二人の須磨子さん

僕の祖母の妹に「須磨子」さんという人がいます。
僕が子供の頃すでに「おばあさん」だった彼女、広島の呉で大往生しました。
一昨日のことです。享年100歳でした。

「須磨子」という名前には他で聞き覚えがあるものの、ついつい身内だと気づかないものです。
よくよく考えるとこの方の旧姓は「平井」だった。
「あっ、平井須磨子....もしや」と思って調べてみたら、やはりそうでした。

彼女が生まれた大正7年(1918年)当時の人気歌手に松井須磨子という人がいました。

彼女は「復活唱歌(カチューシャの唄)」「ゴンドラの歌」「さすらいの唄」など次々をヒットを飛ばし、おそらく日本初の流行歌手といえる人でした。

もしかしたら曾祖父が松井須磨子のファンだったのかもしれません。
だけど、そういう話を聞かぬままに終わったようです。それを話してくれたであろう人は全員あの世に行ってしまいました。

「須磨子さん」が生まれた翌年、松井須磨子も自殺してしまいます。
恋愛関係にあった脚本家の島村抱月がスペイン風邪をこじらせて死去。その後を追って自殺したのは大正8年(1919)年1月5日の事でした。


(「ゴンドラの歌」)

さぞかし曽祖父はショックを受けたことでしょう。

そんな「須磨子さん」が生まれたのは岡山県の井原市。
そこで米屋をやっていたのですが、彼女が生まれた年に起きた「ある事件」がきっかけとなり、米屋をやめてしまいます。

その事件というのが「米騒動」でした。

この時の事を、祖母から生前に聞いたことがあります。ずいぶん昔、ここにも記事を書いたことがあります。
祖母は大正7年当時、4歳半でした。

街には何軒か米屋さんがあったけど、一軒ずつ火をつけられていったのよ。私の家ではそれに対抗するために、番頭さんや丁稚さんが総出になってお店の前に棒を持って立ったのよ。だけどそれだけじゃいけないんで、夜にかがり火をあかあかと灯して昼間のようにして、簡単には近づけないようにしたの。だからウチは襲われなかったんじゃないかしら。私たち(祖母を含めた三姉妹)は、あんまり怖いんで、奥の部屋で布団を被って隠れていたけど、それでも外の騒ぎ声が聞こえてきて怖かったわ。その日にはなぜか警察は暴れた人を逮捕しなくて、どこでどう調べたのかはわからないけど、翌日になって騒動に参加した人たちが検束されていったわ。私の父は、それ以来米屋が嫌になってしまい、結局肥料や薪炭屋へと商売替えしたけど、戦後になってこの仕事もやめてしまったの


1994年の2月のことです。僕はこの井原の家を訪れたことがあります。
高梁市へと続く昭和通りに面した旧家、当時は祖母の姉が一人で暮らしていました。
この方も東日本大震災の2日後に、104歳で天寿を全うしています。

店舗の奥にずいぶん広い敷地がありまして、そこには蔵もあれば倉庫もある。
そこを何気に除いてみると、倉庫を改装したのでしょう。ヤマハの音楽教室をやっていた形跡がありました。
ガラス越しに、昭和30年代と思われるヤマハ楽器のポスター、壁に掛けられた五線譜、そして埃の積もったオルガンとピアノが放置されているのが見えたのです。
今の自分の立場を思うと、とても不思議な気持ちになります。

残念なことに、2000年代にこの家も取り壊され、様々な「記憶」も時の流れに押し流されてしまったようです。

“命短し、恋せよ乙女(ゴンドラの唄)”

コメント

  1. 松井須磨子は、歌手と言うよりは女優でしょうね。この人は、どう見ても歌は上手くはありません。でもそのSP盤は、20万分も売れたそうです。ただ、SP盤コレクターの岡田則夫さんによれば、京都のオリエント盤は非常に少ないのだそうです。

    松井須磨子の歌は非常に人気があったそうで、全国はおろか満州や朝鮮でも公演がありましたが、芝居の前には、島村抱月の講演と須磨子の歌が行われたそうです。彼女は特に学生、旧制高校生等に人気があったのです。
    なぜ、そのように須磨子は人気があったのでしょうか。あの「素人くさい下手さ」にあったのだと私は思うのです。
    それまでの、日本の女性のレコードは、芸者や芸人など、玄人の女性ばかりで歌われたものでしたが、須磨子は「普通の素人の女性」の歌だったことが新鮮だったのだと私は思います。
    その意味で、須磨子は、AKB48の祖先のような人だったと言えるでしょう。

  2. spiduction66 より:

    >さすらい日乗さん
    そうですね、女優の方が全然正しいです。
    しかも、おっしゃる通りで歌はちょっと.....な方です。

    でもその視点は面白いですね。そうかAKB48の祖先かぁ。

    実際、大衆音楽ってそういう所にあると思うんです。上手い下手ではなく情感や心に響く歌声。彼女の弱弱しくて、いささかピッチのずれた歌声には、運命に翻弄されるような、えもしれぬ哀れさがあると思います。でも彼女は最後だけは自分で決断しました。

    現在は彼女は歌でしか伺い知れません。映像でも残っていれば奇跡なのですが。

    オリエント盤が少ないというのは、粗悪な複写盤が多かったということでしょうか?
    そのオリエントレコードのスタジオは京都四条大宮下ルにあったそうです。あのあたりを通る度に、彼女の歌を思い出します。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください