呉空襲を奇跡的に生きのびた方の話

2021/1/3 日曜日

上大岡に「温怜堂総合治療院」という鍼と灸と指圧マッサージの治療院がある。
僕はもっぱら鍼で通っている。いや「もっぱら」という程でもないな。
どうも鍼と相性の良い体質のようで、ここの名医方に治療されると1度2度通えば嘘のように治ってしまうからだ。

5年ほど悩んでいた四十肩が嘘のように取れてしまったし、半年に一度のギックリ腰も頻度が減ってしまった。

今年で91歳になられた宇佐美院長の話は面白い。とても頭の柔らかい方だと思うし、長年の経験から出てくる言葉の一つ一つに重みがある。この人を僕は秘かに「上大岡の日野原重明」だと思っている。

さて、11月12月と続いて突発性の腰痛に襲われ、それがギックリ腰とは違う症状だったので、数年ぶりにここへ通った時に宇佐美さんから聞いた話だ。

宇佐美さんは昭和5年に広島県の呉市で生まれた。
父親は呉海軍工廠の士官(確か少佐)だったらしい。昭和20年には宇佐美さんも学徒勤労動員で海軍工廠で休みもなく働いていた。

昭和16年、呉海軍工廠で艤装中の大和

「戦艦大和は二度見た。修理で入港した時と修理を終えて出港した時」という所から話は始まった。
昭和19年1月15日、戦艦大和は魚雷を受けた箇所の修理と対空兵装強化のため、海軍工廠へ入港している。宇佐美さんの記憶はこの時のものと思われる。

宇佐美さんの話は呉の空襲へと続く。
「父と近くにある防空壕へと逃げた。そこは500人以上が入れる大変大きなもので、トンネルのように入口と別に出口があった。しかし、自分はその防空壕には入りたくなかった」というのだ。

その理由はこうだった。
宇佐美さんは12歳の時から「ミョウホウジの裏山」に防空壕を掘ってきた。どうせ入るならそこに入りたい。そう思ったんだそうだ。
それは「どうせ死ぬならそこで死にたい」という覚悟の気持ちだったのかもしれない。
15歳となった宇佐美さんは父に向って「ここにはいたくない。ミョウホウジへ行こう」と父を説得し、父が止めるのも聞かずに壕から飛び出した。父もまたそれに続いた。

「もう見渡す限り火の海でね」と宇佐美さんは言った。そんな火の海の中を二つの影はミョウホウジへと向かって行った。

ミョウホウジの裏山の壕は扉を閉ざしていた。一度壕に入って閉じてしまうと、後から入ろうとしても開けてくれることはないらしい。そこを宇佐美さんは大声で自分の名を名乗りながら、扉をガンガン叩いたそうだ。そうすると運よく隣組か何かの班長が中にいた。

「これは宇佐美が掘った壕なのだから入れてやれ」と言って、扉を開けてくれた。親子は壕の中に飛び込んだ。

しかし、これで大丈夫ということはなかった。周囲の火災が広がり、煙が壕の中に流れ込んできたのだ。
壕内は煙に包まれ、呼吸は苦しくなり、気を失うものも出てきた。誰もが死を覚悟した。
そんな時だ。宇佐美さんは地面すれすれの所だけは清涼な空気が流れている事に気づいた。「地面から1cmぐらいだった」と宇佐美さんは言っていた。

宇佐美さんは地面に顔を押し当てるようにして、その空気を思いっきり吸い込んだ。周囲の人も同じようにした。

やがて空襲が終わり、ようやく壕から出てみると、周囲の風景は一変していた。
何よりも先ほど飛び出してきた防空壕では600名近い人間が亡くなっていたのだ。
宇佐美さんはギリギリの所で、自分の命を拾う事になった。

生き延びた宇佐美さんに与えられた仕事は、その600人の遺体の運搬だった。
建物疎開で空き地になっていた場所へ、遺体を運んでいったのだそうだ。

「空襲も怖かったけど、どこに爆弾が落ちるかというのはある程度見当がついたから、まだ良かった。それに比べればコロナウイルスの方がどこからどう来るかわからないから、ずっと怖いよ」と宇佐美さんは言った。

腰の何か所かに鍼を刺され電流を流された僕は、うつ伏せになった状態でそれを「うんうん」と聞くしかなかった。

調べてみた。
呉への空襲は何度かにわたって行われたが、その多くは軍事施設や艦船に対する空襲が大半だった。
そんな中で一般市民に対する戦略爆撃、いわゆる「呉市街空襲」が行われたのは昭和20年7月1日夜半から2日未明にかけてだった。呉の市街地大半が焼失し、一般市民1949名が犠牲となった。

そんな中で、最悪の惨事と言われたのが市街地の東側にあった和庄地区の防空壕(①)だった。
八幡通りから川へと降りる山の斜面に対して、平行するように5つ(うち1つは未完成)の壕が掘られた。宇佐美さんが言われたようにそれは決して「入口と出口のある」トンネル構造ではなく、そのうち4つの壕は、奥の方で横の連絡通路で繋がっていたようだ。現在は壕前にあった小川も暗渠になっている。壕とは小川を挟んで対岸にある「和庄公園」は、そもそもは建物疎開が行われつつある空き地だった。ところが空襲の最中に建物疎開から外れていた民家が炎上を始めた。その煙が川向うの壕へと流れ込んできた。壕内は阿鼻叫喚地獄と化し、550名ほどが亡くなった。

宇佐美さんが最初にいた防空壕はここに違いない。そして遺体を運搬した空き地というのが現在の和庄公園(②)だったのだろう。「ミョウホウジ」というのは「明法寺(③)」で間違いない。和庄の壕からだと直線距離で200mほどの場所だ。「ミョウホウジの裏山」というのだから現在の寺迫公園(④)付近だったのかもしれない。

明法寺のあたりは今でも道幅があり、自然が多く広々としている。当時は住宅もさほど密集していなかったのではないか。
直感で物を考えて申し訳ないが、自分が同じ立場だったら500人が入れる防空壕よりも「ミョウホウジの裏山」へと逃げるだろう。いつの時代でも密を避けるに越したことはない。ただ15歳の自分がそれが判断できるかどうかはわからない。自分の父を無理やり連れてまでそれができるかどうかはわからない。

宇佐美さんは直感的に危険を察知したんだろう。だから壕を飛び出した。それが生死を分けた。
失われた大勢の命の代わりであるかのように91歳になってもお元気だ。

宇佐美さんはこんな事も言っていた。
「私ね。91歳でもこうやって仕事をしているけど、いつも人の為に生きてきた。人の為に生きるには自分が健康でなくちゃいけない。つまりね。私は今それを実証しているというわけ。宗澤さんも長生きをしなさいよ」。

僕は3度も歩行者として交通事故に遭い、1度は意識不明の重体だった。
母方の祖父は列車に乗っていて機銃掃射を受け、眼鏡と時計に銃弾がかすって助かったが、眼前の子供は頭を打ちぬかれた。
父方の祖父は岡山大空襲の際に岡山駅に居合わせて、周囲が火の海になる中で、九死に一生を得た。

宇佐美さんほどの業績はないものの、宇佐美さんの言葉の一つ一つには自分も理解できるものがある。
それは「拾った命」という自己に対する認識があるという事だ。宇佐美さんも僕も命を拾っている。
それは「運命」を達観する事であり、私利私欲のみで生きるのとは別の次元に自分を置く事に他ならない。

運が悪ければ、自分は再び自動車事故で死ぬか、新型コロナウイルスに感染して死ぬかするだろう。
それは明日明後日の事かもしれない。運が良ければまたしぶとく生き続けるのだろう。そしてその度に「また命を拾ってしまった」と思う事になる。

宇佐美さんが言うように長生きができるかどうかはわからない。
わからないけどもし来年という明日があるのであれば、「拾った命」と悪運の強さに自分を委ねてみようと思う。

一年間、この辺境blogをお読み頂きありがとうございました。
2021年もよろしくお願い致します。