昭和19年 宮城県柳津への旅 [02] -佳景山からの乗合自動車-

昭和19年 宮城県柳津への旅 [01] -上野駅-)の続き

米軍がサイパン島に上陸して8日後、ついに"のぶちゃん"を故郷柳津に帰す日がやってきた。6歳を10日過ぎたばかりの母恭子も"のぶちゃん"と共に柳津に疎開する。

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昭和19年6月23日

午前十時より勤労対策委員会あり、左近司さんに会いて中野君のことをよく話する。
夕方帰ってから信子と恭子を停車場に見送る。
七時二十分前後より入場せしむる(八時の汽車なり)。
無事到着することを切に祈る。

昭和19年6月23日の日記

二人を見送った祖父は、省電大井町から東横電鉄に乗り換えて九品仏に帰れば済む話だが、心配なのは"のぶちゃん"と"恭子ちゃん"だ。
どのぐらい時間をかけて、どんな方法で柳津まで行ったのだろう?

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上野駅(昭和20年3月19日 日本写真公社撮影)

何しろ鉄道は門外漢。当時の交通事情もわからなければ時刻表を持っているわけでもない。twitterで質問をしてみたのは去年の11月のことだった。

知らなかった。こういう基本的なことを。
調べてみると石巻線の前谷地(まえやち)駅から柳津駅までの「柳津線(のちの気仙沼線の一部)」が開通したのは昭和43年の事だった。そうか昭和19年の柳津は陸の孤島だったのか。

だとしたら石巻あたりからバスにでも乗ったのだろうか?という文脈の中で、お助け船。

御成門さんありがとうございました

そうしたありがたい情報を頭に入れながら、改めて「津山町史(平成元年)」を調べてみた。

「町史」によれば、柳津に関わりの深かった鉄道駅は2つあった。
ひとつは仙北鉄道登米線の「登米(とよま)駅」。これは柳津から北上川沿いに北へ6kmほど行った登米(とよま)町にあった。今は「みやぎの明治村」と呼ばれる素敵な場所だ。「登米駅」は当時の柳津からは最も至近距離にあった。

しかし登米(とよま)・柳津・横山・志津川など本吉郡の交通ネットワークの中心にあった鉄道駅は、意外なことに石巻線の佳景山(かけやま)駅だった。東北本線の小牛田駅で乗り換え、涌谷、前谷地、佳景山と3つ目となる駅だ(昭和19年当時)。

大正14年に都築自動車が佳景山駅・柳津・登米間で乗合自動車(バス)の運行を開始している。利便性を考えて佳景山駅の列車の発着にあわせた運行が行われていたようだ。

残念ながら「町史」にはそのルート詳細が記載されていなかったが、土木学会付属土木図書館が提供している雑誌「道路の改良 第十四巻三号(昭和7年)」内の記事「北上新川の架橋完成(PDF)」に、そのヒントがあった。

「道路の改良」第13巻3号

これは新たに開削された「新北上川(柳津→追波湾)」の柳津大橋の竣工(昭和7年)と、旧北上川の神取橋(昭和6年=当時は舟橋)の竣工によって、乗合自動車の利便性が高まったという内容だ。

これに基づけば当時の運行ルートは佳景山駅→和渕→神取橋→神取→中津山村→桃生村→柳津大橋→柳津町(以上は停留所の名称ではなく地名)だったと推定される(地図の青い線)。

柳津大橋

なお「町史」には、昭和14年に三陸自動車と合併した頃、佳景山駅と柳津間の運賃は90銭、所用時間は1時間30分だったと記載されているが、これには疑問が残る。この2点間は距離にしてせいぜい16~7kmだ。それじゃあ人間の走る速さと変わらない。当時の車の性能を割り引いても40~50分程度だったと考えるのが妥当だ。

昭和19年頃になると、この区間は木炭バスが運行するようになり「木炭ガスの発生不良で定時運行の確保が難しく、運行回数削減にまで追い込まれた」と「町史」には書かれている。三陸自動車が政府の方針によって仙北鉄道と合併するのはこの年の10月の事だった。

昭和19年 宮城県柳津への旅 [03] -107列車 北へ-)に続く。