昭和19年 宮城県柳津への旅 [03] -107列車 北へ-

2020/7/30 木曜日

昭和19年 宮城県柳津への旅 [02] -佳景山からの乗合自動車-)の続き

昭和19年6月23日20時ちょうど、東北本線107列車は上野駅を出発した。
“のぶちゃん"と"恭子"ちゃんの乗車券には「上野-佳景山」と書かれていたに違いない。
距離にして405km。運賃は大人9円、子供4円50銭だった。

写真週報315号(昭和19年4月5日発行)は声高に旅行の自粛を訴える

107列車は北へと進む。宇都宮までは各駅停車で進んでゆく。

22時43分に宇都宮着。ここで10分の停車をする。
ここで祖父のアドバイスどおり、二人が座れたとも思えない。
4月22日に祖父が柳津に行った際の日記には「仙台まで立ってゆく」とそう書かれていた。

昭和19年の旅客列車の車内
昭和19年の旅客列車の車内

いま、僕は歴史を俯瞰する立場で二人の「旅」を刻一刻とみる事ができる。
通路の床に座り込んでリュックサックにもたれながら寝息を立てる二人、その二人しか知りえない「記憶」がある一方で、二人が知る由もなかった「歴史的事実」を、過去と未来の時間軸の中で眺めることができる。

たとえば北海道で昭和新山が最初の噴火をしたのは、この日の午前8時15分だった。
何の変哲もない広大な麦畑が、わずか2年で隆起して山に成長したのだ。この時は厳しい報道管制がしかれ、この事実が報道される事はなかったと言われている。

そんな世界的にみても稀な自然現象も、宇都宮駅が翌年の7月12日に空襲によって焼失してしまう事も、二人は知る由もなかった。

宇都宮まで各駅停車だった107列車は、このあといくつかの駅を飛ばしながら深夜の鉄路を進んでゆく。
そして東那須野と黒磯の間で6月24日を迎えた。

結局、入手してしまった時刻表。昭和19年5号。実際には昭和20年1月25日以降に発行されたらしい。

柳津へ疎開していた時の事を、ほとんど話す事のなかった"恭子ちゃん"こと母が、一度だけこんな話をしてくれた事がある。

国民学校へ入学した日の事だった(昭和20年4月)。私はのんびりした子だったから、なかなか学校へ行く準備ができなかった。そうしたら叔母さん(祖父の姉)に言われた。"そんなにぼやぼやしていると、あなただけ入学できないよ"ってね。みんなで何かをする時は、みんなにあわせなくてはいけないんだなという事を、それで覚えた。

母恭子の証言、2010年頃

祖父の日記をみると、母は柳津に行って3か月ほどで、仙台市内にある祖母の実家に預けられている。小学校への入学を前にして再び柳津に疎開したのは、仙台も空襲の危険が高まってきたからだろう。

幼くして親戚の家を転々とした母は、その寂しさを周囲にほとんど語らないまま、老人特有の症状で記憶のすべてを封印してしまった。

それでも76年前、6歳の少女だった母は列車の床でリュックに寄りかかりながら、北へ北へと向かっていた。

1944年6月24日、仙台の日の出時間は4時13分。
岩沼付近から次第に空が白み始め、仙台に到着したのは4時59分の事だった。

二人にはここから仙石線(宮城電気鉄道が5月1日に国有化されたばかり)で石巻に出るという選択肢もあった。しかし残念なことに乗り換えるには時間がなさすぎた。始発の石巻行は5時ちょうどの発車だ。日本初の地下ホームまで降りるには1分では難しかっただろう。

1920年代の宮城電気鉄道(のちの仙石線)仙台駅(Wikipediaより)

あるいは...想像と仮定の世界は無限大だ。
実は仙台駅の東側「二十人町(にじゅうにんまち)」には"恭子ちゃん"の母方の実家があった。
町は大変貌を遂げてしまったが、広瀬通をアンパンマンミュージアムへ左に曲がる角を、そのまま30~40mほど進んだあたりで「鈴木薬局」という薬屋をやっていた。

1946年米軍航空写真より。祖母の実家は昭和20年7月10日の仙台空襲で焼夷弾の直撃を受けて炎上した。

ここで休憩をして、目と鼻の先にある仙石線「仙台東口駅(東七番丁駅から改名したばかりだった)」から石巻へ向かうという可能性も考えた。実際、祖父は柳津の行き帰りに二十人町にたびたび寄っているからだ。

しかし二十人町の家に行くには仙台駅から歩くしかない。
「仙台東口駅」はややこしい駅で、下り石巻方面は乗車専用駅で下車する事ができなかった。
しかも当時の仙台駅には東西連絡通路はなかった。今でいう西口側から大回りで宮城野橋(通称X橋)を渡るしかなかった。

長旅に疲れた二人が重い荷物を背負って歩く距離ではなさそうだ。
しかも当時の時刻表を調べてみると、仙石線石巻経由で佳景山へ向かうのはあまりにも接続が悪すぎた。

東北本線なら仙台でようやく空席ができたはずだ。二人は倒れるように座席に腰かけた事だろう。
5時6分、列車は仙台を出発した。

仙台を過ぎると、"のぶちゃん"は故郷に帰ってきた気になっていた事だろう。
眠い目をこすりながら仙台平野の風景を眺めていたかもしれない。
いっぽう”恭子ちゃんは深く深く眠り続けていたに違いない。この人は昔からどんな状況でも眠れる人だった。

平野を抜ければお次は山だ。利府(通過駅)を通り過ぎると山々が迫ってくる。
決して高くはない山々だが、車窓近くに見える集落は朝霧で霞んでいた。

急勾配を汽車は喘ぎながら登ってゆく。いつの間にか線路は単線となり、眼前を掠めるように木々が通り過ぎてゆく。機関車の煙の匂いと水気を帯びた緑の匂いとが入り混じって車内に漂ってきた。

「柳津に似ている」と"のぶちゃん"は思っただろう。柳津は仙北平野が北上山地とぶつかる境界にあった。気仙浜街道を志津川方面へ向かうと、両側の山々がどんどん迫ってくる。車窓の風景はそれに似ていた。

“のぶちゃん"が聞いた話では、間もなく松島の海岸側に線路がもう一本完成するんだそうだ。
将来的に東北本線はそちらを走る事になるらしい。

6時18分、東北本線青森行き107列車は小牛田のホームへと滑り込んだ。
“のぶちゃん"は"恭子ちゃん"を起こして列車を降りた。

同じ頃、九品仏の祖父は目を覚ました。
何事もなかったかの日常と非日常の入り混じった日記がこれだ。

昭和19年6月24日の日記

今日は土曜日なり。予て(かねて)気になって居った裏の物置の●(庇?)を充分掃除する。
サイパンに上陸した敵はだんだん地歩を占めて行く非常に不安な気持ちとなる。
瑞ちゃんが江尻君と喧嘩したとかにて来る。

物置を掃除したかと思えば、サイパン島の戦況に不安となり、瑞ちゃん(祖母の妹)が旦那(江尻君)と喧嘩したからとやってくる。祖母以上に勝気な瑞ちゃんの事だ。旦那との喧嘩話もそこそこに"恭子ちゃん"を一人柳津に送り出した事に、物言いをつけたのかもしれない。祖父の気持ちはますます不安となったことだろう。

昭和19年10月11日改正の石巻線の時刻表

石巻線の接続はスムーズだ。6時26分に女川行603列車に乗り込んだ"のぶちゃん"と"恭子"ちゃんは、長い列車の旅の終わりを迎えようとしていた。駅間距離の長いこと長いこと。涌谷、前谷地、佳景山とわずか3駅に33分をかけて、11時間にわたる長い鉄道の旅が終わった。時計の針は6時50分を示していた。

「接続はスムーズであった」という「津山町史」の記述を信じるなら、駅前には三陸自動車の木炭バスが停車していて、駅から降りてきた乗客がどんどん乗り込んでいったはずだ。往々にしてこういう時は知人と巡り合わせる事が多い。「"のぶちゃん"が東京から"ごいっつぁん"の娘を連れて帰ってきた」という情報はたちまち柳津で広まったに違いない。

実はこの年、"恭子ちゃん"にとっては二度目の柳津行だった。
4月13日に曾祖父の小野寺新六が亡くなったのため、柳津を訪れたばかりだった。まさか2カ月後に再びここへ来るとは想像もしていなかっただろうけど、彼女なりに受け止められる何かはあったと思う。そして柳津の地元民にとっても「知らない他所の子」ではなかったと信じたい。

旧北上川沿いの田園風景の中をバスは進む。
早朝にもかかわらず道端を大勢の子供たちが歩いているのは、ラジオ体操が終わったからだろう。

昭和16年に架け替えられたばかりの(それまでは舟をつないだ橋だった)神取橋で川を渡り、バスは中津山村、桃生村と進んでいった。

旧北上川と新北上川に挟まれたこのあたりは、広い空と緑のコントラストが美しい。
水田は潤い、山々は鮮やかな緑に包まれていた。
自然に包まれた平和な風景は、サイパン島の戦況を心配する祖父の心情とは真逆の風景だった。

現在の柳津大橋

田園地帯を抜けたバスはいよいよ柳津大橋を渡る。
木橋をバスはギシギシと危ない音をたてながら渡ってゆく。

岩手県の山岳地帯から流れ出た北上川は、ここで新旧二つの川に分かれる。
新北上川の方は23年にわたる開削工事によって、昭和7年に開通した分水路だ。
川を作るため、江戸時代から続いた柳津の町は大正初めに移転した。往年の町の大半は川の底か河川敷となってしまった。それは"のぶちゃん"が生まれる前の出来事だった。

橋を渡ればそこが柳津の町。
バス停を降りた真向かい、道路に面して二軒ばかり家屋を連ねた家がある。巨大な欅の木が庭にある。これがのぶちゃんの実家だった。

“恭子ちゃん"はここで3か月ほど暮らし、一旦は仙台の家に引き取られるのだけど、昭和20年4月に柳津の小学校に入学している。そのあたりの経緯はさっぱりわからなくなってしまった。その仙台の家も7月10日の仙台空襲の際、ピンポイントで焼夷弾の直撃を受け焼失してしまった。
おそらく仙台駅めがけて投下した焼夷弾が風に流れて落下したのだろう。

柳津時代の"恭子ちゃん"については奇跡のような話がある。
恭子ちゃんは2歳年上の"ちよちゃん"に可愛がってもらった。いつも"ちよちゃん"の家に遊びに行き、"ちよちゃん"が不在の時も家に上がって一人で遊んでいたらしい。

それから16~7年後の事だ。
恭子ちゃんと結婚した父は、会社の同じ課の同僚と世間話をしていた。今度の夏休みはどこへ行く?という会話だったらしい。そうしたらその同僚の口から「ヤナイヅ」という地名が出てきた。よく聞いてみるとそれは宮城県柳津の事だった。奥さんがそこの出身で、夏休みに帰省するのだという。

その奥さんこそ"ちよちゃん"だった。

昭和19年 宮城県柳津への旅 [04] -のぶちゃんの話-)完結へと続く