ヒロシマ -被爆建物(1)- 旧燃料会館(現平和公園レストハウス)

【旧燃料会館(大正呉服店) 現広島平和公園レストハウス
●住所:広島市中区中島町1番1号
●爆心地からの距離 170m
●建造:昭和4(1929)年3月


今から14年前の1995年8月、僕は彼女(現カミさん)を連れて広島へ旅行に行ったことがある。仕事を終えてから京都から徹夜で山陽自動車道を走り、2泊3日で広島市内と三段峡と津和野をまわって帰るという今から考えるととんでもないハードな旅行だった。

原爆資料館を見学し、平和記念公園の中をぶらぶら歩いているうちに、公園の隅に明らかに戦前のもの...つまり被爆前のものとわかる建物がきれいな形で現存しているのを見て驚いた。


広島 燃料会館(レストハウス 1995年撮影)
(燃料会館 1995年撮影)

近くに建物の由来を記した解説板があった。そにはこの建物がかつて「大正呉服店」の店舗として使われていたこと、戦時中は広島県燃料配給統制組合の燃料会館として使われている中で被爆したこと、修理されたのち、現在は公園のレストハウスとして使われていることなどが記されていた。原爆ドーム(広島県産業奨励館)がほぼ煉瓦造であったのに対して、鉄筋コンクリートで造られたこの建物は、多大な損傷を受けながらも生き延びたのだ。
大正呉服店
(大正屋呉服店時代 現状とは異なりファサードのてっぺんに小屋根がある)

この建物に気づく直前、原爆資料館でこの平和公園がかつて住宅や店舗の密集する商業地域であったことを知った(このことは4年前に「一枚の銅板」という記事にしている)。その街の痕跡がこのように残っていること、何よりも広島市内で被爆して現存している建物など原爆ドームぐらいだと思っていたから、この建物の存在には大変驚いた。
被爆直後の燃料会館
(佐々木雄一郎氏撮影 被爆直後の燃料会館。ファサード前の路上に崩落した小屋根のガレキがある。内部は燃え尽きている)

この時の「驚き」みたいなものを、ずっと頭の中にしまったまま14年がたった。長女が「広島へ行ってみたい」と言ったのを機会に、2009年11月1日から3日間、2人で広島へ行ってきた。
昭和20(1945)年8月6日、原爆によって被害を蒙ったいわゆる「被爆建物」、そしてその痕跡が今なお市内にはいくつか現存する。そうした場所をいろいろ歩いてみようというのが、今回の旅のひとつのテーマだった。

14年ぶりに旧燃料会館を訪れる。
広島 燃料会館(レストハウス 2009年撮影)
旧燃料会館 レストハウス
「レストハウス」というぐらいだから、建物の一部が売店、観光案内所、休憩所になっている。

この建物には地下室がある。旧燃料会館時代から倉庫として使われていたもので、比較的当時の雰囲気が残されているという。見学には事前予約が必要なのだが、たまたま担当の方がいたので、お願いしたら見学させて頂くことができた。

入口でヘルメットを被らされ、娘とともに地下室への階段を下りてゆく。
旧燃料会館地下室への階段
薄暗い暗闇の中、木製の手すりを伝ってゆく。機械油の臭い、地下室特有の湿気のにおい、そして当時のにおいがプンプンする。
旧燃料会館地下室への階段手すり
木製の手すりはとても頑丈に作られているし、この擬宝珠のデザインなどムダに凝っている。とても戦後のシロモノとは思えない。「まさか」とは思ったが、この手すりは昭和4年の建造当時のままではないだろうか。

地下室に入る。
旧燃料会館地下室
薄暗い電灯に浮かび上がった地下室は3部屋ほどに仕切られている。排水路を水がチョロチョロ流れている。ネズミでも出てきそうだ。
旧燃料会館 地下室の奥
コンクリート壁や天井の剥落が著しく、ヘルメットを被った意味がよくわかった。古ぼけた井戸用の汲み上げポンプ(あるいは排水用ポンプ)もあった。
旧燃料会館地下室から階段を撮影
実は「あの時」、この地下室にいて助かった人がいる。広島県燃料配給統制組合の野村英三氏(当時47才)だ。
あの日、朝礼を終えた氏はさあ仕事だと机に向かうと、その日に限って課長が持ってくるはずの書類がない。課長が地下室から取ってくるのを忘れていたのだ。そこで女性の事務員に頼もうとしたら、何やら忙しそうだ。氏は自ら書類を取りにこの地下室に降りていったのだった。それが運命を分けた。

被爆時の燃料会館
(松本栄一氏撮影、被爆直後の燃料会館)


地下室は建物の三分の一の広さで、10坪余りの狭いもので、いつも電灯がついている。書類が見当たらないので、あちらこちらを探して階段下の金庫のところへ来た。その時だった。ドーンというかなり大きな音がきこえた。とたんにパッと電灯が消え、真暗になった。同時に頭に二三ケ所、硬い小石のようなものが当たった。
痛い!と、手を頭にやってみたら、ねっとりしたものが流れている。血だ!なんだろう、何事か起こったのだ。しばらくしてわからないまま頭のほかにどこか傷をしてはいないかと上半身、両腕、両足その他を調べてみたが、別に異状はないらしい。室内は真っ暗がりで何もみえぬ。
自分は階段の直ぐ下に立っていた。上がろうかと思って足を階段にかけた。そして、2、3歩上がりかけたが、どうも変な具合だ。階段の状態がない。板切れや、瓦や、砂や、ごちゃごちゃに混ざった坂になっている感じだ。柔らかな俵のようなものが足の下にある。おかしい。両手でそっとさわってみた。半分位砂の中に埋もれている。あっ人間だ!抱え起して、声をかけたりいろいろしてみたが、がっくりしていて、もはやこと切れているようだ。とたんにからだがふるえてきたようだ。
奥のほうから闇をついて、助けてくれーと男の声だ。その声が続いて聞こえてくる。そして直ぐ泣き声に変わった。オオーン。オオーンと。自分は急いで登りつめたとたんに、頭をゴツンと打った。手でさわってみるとコンクリートの壁らしい。両手で押してみたが、ビクともしない。出られない!
あっ、しまった、直撃弾だ!この建物に当たったんだ。地上の建物が崩壊して、この地下室だけがわずかに残ったんだと、感じると、たまらない気持ちとなった。出られねばここでこのまま埋もれてしまうのか。そのときゴーという水の音が聞こえてきた。この地下室には8インチ位の水道管が元安橋の裏側を通って入ってきている。そうだ、水道管の破裂だ!どうしよう、死は時間の問題だ。ああ駄目か、と思ったら四人の子供達の顔がすうっと目の前を走馬灯のように通り過ぎた。それから後は分らない。どこをどうして出たのか、気がついたときは1階に立っていた。
「爆心に生き残る(野村英三)」より抜粋

氏は昭和57(1982)年に84才で亡くなられたが、あの日燃料会館で働いていた37名のうち、唯一の生存者となった。また爆心地から最も至近距離で助かった人となった。

階段を上がると、そこには2009年の広島の風景があった。
なんだか時空を超えて現在に戻ったような心持ちがした。

広島市は1994年にこの建物を地下室を残して解体する方針を打ち出したが、現時点ではそれを撤回したという話は聞いていない。

参考サイトなど
ウィキペディア「レストハウス(広島市)」
原爆資料館バーチャルミュージアム(脱出後の野村さんの体験談と絵があります)。
ARCHITECTURAL MAP 広島市レストハウス

参考書籍
「広島原爆戦災誌 第二巻」(広島市)
「ヒロシマをさがそう 原爆を見た建物」(西田書店)
「ヒロシマはどう記録されたか」(NHK出版)
「きみはヒロシマを見たか」(日本放送出版協会)
「ヒロシマ爆心地 生と死の40年」(日本放送出版協会)
ほか