桜の国の法事

またもや日曜日の法事の話。
あの世へ行っちゃった人は知らないけれど、現世にいる者は食べ続けてゆかなければならない。
杉並のお寺で読経の心地よいグルーヴに身を任せた後は、中野で食事会となった。

ちょうど中野は桜が満開だった。

【お経と腹式呼吸】
いつもお世話になっている住職さん。
親子2代で読経をして下さるのだけど、わずかなブレスで息切れもおこさずに立派なお経をあげるのに感心していた。食事会の席上で「そういう訓練をしているのですか?」と尋ねると、そのものズバリ「若い頃から修行で腹式呼吸をやらされるんですよ」と返答が来た。「1日10分でいいから、そういう修行をしろ」と言われて「瞬間的にお腹に息をためる訓練」を行うのだという。読経を行っているときに肩が揺れると(つまり胸式呼吸をしていると)、「肩が揺れているぞ」と注意されるのだという。
「特に私どもには声明(お経にメロディーをつけて歌うもの)というのがありますから。そこのところは力を入れてやりますね。でも私自身は歌の方はどうもね~。声は出るんですが音痴なんですよ」とテレていた。

【ひ孫だらけ】
祖母のひ孫は全員で11人。この日は僕の13歳の長女を筆頭にして9人のひ孫が集合した。この子たちが食事会の席上でおとなしくしているわけがない。たちまち徒党を組んで行動を始めた。それにしても子供9人のパワーというのは物凄いものがある。

この子は僕の姪で昨年の2月27日生まれ。祖母の死のわずか2ヶ月前のことだった。
親戚の員数というのはどこか帳尻をあわせているところがある、と感じる。誰かが生まれると、誰かが亡くなるようになっている。誰かが亡くなれば、誰かが生まれる。
でもたまに、そういう数字を超越しちゃっている人がいる。祖母のお姉さんは明治39年生まれの104歳だが、相変わらずお元気だ。

【桜の国】
あまりにも桜が美しかったので、哲学堂公園の方まで花見にゆく。

JR中野駅前から、哲学堂公園までの1.5kmは延々と桜並木が続いていた。
そうか中野の桜って、こんなに凄かったんだ。


途中にある陸橋の「片山橋」。
こうの史代のマンガ「夕凪の街 桜の国」の中で、満開の桜の中の風景として効果的に使われている。「桜の国」というのは、この通りの風景がモチーフになっていたのだと思った。
この風景に出会わせてくれたのは、祖母の絶妙な演出だったと思う。

野方配水塔と桜の風景。哲学堂公園前の交差点より撮影。
これより近づくと配水塔は建物の谷間に見えなくなってしまうため、これがギリギリのアングルだった。

寺山修司はかつて「書を捨てよ町へ出よう」と説いた。今でいえばさしずめ「ネットを切れ町へ出よう」だろう。ネットなど「外界への扉」でも何でもない。そこに氾濫する情報から妄想で頭を膨らませるよりも、町には見るべきものがたくさんある、ということだ。今、町へ出て見上げればそこには桜がある。明日には新緑がある。

一瞬の命でありながら、この圧倒的な桜は多くのことを語りかけてくれる。

コメント

  1. より:

    自分にとってネットは重要なツールです。
    必要な情報を瞬時に検索してくれます。
    ネットがあれば、色々な世界の希少なものを見ることが出来ます。

    でも、そこにある一本の桜に触れる喜び、感動には敵いません。
    知ることと体感することは、全く別物なんですね。

  2. spiduction66 より:

    >喉くん
    まあ僕も「Google先生」と言うぐらいだし、最初にブロードバンドになった時は「家に図書館ができた」と感動したもんだよ。でも言うとおりで一本の桜にはかなわないんだよね。
    これに関しては最も分かりやすい比喩を持っているんだけど、ここでは書けないのでまたいずれ。

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