狐と貝殻

二人の子供を連れて、本牧まで例の狐の映画を見に行った。
でも、この映画の感想については割愛しよう。
僕が書いたものなんかより、全国の子供たちが書いたものの方がよほど面白いからだ。

今日の話はその後のこと。
映画を見終わった後、子供たちと山手をブラブラ散歩することにした。港の見える丘公園の前に車をとめて、イギリス館、山手111番館などを見たのち、外人墓地方面へと歩いて行く。

外人墓地から元町へと抜ける見尻坂を下っていった。すると、坂の途中にある何かの敷地の入口に「埋蔵文化財発掘調査中」という看板があった。特に「立入禁止」という札もないので、ずんずん奥まで入ってゆくことにした。このあたりの発掘調査といえば、明治か大正の洋館跡という予感がある(ちなみに僕は洋館跡マニアでもある)。

ところが、入口から50mも進んでゆくと、そこには意外な光景があった。
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発掘されている場所には、貝殻がきっしり堆積した白い地層が露出していた。その地層の厚さはおよそ1m。
「エッ、貝塚!?....」
と思わず声を上げた僕に、
「そうですよ」
と調査員の方が答えてくれた。
何でも縄文中期~晩期(2400年~5000年前)あたりのモノらしい。

この画像を見てほしい。
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発掘現場(アメリカ山公園建設予定地)のすぐ向こう側はガケになっている。ガケの下には元町がある。地方合同庁舎の白い建物の向こうにはマリンタワーも確認できる。この場所の標高は20~30m程度だろう。小中学校で横浜の歴史を学んだ方ならば、崖下の地域(関内をへて桜木町に至る広いエリア)が、大昔は入江だったことをご記憶の方もいるだろう。

入り江を見下ろす丘の上の貝塚...
これが横浜の原風景なのだ。

想像してみよう。
かつて、入江を見下ろす小高い丘の中腹に縄文人の住む集落があった。
その場所は、温暖な気候と食べ物に恵まれた場所だった。
丘を下ればすぐそこには海、女性は波打ちぎわで貝や海草を集めた。
男性は魚を採るために、木をくりぬいた舟に乗って海へとくりだしていった。
時には丘の上へと登り、尾根伝いに狩猟をしにいったのだろう。
そうした収穫は、火と土器を使って料理された。
中身を料理された貝殻のうち、
形や色の美しいものは女性のアクセサリーになった。
そして不要なものは集落の外れに掘られた穴に投棄された。
その量は、1m近い層をなすほどだった。

それから数千年もの歳月が経過した時、
その貝殻たちは偶然日の目を見た。
縄文人たちが「不要」と思って捨てたものが、
彼らの存在を裏付ける数少ない証言者となった。

帰りがけにこれを頂いた。
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気の遠くなるような年月を経て再び人手にわたった3つの貝殻だ。
これに比べれば僕の人生なんて一瞬なんだろうな。

子供は狐に感動し、
大人は貝殻に感動するという一日でありましたとさ。