おおいまち

2007/10/9 火曜日

「すみません、道をお尋ねしますが」
昨日、自宅から車を出そうとしたとき、そう呼び止められた。
みると家の前の路上に70代ぐらいのおばあさんが立っている。
下は薄いグレーのトレーナー、上は濃い赤のポロシャツ、なぜかたくさんのビニール傘を抱えている。よく見ると入れ歯が入っていないようだ。

そのおばあさんは僕にこう尋ねた。
「"おおいまち"の野球の練習場に傘を届けにゆきたいのですが、どうも場所がわからなくて」
僕の頭に「?」が浮かんだ。
“おおいまち"という地名は、僕が住んでいる町にも近所にもない。

家のすぐそばの公園には野球グラウンドがあるので、そこを指差して、
「あそこなら野球練習場がありますけど、違いますか?」と尋ねると、
「いえ、あそこじゃないです。"おおいまち"の練習場です」とおばあさんは答えた。
どうも話がかみあわない。

そこで「ココは●●(地名)ですが、"おおいまち"という地名は聞いたことがないですよ」と答えた。
するとおばあさんは
「わかりました、ありがとうございました」と言ってお辞儀すると、スタスタ歩きはじめた。

僕は車を出発させながら、頭の中で色々考えたが、どうも合点がゆかない。
「おおいまち、おおいまち...何かの聞き間違いかな?」
嫌な予感がした。車を引き返す。僕の自宅から150mほど先をおばあさんは歩いていた。車から降りると、おばあさんに尋ねてみた。

「"おおいまち"って、東京の大井町ですか?」
「いえ違います」
「どんな字を書きます?」
「"大きい"と"井戸"の井です」
やはり合点がいかない。でもこのおばあさんに何かが起きていることだけは確かだ。そこで会話を続けてみた。

「おばあさんの家はどちらですか?」
するとおばあさんは「警察署の裏です」
「警察署って....?」
「もとみや警察署ですよ」
「もとみや警察署?」
「ほら、駅を降りて、そのまま商店街を抜けてゆくと、十字路があって、警察署があるでしょ」

この時、僕が思ったのは静岡県。「大井川」があるわけだから、大井町があっても不思議はないと思った。「もとみや」という地名も、富士山の周辺のどっかにあったような気がした。

そこで
「おばあさんのお宅は、静岡県ですか?」と尋ねると、
「違います」と笑いながら答えられた。
「家から富士山は見えますか?」と尋ねると、
「いえいえ、そんなの見えませんよ」。
どうも違う。

そうしたら、おばあさんは苛立たしそうに続けた。
「もとみや駅を降りたら、表の方へまっすぐ行くんですよ。ホラ、裏は阿武隈川のある方でしょ」

阿武隈川ならばたぶん福島県だ。

これで、この方が認知症かなにかに間違いないことはわかった。そこで続ける。
「あのね、おばあさん。それはたぶん福島県だと思うんですよ」
「そうですよ、私の住所は福島県●●郡"もとみや町"●●です。警察署の裏の●●運送店です」
住所がスラスラ出てくるのに驚いた。この方は、何か記憶がゴチャゴチャになっているけど、言っていること自体はとてもしっかりしているのだ。そして続けた。
「今日は子供達が"おおいまち"の野球場に運動しに行ってて、雨が降っているから傘を届けにゆくんですよ」

そこで僕は言った。
「おばあさん。実はですね。ここは神奈川県横浜市●●区●●なんですよ」
そうしたらおばあさんは驚いた顔をして、一瞬絶句した。
「あら....私としたことが.....どうも頭の中がメチャメチャで.....」

そこで落ち着いたころあいを見て、ゆっくり尋ねてみた。
「ここが●●だということはわかりましたか?」
「わかります」
「もしかしてここに住んでいませんか?」
「住んでいます。20年ほど」
「ご自宅の場所はわかりますか?」
「それが全然わかりません」
「もしそうだとするならば、おまわりさんを呼んでもいいですか?おまわりさんなら、きっと探してくれると思いますよ」
「すみませんね。お願いします」
というわけで電話する。

間違えて119番にかけてしまう。
僕も動転している。何しろこんな経験は始めてだ。
あわてて110番にかけなおす。

おばあさんもお疲れのようなので、警察が来るまでの間、僕の車の中で休んでもらうことにする。
車の中では、僕の娘たちと和やかにお話をしていた。こういう時は子供がお相手をした方がいいようだ。自宅の運送店は大きいということ。家には6人の子供がいること、家には常に10人ぐらいの人が泊まりにくるということ。すべては現在進行形で語られているけど、実はそうではないのだろう。とにかくそんな話をしていた。

やがて、パトカーが来た。事情を説明しているときに気付いたことがある。我々のいた場所の前の家の奥さんというのは、近所でも有名な「ウルサイ人」だ。ホラ町内会で仕切る人っているじゃないですか。その人が、ずっと家の窓からコソコソ覗いて見ていたのに気付いたのだ。意味もなく腹が立った。

そして、おばあさんは保護されていった。

「人間は年を取ると、記憶が子供の頃に戻ってしまうんだよね」
車を運転しながら娘に言ったのはこれだけだった。
何かもっと言いたいことが色々あったけど、何から言っていいんだか自分でもまとまりがつかなかった。

そのおばあさん、夜になって警察に尋ねたら、娘さんが引き取りにきたとのことだった。
とりあえず安心。

なお、「もとみや」の場所はわかったけど、「おおいまち」の場所はいまだにわからない。