木更津で発見された「航空機の車輪」を見てきた

最初にその記事をみたのは14日朝の事でした。
実はそれが日付のちょっっとだけ古いニュースだって気づいたのは後のことです。
スマートニュースに掲載されていた「事故機の車輪か 木更津沖で漁師が引き揚げ(東京新聞 12月12日午前7時23分付)」には次のように書かれていました。

木更津市牛込沖合の東京湾で、航空機の車輪のような形をした残骸が見つかったことが十一日、分かった。
湾では過去、何度か航空機の墜落事故が起きているが、今回との因果関係は不明。(中略)四日午前六時半すぎ、沖合数キロ、水深二三メートルの辺りでタチウオ漁をしていたところ、船が急に重くなり動きを止めた。底引き網に車輪が絡まっているのが分かり、友人の船と一緒に港まで運んだ。網の中を点検すると、長さ約一・五メートルのさびた車軸のような残骸の先端の左右に車輪が付き、航空機の大型タイヤのような物も見つかった。残骸は今後、業者に処分してもらう方針。

東京新聞

記事の先を読むまでもなく、頭に浮かんだのは昭和41年2月4日に発生した「全日空羽田沖墜落事故」でした。
17時55分に千歳空港を飛び立った全日空60便(ボーイング727-100)は、18時48分に大子ビーコン、18時56分東京VOR上空を通過し、18時59分には千葉市の上空で羽田空港(当時は東京国際空港)から侵入許可を受けました。そして19時00分20秒、管制官の呼びかけに対して「現在ロングベース」という返答がありました。

ところが28秒後、管制官の「着陸灯を点灯せよ」という指示に対して応答はありませんでした。

捜索機によって木更津から北へ13kmの地点で機体の残骸が発見されたのは23時55分の事でした。
機長高橋正樹と6名のクルー、乗客127名の計133名全員が死亡。当時世界で最悪の航空機事故だったのです。

「全日空羽田沖事故」は僕が生まれて2か月後に起きた事故でした。小学生の頃にジュニアチャンピオンコースの「あの事件を追え」で知り、柳田邦男「マッハの恐怖」で深く知りました。
「木更津沖で航空機の車輪」と聞いた時、条件反射的にこの事故が頭に浮かんだのは当然です。すでにSNSなどでは「B29ではないか」と囁かれていたようなのですが、それよりも見たいという衝動の方が先に行ってしまいました。

この日(月曜日)は仕事休みでした。牛込の漁協に電話確認してみるとまだ港に置いてあるとの事でした。
横浜からだとこの港まで1時間もかかりません。とにかく電撃で行って電撃で帰って来ようと車を走らせました。
助手席には86になる父がいます。「年賀状がうまくプリントできない」というので朝からPCの設定をみてあげたのですが、興味津々で乗っているのです。

「こんな時に高齢者を外出させて」と言う輩が出てくるので、弾幕張っておきます。我々が行く先は朝から漁に出払っていて人気のない木更津の岸壁で、しかも車で行くのです。

アクアラインを越え、最初の木更津金田ICで降り、そこから10分ちょっとで牛込の漁港に到着しました。
だだっ広い漁港には人っ子一人いません。「どこだ」と見渡すと、岸壁の端っこに明らかにそれとわかるものが確認できました。

そこには「航空機の車輪」といえるものがありました。
まずは犠牲となられた方々に合掌し、その上で撮影します。
羽田沖事故の犠牲となられた方へのつもりでした。

車輪は格納された状態だった事がわかります。横には大きなタイヤも転がっていました。
これをみるとわかる通り、2つの車輪でひとつのタイヤを支えていたわけですね。

さて、この段階で「ボーイング727にしてはタイヤが小さい」とか「大きい」とか考えるのが、飛行機好きなのでしょうけど、自分はそういうのがよくわからない。
だから54年ぶりに日の目を見た事故機の部品だと考えているわけです。

とりあえず驚いたのがこれ。

ジェラルミンだよねこれ。
露出した車輪脚のジョイント部分に、長年海の底にあったとは思えない輝きが残っていたのです。
その輝きは再び外気に触れた事で、たちまち変色してゆくのかもしれません。
私にはこの輝きが今しか見れない貴重なもののように思えましたが、誰だよ何か貼り紙しているのは?

那須の戦争博物館が「これを譲って欲しい」と主張しているのです。
いやこんな事やめてくれ、漁協に問い合わせろよと思いました。

そうこう事をしているウチに、港に一台の乗用車がやってきて、二人の人物が降りてきた。
「あー、自分のようなもの好きがいるんだなぁ」と思っていたら「地元の博物館の者です」とおっしゃられた。

私が「いやぁ、まさか全日空機が出てくるとは思いもしませんでした」と言ったら、そのお返事は想像を上回るものでした。

「いや、これはB29の機体と思われます」。

これには親父と私、口を揃えて「びーにじゅーく?」と叫びました。

その方は「(書物で)調べたところ、もしB29ならばタイヤの直径は140cmなんです。これから実際に測ってみます」と言い、眼前でメジャーを取り出した。

タイヤの直径はほぼ140cmだったのです。
そこでスマホでB29の後部車輪の画像がないかと調べてみると「B-29 wheels」と記載されたCGがありました。
チェコスロバキアにある「エデュアルド」というプラモデル(?)メーカーが発売している部品のようです。
実際にこれと実物を照合してみると、形状が同一であることがわかります。

Eduard「B-29 wheels」
形状からすると後部車輪のようです。
脚は折りたたまれた状態でした。
左右に2つずつのホイールがあるが、2つのホイールでひとつのタイヤを支えていた事は、タイヤのサイズから推定できました。
タイヤの柄はCGと異なっています。

54年前の全日空機だと思い込んでいたわけですが、75年以上前のB29であることは間違いなかろうと思いました。
どおりで「戦争博物館」が申し出をしているわけです。ニュースで見た映像でそうだと確信したのでしょう。

ただ博物館の方はこう言われていた。「この部品の場合、まず洗浄などをして潮を抜ききるのに一年はかかります。その上で防錆処置を行う必要があります。そうすると何百万という費用がかかります。今は果たして予算が出るかどうか....」

私は那須の戦争博物館へ行った事があるけど、戦闘機のパーツが野ざらしになっているのを知っています。
B29の「残骸」というのは、たまに田舎の郷土資料館でお目にかかる事がありますが、こんな大きなものは見たことがありません。
だいたいは片手に収まるサイズの「部品」と言えるものばかりです。

当時は墜落したB29などすぐに軍が回収して軍事研究の対象にしたり、ナベカマのように貴重な金属の材料としたのでしょう。
そういう意味でも大変貴重なものですし、やはり地域の博物館や、公的な組織が保管した方がよいのではないかと思ったのです。

有名な牛込の「海中電柱」

帰りの車中で父が言いました。
「B29なんて見るのは75年ぶりだよ」。

父が疎開先の岡山県倉敷市の玉島で「水島空襲」を目撃したのは1945年6月22日の事でした。
110機のB29が三菱重工の水島航空機製作所に空襲を行ったのです。
「あれは怖かったね。何キロも離れているから大丈夫だとわかっているつもりだけど、正直死ぬかと思ったよ」
父によれば爆弾が横長に見える時は、絶対に自分の所へは落ちてこない。丸く見える時がやばいんだと、そんな話でした。

さて、博物館の方は「B29はこのあたりに4機墜落しているんです」と仰っていたのが気になったので、ちょっとネットで調べてみました。
参考になったサイトは以下の2つです。
・お隣の君津市の有志団体「きみつアーカイブス推進委員会」さん運営「きみつアーカイブス」内「君津地方の空襲の記録
POW研究会 さん運営「本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士」→「東部軍管区

それによると...対空砲火で撃墜されたB29はこの近辺だけでもこれだけあったようです。

昭和20年4月15日~16日
→君津郡小櫃村現君津市末吉=久留里線小櫃駅付近に墜落。搭乗員4名死亡、生存者6名のうち5名は東京陸軍刑務所での5月26日の空襲による火災で死亡。
昭和20年5月23日~24日
→木更津市太田山に墜落。6名が死亡 5名生存
昭和20年5月25日~26日
→千葉県君津郡馬来田村(現木更津市馬来田)付近に日本軍機の体当たり攻撃によって墜落
昭和20年5月29日
→高射砲によって分解し、尾翼部分は千葉県君津郡君津町八重原(現君津市)に、主翼部分は木更津市大久保(記事によっては烏田)に墜落。横浜大空襲の帰還途中の「マミー・ヨーカン号」。 昭和26年に「B29搭乗員之墓」が個人によって畑沢に建立されている。
昭和20年5月29日
→君津市蔵玉に墜落(19日墜落説もあり)
昭和20年8月2日
→八王子空襲からの帰還中、おそらく東京湾上空で空中爆発。機体の一部は君津郡昭和町坂戸市場の小櫃橋(現袖ヶ浦市)付近に墜落。
搭乗員の一部はパラシュートで木更津市金田や牛込付近などに降下。うち一名は射殺された。いっぽう、海上に降下した搭乗員がゴムボートで上陸中、日本人漁師を射殺している。

ざっとこんな感じでした。
これ以外にも東京湾に墜落したB29も多数あった事が確認できたのです。

アクアラインで千葉から神奈川へと走る時、橋の右手には東京湾の全景が見えます。
海岸線に囲まれたその景色は、まるで湖のようで意外と狭く見えるものです。

「東京湾の海水を全部抜いたら、何機の飛行機が出てくるんだろうか?」

そんな事を思いました。