宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [5] -本家さんとかサイパン島玉砕とか-

宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [4]の続き。

さて、現存する昭和19年の祖父小野寺五一(ごいち)の日記には、しばしば「信子」「のぶこ」という名前が出てくる。

「信子今日より黎明学院と云うのに行く(1月17日)」
「仙台の母(義母)よりのぶ子の縁談の話あり(2月3日)」
「陸軍記念日なり、雨が降って仲々(ママ)寒く(中略)信子むかえに行く(3月10日)」
「信子、かつゑさんにとりにいったものは小まぐろなる由なり(6月6日)」

この「のぶこさん」という人は母の従妹だ。柳津から上京して世田谷区の九品仏にあった祖父母の家に同居していた。
前に書いたように、柳津では祖父が東京に出てきてしまったため、祖父の姉が婿養子を迎えている。
「のぶこさん」はその子供の一人で、この記事に何度か登場した「Tさん」の姉にあたる。

ちょうど昭和18年に一番下のK叔父が生まれたこともあって、東京の家では人手が足りなかったのだろう。
21歳の「のぶこさん」は上京してきて家事手伝いを色々とやってくれたと聞いている。
当時6歳だった母の事を大変可愛がってくれたそうだ。

状況が変わるのは昭和19年6月15日のことだった。
「サイパン島に(米軍)上陸したるものらしきとのことなり(6月15日)」
「敵機九州に来て撃墜7機撃破3機と云うことなり(6月16日)」
「燈火管制中を帰る(6月17日)」

いよいよ米軍がサイパン島に上陸してきたのである。

日本軍と激戦が行われる中で、空襲への警戒が高まっていることが祖父の日記から伺える。
もしサイパン島が占領されれば、日本本土の大半がB29の航続距離圏内となってしまう。東京いや大都市への空襲は避けられないであろうという事は国民にとって常識であった。

(「朝、信子と夏みかんをとりに行かんとしたるに、運送屋が既に行ってくれたとのことにて、その辺を散歩して帰る。12時半警報解除となり、8時50分頃再び警報発令さる(6月18日)」)

そして6月19日に、柳津から手紙が届く。
「姉より信子をかえしてくれという手紙なぞ来る(6月19日)」

その手紙によって物事はどんどん決まってゆく。
「信子帰郷につき色々と準備する。恭子も連れて行くこととする(6月21日)」

恭子というのは私の母だ。
柳津もそうだが、祖父もまた東京の空襲は避けられないだろうという読みがあったのだろう。
唯一の女の子で未就学児であった母を「のぶこさん」に託して柳津に疎開させるという苦渋の判断をしたのだろう。

今から8年ほど前、日記のこの部分を発見した後、母に柳津に疎開した経緯を確認してみた。

「自由が丘に大きな爆弾が落ちてね。それに驚いたのぶこさんが"ここにいたら怖いから恭子ちゃんを柳津に連れてゆく"と言ったのよ」。

どうも6歳だった母の「記憶」は「伝聞」と混同しているようだ。
自由が丘に初空襲があったのは昭和20年3月10日の事で、これよりもずっと後の事だ。
しかし唯一の女の子だった母を「のぶこさん」が連れてゆくと主張したのはおそらく事実だと感じた。

「夕方帰ってから信子と恭子を停車場まで見送る。七時二十分前後より入場せしむる(八時の汽車なり)無事到着することを切に祈る(6月23日)」

(仙台の曾祖母と母。九品仏の家ではないかと思う)

僕は夜行列車で遠く柳津まで向かう21歳と6歳の二人の少女の事を考える。
母は「のぶこさん」がいたからこそ、柳津へ行く事に同意したのだろう。
わずか6歳で家族と別れ、見知らぬ土地へと連れて行かれる母の心情を思っても想像に絶するものがある。
でもこれが戦争なのだと思うしかない。
誰もがその時その時で最善と思われる方法を選択するしかなかった。

祖父の日記から、ちょっとサイパン島の戦いの部分を続けてみよう。
「サイパンに上陸した敵はだんだん地歩を占めて行く非常に不安な気持ちとなる(6月24日)」
「サイパン落ちれば東京の空襲必至なりとラジオも放送する。今迄多少の戦果発表あるも充分ならず。却って益々上陸部隊の数が増えつつありとのことなり(6月26日)」
「サイパンの状況甚だ不利なるように思える、然し之は海軍軍部としては何か目算のあることならんか。独逸のシェルプール港ついに陥落すとあり(6月27日)」
連日のようにこのような日記が続き、
「夕方建公(けんこう=一番下のK叔父の事)の守りをしながら濱中製作所の前を通ると、サイパン玉砕の報あり。黙祷を捧げる(7月18日)」と綴っている。

何年か前に僕は母に尋ねた。
「この"のぶこさん"という人は生きてるの?」
すでに柳津には縁戚が住んでおらず、本家さんとも縁遠くなってしまっていたのだろう。
「さぁ~、私が子供の時に大人だったから、もう亡くなっているんじゃないかしら」と言うのみだった、
柳津駅側から気仙沼線
(東日本大震災の影響で、気仙沼線は柳津から先はこのようにうっそうとした草に覆われている。)

話を現在に戻す。

柳津から石巻までは車で30分ぐらいだったろうか。お寺さんに教えられた「本家さん」の住所にたどり着いた。
新築間もないマンションの一室だった。

なにしろ祖父の世代が姉弟だったという遠い親戚だ。ましては今日は8月15日の休日だ。どう対応されるかヒヤヒヤものだった。

ベルを鳴らすと僕と年齢的に一緒ぐらいの女性が出てきた。

「突然おじゃましてすいません。私は横浜から来た者で小野寺五一の孫にあたります。お寺さんからここを伺いました」と言ったら、歓声を上げて歓迎されたのにはこちらが逆に驚いたぐらいだった。どうぞどうぞおあがり下さいと家の中に通された。

そこから先は何て言ったらいいのだろう。お互いに交換する情報量が多すぎて、何を選んで何を伝えたらいいのか戸惑うぐらいだった。

今は10年前に亡くなられたTさんの奥様と、玄関に出てきた娘さんの二人暮らしだった。
娘さん….彼女は僕の「はとこ」に当たるわけだけど、何となく同じ空気が流れているなぁ~と思った。
そう僕の姉に雰囲気が似ているのだ。そして「私の弟に何となく似ている」と彼女に言われた。

手短にここへたどり着いた経緯をお話しする。
柳津へ行って先祖の事を調べているうちにここにたどり着いたということだ。
この3日間、ずっと自分は「歴史」の中をくぐりぬけてきたわけだけど、「本家」さんにとっては「今」の話が山ほどあった。

東日本大震災の日は海の方へと遊びに行こうとしたのだけど、何となく気が変わって別方向に行った。
海に行っていたら死んでいただろう。車に乗って移動していたのが良かった。
家は流されはしなかったものの、津波が家の中を通り抜けてダメになってしまった。

「宗澤さんてもしかしたら五一さんの事をブログに書いていた方?私むかしコメント入れた事がありますよ」。
あっ、そうだったのか。確かにそのコメントは覚えている。誰だろうなぁと長年の謎だった。

「いま石巻の人は元気がない。音楽は人を元気にする。私はこちらへ音楽のボランティアに来て頂く活動をやっていたんです」と娘さん。
何とそれは横浜を拠点として活動しているNPO法人の「あっちこっち」だった。

「それは奇遇です。僕の震災直後に被災地を応援するライブを3本企画したのと、石巻で直後に行われた支援ライブに寄付させて頂いたことがありますよ」
これ本当だ。2011年9月4日に石巻サン・ファンパークで開催された「みちのく音楽魂」というイベントに協賛させて頂いたことがある。収益を石巻市内で被災された小学校への楽器購入のための費用にあてるという趣旨に賛同したのだ。

この時はまさかその石巻に親族がいて、被災されているなんて想像だにしていなかった。
みちのく音楽魂 2011
ぜひ、ご先祖に挨拶していって下さいとの事で、仏壇にある「小野寺家先祖之霊」という位牌に手をあわせる。
何とかこれだけは発見できたけど、家系図は行方不明になってしまったとのことだった。

あまり長居してもご迷惑だろうと思いつつ、短い時間の中で色々と近況を交換しあったのだけど、最後にひとつだけ尋ねてみたい事があった。

「"のぶこさん"という方は、もう亡くなられたのでしょうか?」
「のぶこさんは生きてますよ」
「えっ、生きてらっしゃる!」

いま思うと失礼な会話なわけだけど、仕方がない。
僕にとっては歴史的な方、母を柳津まで疎開に連れていってくれた方が、まだご存命だということが大変な驚きだった。

「のぶこさん」は現在94歳。
石巻から車で30分ぐらいの「涌谷(わくや)」という場所の介護施設に入居されているらしい。

「私は今日横浜へと戻ってしまうのですが、何とか今日お会いすることはできないでしょうか?」
「今日は私たちが一緒に行けません。明日なら行けるのですが」
「大丈夫です。一人で行きます」

早速「のぶこさん」の娘さんに連絡を取ってくれて、私一人でも面会できるように段取りをしてくれた。
そして「お土産に」と大好物の笹蒲鉾を下さったのだった。

自分の予想を遥かに上回る形で、どんどん縁が広がってゆく。

宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [6]へ続く。