の娘にめぐまれました。

本当ならば、このまま音楽に囲まれて京都で骨を埋めるつもりでした。ところが2000年ぐらいから状況が一変します。次第に「CD不況」と呼ばれる時代に突入し始めたのです。売上は低迷の兆候をみせ、給与が増える気配はなし。妻子を抱えた身で家賃を払う暮らし。このまま京都にいたら先細りすることは目に見えていました。

そこで思い切ってお店を辞めて京都から神奈川へ戻ることにしたのです。2001年2月のことでした。僕はこの時のことを今でも自嘲して「都落ち」と呼んでいます。
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(二度目の内見。2004年1月20日)

それからは仕事探しです。
カルフール・ジャパン」のマネージャー職は最終選考まで行ったもののフランス人相手の英語面接でアウト、初期のCD通販サイト「CDNOW JAPAN」のコンテンツ・ライターの仕事は内定直後に日本撤退が決定してアウト。
進退窮まって職を転々としながら食いつなぎました。プリンターの営業、テレアポ、落花生の営業....でも何をやってもうまくゆかない。どうも自分にしっくりこない。なんか違うぞこれ.....全くダメダメ状態ダメ人間でした。
結局音楽への愛情が捨てきれなかったんですね。2002年3月に再びCDショップの仕事に戻りました。待遇は一年更新の契約社員でした。SというS県を中心に関東へ多店舗展開しているCDショップでした。

そのお店は平塚駅から北へ4kmほど行ったところにありました。最初はバス通勤をしていたのですが、本数の少なさにギブアップ。自転車を平塚駅に運んで、駅から自転車通勤するようにしたのです。

Sはそれなりにブランド力のある企業でしたし、僕自身も店舗マネジメントには自信があったので、あわよくば正社員雇用もありうるんじゃないか?という希望を持って勤務に就いたのです。しかしそれは甘い考えでした。
本牧Noce
(ノーチェ本牧店で教室のインテリア選定。同年2月8日)

元来、静岡で独占状態だったSはどちらかと言えば殿様商売体質でした。その体質のまま神奈川、東京、千葉、埼玉に出店したことが仇となり、タワレコのような外資系CDショップやTSUTAYAのような郊外型レンタル複合店に個別撃破されている状況だったのです。まだまだAmazonなどのネット販売は主流ではありませんでしたが、次第に脅威となりつつありました。Sのもうひとつの柱だったエレクトロニクス販売事業もヤマダ電機などのカテゴリーキラーに潰されて、じょじょに店舗を閉鎖している状況でした。閉塞状況に陥りつつあったCD流通業界の生々しい現実がそこにはありました。

でも僕がSの1年毎の契約更新をしないで辞めた理由はそれだけではありません。それは人間関係でした。

最初の店長は同年代で「事件・事故マニア」という共通の趣味もありました。この人とは10年後の今でも親交があります。しかし中途で町田のお店へ異動、後任のK店長が曲者だったのです。

彼は一言で言えば人格破綻者でした。陰湿で陰険で保身のために手段を選ばない。その一方でキレやすいという人物でした。気に食わないアルバイトはそれがたとえ有能な人間だとしても、陰湿な手段で辞めさせて行く。そういう人間だったのです。
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(椅子の上に作られた「仮オフィス」。PC、プリンタ、FAX、オーディオ。3月10日)

当時のお店はK店長、入社1年目の若手社員のM君、そして僕の3人で運営していました。M君はとてもガッツのある頼もしいヤツでした。

そんな彼が、僕の休みの日にミスをしでかしてお客さんに物凄く怒られたことがありました。本来であればKの役割は部下に代わってお詫びすることでした。しかし彼は事務所に閉じこもって一切出て来ない。つまり関わりを恐れて逃げてしまったんですね。2011年にM君と再会した時「あれは腹が立った。人生の中であんな人間は見たことがない」と彼はまだ憤激していました。僕も同意見です。
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(第一スタジオ工事。3月14日)

そして、運命的な日が来ました。このKがお客さんのクレームにキレて事務所の扉に蹴りを入れたのです。木製の扉にはポカっと穴が開いてしまいました。
さすがにこれはいかんと思った僕は、その晩Kを飲みに誘いました。そして...いまから思えば青臭い感情でしたが「お店の運営や売上の確保に苛立つ気持ちはわかりますが、あれはスタッフの手前よろしくないです」と申し上げました。その時は「いやあ、申し訳なかったです」なんて言って謝ったのですが、翌日からKの態度は豹変しました。

もう思い出すのも嫌な話なので、詳しくは書きません。要するに嫌がらせの矛先が僕に向いてきたわけです。「とっとと辞めろ」という熱すぎるメッセージですね。
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(開校直後の教室。3月19日)


(Bob Dylan「Forever Young」の未発表デモバージョン。「Biograph」という4枚組BOXに収録されている。これが開校した教室で最初に流れた曲。新しいことを始める時にこの曲=バージョンを流すというのは僕なりのジンクスだった)

少なくとも僕の京都での6年間の店長経験は「S」でも無駄ではありませんでした。カオス状態だった売場を整頓し、売れやすい売場に改善してゆきました。実際に他店に比べて数字が改善されていたのです。それはエリアを統括するブロック長からも評価頂いており、激励の言葉も頂きました。

2003年1月のある日、Kの態度に耐えられなくなった僕は、そのブロック長に電話をしました。自分が置かれている状況についてお伝えしたのです。
ブロック長にはこう言われました。
「あなたには本当にご迷惑をおかけして申し訳なかったです。Kがどういう人間かは私もよくわかっています。実はKのお店の部下や契約社員さん、アルバイトさんからは、今までもよく私に直通電話がかかって来たんですよ。その度に『またKが何かやらかしたな』と思うのですが、いつもカンは当たっていました。でもね、だからと言ってそれだけではKに注意できないんですよ。何の処分もできないんですよ。お恥ずかしいけどそれが今のSの現状です。『我慢して下さい』としか、私には言えないんです。」
ミューポくん
(ミューポ君のアイデアが生まれた日。2004年12月24日。この画像は教室サイトのトップページに使われた)

これが契約社員という「弱者」の現実でした。契約は一年更新だったのですが、僕は更新しないことに決めました。

2003年3月上旬のある日、最後の勤務を終えた後、真夜中に自転車で横浜まで帰ってきた時のことは一生忘れないでしょう。凍てつくような寒さの中、自分の吐く息は白くて、もう真正面は見れない。虚ろな目線で車輪のやや前だけを見ながら、ペダルをこいでいました。この時、僕は38歳でした。

「ああ、これで人生終わったな」と思いました。いや別に死ぬわけではありませんが、物凄い絶望感に押しつぶされそうでした。
通算7年間働いたCDショップは、とても好きな仕事でした。そこで培ったノウハウや知識は膨大な量で、自分という人間が持つノウハウのかなりの部分を占めていたはずです。そういうものが意味を成さず、すべて捨て去らなくてはいけない。ああ自分は死んだも同然だな、と思ったのです。
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(別バージョン1)

妻子を抱えての無職状態。自分でも何をしたいのかわからない、何をしていいのかもわかりませんでした。そうこうしていたら裏の物置で野良猫が3匹の子猫を産んだ。しかもこやつらは「餌をくれにゃあ」と家に入り込んでくるようになったのです。家族すら食べさせられないのに....もう笑うしかありませんでした(この時のことは「野良猫まみ子の一生」をご覧ください)。

僕「おい猫ども、俺は何をしたらいいんだろう?」
猫「にゃあ」
僕「にゃあじゃわからないよ」

漠然と思っていたのは、自分の人生を下らないヤツに左右されるのはもう御免だという気持ちでした。家内は「あなたは自分でやった方が上手く行くと思うよ」と言って励ましてくれました。じゃあ独立するするのか?といえば、その目的も見つからないのです。

あの頃の僕は「リクナビNEXT」を見たり、独立開業の「アントレ」を見たり、家でゴロゴロしたり、猫の世話をしたり、子供たちと散歩に行ったり、京都の知人からスポットでSP盤デジタル化の仕事を請け負ったり...
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(別バージョン2)

これは余談になりますが、夏に「雇用・能力開発機構」の助成で職業開発訓練「ネットワーク構築」というものを受講しました。希望ヶ丘の横浜電算学院(現横浜システム工学院専門学校)へ2か月ほど通いました。その中で学んだWEB作成のいち技術「CSS」に関心を持ったのです。本来の受講目的とは全然違うのですが「テーブルタグを使わずにCSSだけでホームページを作る」ことに燃えたのです。これが直後に運営を開始した「下山事件資料館」や初期の教室サイトに結実したわけです。
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(第一回発表会 at 銀座ブロッサム。2004年11月7日)
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2003年9月、僕がその「本部」へ行ったのは、正社員スーパーバイザーの募集に応募するためでした。その「本部」は6月頃からボーカルのスクールをボランタリー形式で全国展開しようとしていたのです。まだ出校実績は5校もなかったと記憶しています。「スーパーバイザー」というのは各スクール拠点を訪問して経営や運営に関するアドバイスを行ったり、本部への要望を集約する仕事ですね。
第10オーヴァルビル内見
(10年後...第10オーヴァルビル=現教室の内見。2013年2月26日)

ところが面接前の下調べをしたり、話を伺っているうちに「あっ、これは自分が経営した方が面白いかもしれない」と思ったのです。まさに「神の啓示」でした。

僕は別にボーカリストでも声楽の専攻でもありません。ですがボーカルスクールの運営であれば、過去の営業経験、店舗マネジメント経験の両方が役立つでしょう。それに蓄積された音楽の知識も無駄にはなりません。何よりも音楽に対する愛情でしたら誰にも負けませんし、単なる「教える」だけの教室以上のサムシングが作れるんじゃないか?そんなことを考えたわけです。

それに僕が勤めていた京都の会社はCDショップの他にカワイの音楽教室も経営していました。専従のスタッフがいたので、僕が運営にタッチするということはなかったのですが、何となく「そういう場所」に対する土地勘があったわけです。
ミューズポートボーカル教室実測調査
(新教室の実測調査。2013年4月6日)

忘れもしない2003年12月24日、僕は「本部」とのボランタリー契約を締結しました(2009年に契約終了)。このあたりのことは2009年に「さよならそしてこんにちは」という記事にしたことがあります。

よく「ボランタリー」と「フランチャイズ」の意味が混同されやすいのですが、こと音楽教室ボランタリーの場合は「看板の共有」ということを目的としています。個々の教室が同じ看板を掲げることでスケールメリットを目指すというのが最大の目的です。個々の教室経営者の裁量が大きく、経営責任は完全に教室経営者にあります。後者の「フランチャイズ」というのは、本部がノウハウや金銭の管理に至るまで絶大な権限を持っている場合が多くマニュアルも徹底しています。個別の経営者は独立した収支を持っていますが、むしろ「委託社員」というニュアンスに近いと言えるでしょう。

食品会社で流通業を学んだ自分には、このあたりの線引きがよく理解できたことは自分を動きやすくしたと思います。逆に言えば理解しすぎていたのかもしれません。2009年頃になると僕の経営している教室は独自性が出すぎて他校との足並みが揃えられなくなってしまった。だから契約を満了して完全独立してしまったわけです。だけど、今でもきっかけを作ってくれた「本部」の社長さんには感謝しています。

まだ加盟校がほとんどない状態でしたから、迷わずに上大岡に教室を出すことに決めました。店舗にとって商圏の規模がどれだけ重要かは、食品営業でもCDショップでも嫌というほど考えさせられましたから。しかし立地が良ければ生徒さんが増えるという考えも大間違いなんです。そういうことを考えてゆく上でも過去の経験は役に立ったと思います。

そして2004年3月18日、10年の歴史への第一歩を踏み出したわけです。
ミューズポートボーカル教室スタジオ工事
(スタジオ工事開始。2013年4月27日)
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さて、こうやって振り返ると、自分はよくよく運と縁に恵まれていたと思います。
スタッフ、生徒さん、取引先、ミュージシャン....そういう縁に恵まれてきた方なんだと思います。
窮地に陥ったことは何度もありますが、その度に色々な人に助けられてきました。

今まで書いたことを振り返ってみても、そう思います。
語学力のなさでカルフールジャパンに就職できなかったわけですが、真っ向から幕張でイオンに挑んだカルフールも2005年には当のイオンに買収され、そのブランド名も2010年には消滅しました。CDNOW JAPANは最終的にAmazonに吸収されたそうですが、ユーザーレビューから成り立つAmazonではコンテンツ・ライターなど不要だったでしょう。じゃあ明治をやめなかったら?と問われると「ムムム」となる自分もいます(笑)何しろ今や日本最大の食品会社ですからね。
でもこれが一番自分の生にあった仕事なんだと思います。
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(お引越し準備。2013年5月3日)

そして「S」。
人間は誰でも嫌な上司に出会うことってあると思います。相手の程度にもよりますが、僕みたいに飛び出してしまう人間よりも、我慢して耐える人の方が多いはずです。僕は我慢が足りなかったのでしょう。

だけど、こうも考えられるのです。もしあのタイミングでK店長に出会っていなければ...もし前の店長のままであれば....僕はズルズルと契約を更新していたかもしれません。だとすれば上大岡に出校できるタイミング以前の問題として、ボーカルスクールを経営するという発想に至らなかったかもしれないのです。残念なことに「S」が2010年に会社を清算してしまったことを考えれば、K店長の存在には感謝しなければいけないのでしょう。あくまで「存在」にですよ(笑)
本当に何がどこでどうなるかは誰にもわかりません。悪い結果もその後の進展によっては良い結果になるわけですからまさに「塞翁が馬」ですね。人生というものはそういった「運」と「縁」とが複雑に交錯して、成り立っているものなのでしょう。
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(新スタジオ竣功。5月4日)

一度「自分の人生は終わった」と思ったことは、僕にとっては大きな「悟り(Enlightenment)」でした。一度終わった人生を生かされた時、それは間違いなく社会に生かされているわけです。

これは「経営者とは何か?」ということにも帰結すると思います。たとえば「会社」という単語を逆さまにすると「社会」となります。これは単なる偶然ではないと思うのです。「会社とは社会の鏡のひとつである」と考えることは、悪くはないでしょう。つまり「社会」のありかたをきちんと反映してこそ、すなわち社会に支持されてこそ「会社」なわけです。
ミューズポート
(移転3日後の教室。2013年5月9日)

だとすれば経営者とは何なのか?それは社会からその会社のある人に与えられた役割なのだと思います。つまり僕という人間は「株式会社ミューズポートの社長」という役割を社会から与えられて、そういう役職についているわけなのです。そして生かされているわけなのです。
逆に言えば社会から「あいつは社長にふさわしくない」と思われたら「ハイそれまでよ」なわけです。

逆にそういう自覚がない社長は会社を私物化するでしょう。「自分が作った」って思いこんでいる。そこには自分しか見えていなくて社会はいないわけです。だったら一人で会社を立ち上げて、自分が死んだら会社も閉めたらいいわけです。

僕は自己完結はしたくなかった。売上が増えればスタッフを増員することを、最初から念頭においていました。資本主義は富の再生産です。余力があればスタッフを増やしてゆく。売上もそれに伴って増えるように努力する。これが「会社」の正しいあり方だということは、当時も今も変わりません。

ではスタッフは何なのか?と言えば、これは僕にとっては社会からの預かりものなんです。
お預かりして育てて、成長して、一緒に生産し、一緒に生き残ってゆく。そうすると何らかの形でそれは社会に還元されてゆきます。ミクロの視点でみれば、会社がスタッフの人生の生き甲斐となれば最高だし、マクロの視点でみればこの国を失業率を改善すれば素晴らしい。
そういう考えのの骨子の部分で、僕は「自分が味わった思いをスタッフにはさせたくない」ということは、いつも念頭に入れてきたつもりです。
ミューズポートボーカル教室10周年
(10周年記念クリアファイル。キャラクターデザインは絵本作家のヤナキヒロシさん)

これは余談ですが、僕の月々の給与額は僕自身が決めているわけではありません。
随分ムチャクチャな話かもしれませんが、数字に弱い僕にかわって会計事務所の担当の方が決めてくれています。毎期ごとの利益をシミュレートして「この位でいかがですか?」と提案してきます。その度に「まじすか?」と悲しんだり喜んだり...ちなみに本年は移転などが重なったため、思いっきり減らされました。
個人的には悲しいことですが、経営者の本質的な役割から考えれば、これはいいシステムなのだと思います。

経営者がこういう思考法で物事を考えてゆくということは、経営者も人間であるだけに大変難しいことではありますが、一度終わった人生だと思っているから、何とかブレずに来れたのだと思います。

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さて、あとは余談です。
2011年11月のことですが、音楽ユニット「」のくりっち殿の単独ライブが平塚でありました。
これを機に、いつもスルーするだけだった平塚の街を8年ぶりに訪れてみました。そしてライブ後に思い切って「S」のお店を訪ねてみたのです。
二度と寄りたくないと自分が思っていた場所でした。

すでに「S」は撤退し、建物は当時のままでしたが、そこは百均ショップに代わっていました。
「ああ、このあたりにメタルのコーナーがあったんよな」とか「このあたりにレジカウンターがあったんだ」とか思いながら店内をウロウロしていました。
ふと事務所側を見ると、K店長が蹴りとばして穴を開けた扉が健在だったのです。
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(許可を得て撮影しました。扉の穴はプラ板でメンテされています)

なんだかそれを見ているうちにバカバカしくなってきました。笑いがこみあげてきました。
それが「一度は人生が終わった人間」特有の症状なのかどうかは、自分でもうまく説明ができなかったのです。