大垣行きの夜行列車に乗って

旅行前の気分って、どんな感じだろう?
「数日前から気持ちが落ち着かなくなり、旅先の風景を思い浮かべ、何かモノゴトに手がつかなくなる。」
誰もがそんな感じじゃないだろうか。

実はこれ、松尾芭蕉が「奥の細道」の序文にそういう事を書いている。
芭蕉は純粋に旅をする事を目的として旅をしたトラベラーの元祖みたいな人だから、この感情は過去も今も普遍だってことだ。

ところが、こんな気持ちとは真逆の旅の形も、かつての日本にはあった。

1980年3月のこと。
僕と友人のH君は東京駅のホームに座り込み、その夜行列車を待っていた。
行き先は京都と奈良。友人と二人で計画を立てて行き先を決め、宿も予約して、移動手段も選んだ。中学校2年生の二人にとって人生初の大旅行だった。

「大垣夜行」なんていう言葉は全く知らなかった。
時刻表で京都へ行く格安の移動手段を調べたら、必然的にその列車に乗る事になっただけだ。

23時25分東京発大垣行き夜行列車の事を「大垣夜行」という。
この列車は、東京駅から東海道本線を鈍行(深夜時間帯のみ駅を省略)で西へ西へと進み、朝6時すぎに岐阜県の大垣に到着する。
そこで西明石行きの鈍行列車に乗り換えて京都へとたどり着く。
貧乏中学生にとっては、普通運賃だけで京都まで行けるというのが最大の魅力だった。

何しろ二人とも旅は素人だ。どうせ夜行列車なんてガラガラだろうとタカをくくって、横浜から乗車するつもりでいた。
ところが旅の数日前、会社から帰宅した父に尋ねらた。

「お前、京都へ夜行で行くって言ってたよね?」
「うん」
「横浜から乗るつもりか?」
「そのつもりだけど....」
「そりゃあ無茶だ。絶対座れないよ。さっき東京駅でみたけど凄い行列だったぜ。先頭の人は20時ぐらいから並んでいるらしい。お前らも東京から乗った方がいいぞ」。

初めての旅を前にして、思いもかけぬ現実を突きつけられた。
あわてて友人に電話をし、当日は列車始発駅の東京に出て、20時ぐらいから並ぼうという事になった。

旅行当日、20時20分ぐらいだったろうか。
我々が東京駅で見たのはホームに座り込む人たちの姿だった。ホームには「夜行列車の扉はここ」みたいなプレートが等間隔に表示されていて、どの看板の下にも3~4組はいたと思う。
父の言う「20時ぐらいから」は本当だった。適当に空いてそうな列を選び、地べたに旅行バックを置いてそこに座り込む。3時間近い場所取りの開始だ。

友人と交代でキオスクに買い物に行く。
当時はグリコのポッキーとファンタオレンジにハマっていたので、それを食べたり飲んだりする。時間はたっぷりあった。H君のポケットゲームを借りて遊んだり、京都奈良のガイドブックを読んだり...ムサ苦しい中学生がホームの一部を「占拠」してムサ苦しい事をあれこれやっている。その横をスーツ姿のサラリーマンやお洒落なOLさんが通りすぎてゆく。汚いものを見るかのように...

1980年代はまだ「占拠」の時代だった。
何をするにしても、たとえそれが公共の場所だとしても「占拠」する事で権利を主張できた時代だった。
「美観を損ねる」とか「ホーム通行の邪魔になる」という理由で、じゃあ全席指定券にしましょうやという事になるのは、1990年代の事だ。
東京駅のホームの一部を占拠するムサ苦しい二人。その心の中では「はたして座席に座れるのだろうか?」という不安と緊張感とが渦巻いていた。
それが旅の始まりの風景だった。

我々の背後に列はどんどん長くなる。ホームの反対側まで届くんじゃないかというぐらいだ。父のアドバイスには感謝するしかなかった。

気の遠くなるような時間が過ぎ「大垣行き」列車がホームに入ってきた。それは23時ちょっと前ぐらいだったと思う。
やれやれという具合に座り込んでいた行列が立ち上がり、裾を叩く音、旅行バックをどっこらせと担ぎあがる音が聞こえてくる。
そして一気に緊張感が高まる。

ところが列車はホームに停車したものの、車内の掃除か何かですぐに扉は開かない。
重い荷物を抱えながらもダッシュの構えで5分ぐらい待たされる。窓越しに車内の座席をチェックして、列前の人数と比較して、見当をつけたりする。
こんな嫌な時間はなかった。

そして扉が開いた瞬間に生存競争が始まった。
前の人に続いて車両に飛び込む。車内通路でモタモタしているヤツはエルボや蹴りでも食らいそうな状況だった。誰もが無言でこのバトルを進行するのだ。
そんな中を潜り抜け、多分誰かに旅行バックをぶつけたりもしながら窓際の席を2席確保できた時には、死ぬほどホッとしたし嬉しかったし安心した。

まだ発車まで20分以上ある。荷物から必要なものだけを取り出し、網棚に置いて生活空間を確保する。
落ち着いて周囲を見渡してみると、座席が取れずに通路に座り込んでいる人が大勢いる。「勝った!」という気分になるのは当然だ。
3月だというのに「冷凍みかん」なんて売っていたかなぁとも思うのだけど、座席確保のお祝いに買ってきて、二人で食べたという記憶がある。

23時25分、夜行列車は大垣へと動き出す。
四人掛けのボックス席には、僕とH君とあと二人はいたはずだけど、特に会話したという記憶もない。
一人は小田原で降り、もう一人は名古屋までは乗らなかったと思う。席が空いたからといって、通路に座り込んでいる誰かが補充されるように座ったという記憶もない。

当時からトンネルマニアだった僕は、伊豆半島を貫く丹那トンネルを通るのを楽しみにしていた。
そこまでは眠るまいと思っていたし、直角座席では眠るに眠れなかった。
しかし真夜中に通る丹那トンネルなんて何の感動も感慨もなかった。ようやく函南をすぎるとウトウトしたんだと思う。

ところがウトウトしている所で物凄い悪臭に目が覚めた。
ちょうど「田子の浦」を通り過ぎる所だった。田子の浦ヘドロ公害は社会の教科書に載っているぐらい有名だったから、これがそうかと思った。
現在の田子の浦からは想像もつかないけど、当時は眠っている人間が起きるぐらいの悪臭だったって事だ。

その後もウトウトとした時間が過ぎ、気がつくと静岡で浜名湖でという具合に寝たり起きたりを繰り返しながら、明け方に名古屋市へ入ってきた。
「町全体が茶色っぽいなぁ」と思ったのと、並走する名鉄の「見た事のない車両」に異国を感じたものだ。ようやく「京都・奈良」が見えてきたなぁと思った。
この十数年後に京都や名古屋に住む事など想像もしていなかった14歳の私だった。

名古屋で大勢の人が降り、車内にはのんびりとした空気が流れるようになった。
夜明けの尾張平野を列車は進む、田園風景が次第に明るんでゆく。それがとても美しかった。

列車はあっさりと大垣に到着した。田園風景が広がる殺風景な駅だった。
乗り換えの時間はそんなになくて、速足で重い荷物を抱えながら階段を昇り降りさせられた。
連絡の列車(西明石行き?)は今までと変わり映えのない車両だった。最初の目的地は彦根だから、1時間ほど乗る事になる。

関ヶ原古戦場近くを通る時に撮影した写真が、車内から撮影した唯一の写真となった。

車内から撮影した関ヶ原古戦場

その後、「大垣夜行」は4~5回利用したと思う。
高校2年生の時に再び京都・奈良へ。この時は友人にすべての荷物を持たせてホームで待たせておいて、身軽になった自分だけ突入して席を確保するという作戦に成功した。
大学では「古都研究会」に入り、何度かこの電車にお世話になった。

すぐに旅の形も変わっていった。新幹線や夜行バスで京都へ行くようになり、今では車で行くのが当たり前となっている。
休憩や渋滞をはさみながら8時間はかかった京都への道も、今では6時間もあればおつりがくる。

1月22日、JRは「ムーンライトながら」の運行を終了すると発表した。「大垣夜行」の後継として全席指定席で運行していた夜行列車だ。
近年は運行本数も激減し、臨時列車として走っていたようだ。「利用者の行動様式の変化によって列車の使命が薄れてきたこと、使用している車両の老朽化」がその理由らしい。
長い「大垣夜行」の歴史も終わる事になった。

3時間並ぶ「根性」、座席確保という名の「生存競争」、直角座席に6時間座り続ける「忍耐」。
大垣夜行は、楽しいはずの旅がいきなり人生の縮図から始めさせられるという稀有な列車だった。