祖父が遭遇した『湯の花トンネル列車銃撃事件』

(毎日暑いですね。さて、今日は8月5日。63年目の「この日」に公開したかった記事を1年がかりで書いてみました。このblog史上最長の記事です。まあ歴史好きな人はぜひどうぞ。それじゃいってみます。)

僕の祖父はその名前を「小野寺五一(ごいち)」といった。
この人は昭和59(1979)年に80歳で亡くなってしまったけど、今でも親戚一同親しみをこめて「ごいっつぁん」と呼んでいる。

昨年の5月に祖母が亡くなったとき、遺品として「ごいっつぁん」の日記が僕の手に預けられた。

「ごいっつぁん」日記

昭和17年からはじまる日記は全部で32冊。
この中の昭和19(1944)年の日記が、ことのはじまりだった。

それは昭和19年9月30日(土)のこと。
仕事を終えた祖父は午後11時35分新宿発の中央本線に飛び乗った。
行き先は山梨県の長坂村(現在の北杜市長坂町)。学童疎開している次男(僕の叔父=仮にS叔父としておく)の様子を見るのが目的だった。S叔父はこの地に9月3日に疎開したばかりだった。

「ようやくかけられたるも、非常な混雑なり」というから、車内はギュウギュウだったようだ。当時は軍事輸送が最優先の時代だったから、旅客列車は夜行でも相当混雑していたようだ。「車中、翼壮(筆者注:大日本翼賛壮年団)の目黒支部長の本庄と云う人に会う」とある。目黒の本庄さんは車中で祖父の話相手となってくれたのだろう。午前6時過ぎに長坂に到着した祖父は、さっそくわが子が疎開している旅館へと向かった。

北杜市郷土資料館にある長坂駅のジオラマ

戸が閉まって居り、裏へ廻る。子供が起きた様なり。早くSに会いたいが、別な部屋にて先生を待つ。やがて生徒は神社参拝に行った様子なれば、自分も町に出てハミガキを買い、顔を洗う。

祖父の日記(昭和19年9月30日)

ところが、先生は来ない。
宿の女将が言うには「先生は(祖父が)許可を得て来たかどうかと心配している」とのことだった。当時は疎開先の我が子に面会するにも、しかるべき手続きが必要だったらしい。どうも祖父はその許可を得ずに長坂まで来てしまったようだ。

祖父のこの行動を理解するのはたやすい。わずか2日前の9月28日の日記に、こんな記述があった。

午前10時より大日本教育会の学童疎開の調査報告あり。色々と問題があり、Sのことも気にかかる。

祖父の日記(昭和19年9月28日)

当時、貴族院書記局の書記官(今の参議院事務局職員)だった祖父は、仕事がら戦争の厳しい実情に触れる機会が多かった。そしてこの日、わが子のことを心配した祖父が衝動的に新宿から汽車に乗ったことは明らかだった。

結局、面会の許可はおりたのだけど、それには条件があった。祖父は子供たちの前で訓示を垂れる羽目になったのだ。

一同(子供たち)の部屋に行く。後ろの壁のところでSが得意そうにニッコリニッコリ笑っている。この戦争の容易ならんことを話し、皆もしっかりやる様にと話する。

祖父の日記(昭和19年9月30日)

そして、祖父はわが子と25日ぶりに再会した。その後、祖父は子供たちに伴って山へ栗拾いに行く。「長坂は高原地帯のため、中々景色よし」。

夕刻、祖父は東京行きの汽車へと乗った。

列車が駅を出発すると、駅近くの小高い丘の上で、わが子がニコニコ笑いながら手を振っているのが見えた。

可愛い奴だ。安心して帰る。甲府からようやく座席をとる。

祖父の日記
北杜市郷土資料館にある長坂駅のジオラマより。長坂駅は当時スイッチバックになっていた。駅(右方向にある)を出発した列車は、いったん奥の線路で松本方面(左方向)へと向かい、画像にある分岐でスイッチバックをし、手前の線路で東京方面(右方向)に向かっていたようである。つまりこの付近ならじっくりと別れを告げる事ができる。土地慣れしていた叔父が手を振っていた「丘」はこの付近なんだと思った。

そんな一文でこの日の日記は終わっていた。

昭和19年の日記で、祖父が疎開先の叔父を訪れたのはこの一回だけだった。
この日記には祖父の父親としての情愛に満ちており、とても印象に残るものだった。

残念なことに祖父の日記には昭和20年の分が欠落している。長い時間の中で散逸してしまったのか、物資不足から書けなかったのかはわからない(上の画像にあるとおり、昭和21年~24年頃の日記は普通紙を紐とじして利用している)。空襲が激化し、明日の命すら保障できなかった昭和20年、祖父がどのような想いでわが子を見守っていたのかを伺い知ることはもはや不可能だった。
昭和18年頃の「ごいっつぁん」
(昭和18年頃の「ごいっつぁん」。国民服を着ている。もっと若い頃の「ごいっつぁん」はこちら

さて、時代は現代に戻る。
昨年7月、亡くなった祖母の納骨式の後、親戚一同で食事をした事があった。
この際、僕は当のS叔父に、64年前のこの出来事について尋ねてみた。

僕が「おじいさんは長坂に何度か来たんですか?」と尋ねると。
S叔父は「昭和20年になると何度も来たよ」と答えた。
しかし、その次に出てきた叔父の言葉は唐突で意外なものだった。

「一度なんか、血まみれの背広で来たことがあったな.....」

叔父の話は続いた。
「戦争が終わるちょっと前、7月の終わりごろじゃなかったかな。中央本線の「高尾(当時は「浅川」)」と相模湖(同じく「与瀬」)の間でね、おじいさんの乗ってた列車が戦闘機の機銃掃射を受けたんだ。あの辺はトンネルが多いだろ。トンネルに入ると狙えないから、その前を狙ったんだろうね」。

叔父は右手の人差し指で眼鏡の右側のツルと、左腕の腕時計を交互に指差しながら、
「おじいさんは『(銃弾で)眼鏡と時計が吹っ飛んだよ』って言ってたな」。

さらに叔父の話は続く。
「前にいた子供がやられてね。それで返り血を浴びたんだと言っていた。よく時代劇のドラマでスッパスッパと侍が人を斬るシーンがあるけど、あれはウソだね。人を斬ったら返り血を浴びるから、自分も血まみれになるはずだよ」

その証言は場所、時期、状況に至るまで具体的だった。

僕は帰宅してからgoogle先生に「機銃掃射 高尾 相模湖」でお伺いを立ててみた。

それによって導き出された結果を見て驚いた。

祖父が遭遇したのは、太平洋戦争史上最悪の列車銃撃事件だったからだ。

湯の花(いのはな)トンネル列車銃撃事件」について知ったのは、この時がはじめてだった。
昭和20年8月5日、中央本線を走行中の419列車が高尾駅(当時浅川駅)と相模湖駅(当時与瀬駅)の間で2~3機の米軍P51戦闘機に銃撃された。死傷者は52名とも65名とも言われており、負傷者は130名以上といわれている。

もっとも、「最悪の列車銃撃事件」なんていう客観的な尺度は当時の祖父にはなかった。報道管制が敷かれていた戦時中はもちろん、こういった事件が戦争のひき起こした悲劇として回顧されるのはずっと後の時代になってからのことだ。

この事件について初めて聞き取り調査を行った「八王子の空襲を記録する会」が発足したのが昭和54(1979)年、つまり祖父が亡くなった年だった。さらに「八王子の空襲と戦災の記録(八王子市教育委員会編纂 1985年) 」の編集員でもあった齋藤勉氏による「中央本線四一九列車(のんぶる舎)」が出版されたのは、平成4(1992)年のことだ(同著はこの記事を書くうえで、どれだけ参考になったかわからない)。

祖父は一体どんな体験をしたのだろう?
生前の祖父はこの事件に関してはあまりにも多くのことを語らなかった。僕の母は事件当時、祖母とともに仙台へ疎開していたのだけど、「列車に乗っていて戦闘機に襲われた。大勢の人が死んだ」それ以上のことは何ひとつ聞かされていなかった。

「この人といると腹の皮が痛くなる」と言われるほど冗談好きで饒舌だった祖父、孫の僕が遊びにゆくとニコニコしながら散歩に連れていってくれた祖父、阿佐ヶ谷の「うさぎや」でどら焼きを買ってくれた祖父、地下鉄の車内にもかかわらず突然詩吟を詠いだす祖父、旅行先に博文館の当用日記を持参し、縁側のソファーで黙々とその日の出来事を記録していた祖父、高校で土井晩翠から東北訛りの英語を習ったことを面白おかしく話してくれた祖父....彼が生涯を通してこの事件について沈黙し続けたことは、むしろ意外なぐらいだ。

「それはね、あまりにもひどい出来事だったからだよ。おじいさんは思い出したくもなかったし、話せなかったんじゃないかな。たとえ日記があったとしても、おじいさんは書かなかったと思うよ」
そう語ったのは長男のH叔父だ。当時すでに中学生だった叔父は学童疎開を免れ、祖父とたった二人で東京九品仏の自宅を守っていた人だ。そして事件直後に祖父が語ってくれたことを、中学生の頭で理解し、しっかりと記憶していた。

H叔父の話は続く。
「おじいさんはSの所へはよく行っていたなぁ。ホラ、当時の学童疎開ってヤツは、芋だらけのご飯とかすいとんとか、とんでもないものを食べさせられたからね。おじいさんはSに美味しいモノを食べさせたかったんだろうね」。

(空襲後の新宿。左手の大きな建物は新宿伊勢丹)

それは昭和20年8月5日(日)のことだった。
朝、世田谷区九品仏の自宅を出た祖父は、自由ヶ丘から東京急行電鉄に乗った。渋谷をへて新宿へ。
祖父のリュックサックの中には、一斤のパンと瓶に詰めたジャムが入っていた。
「パンとジャムをね、貴族院の食堂で用意してもらったんだ。とにかく甘いものなんか食べられない時代だったからね、Sが喜ぶだろうと思ったんだろうね」と叔父は語る。

いつもの祖父ならば、土曜に仕事を終えた後、その足で夜行列車に乗って長坂へと向かったはずだ。つまり前日8月4日(土)の夜行列車を利用したはずだ。しかしその切符は取れるはずもなかった。8月2日、約67万発の焼夷弾によって八王子が壊滅したため、中央本線はこの日まで不通だったからだ。

そして今から祖父が乗ろうとしている中央本線419列車こそが3日ぶりの運転再開列車だった。
419列車は電気機関車ED16の7号機(ED167)と8両の客車からなる全9両編成だった。

すでに5月25日の空襲によって、新宿駅は全焼していた。
「西口のコンコースは全焼、ホームは屋根がなくなり鉄骨のみ、ホームに立つと青空がおがめた」と「中央本線四一九列車」には、そう書かれている。

時刻表どおりならば、10時10分に新宿を出発し、長坂には15時2分到着予定。
当時の祖父は仙台から日曜日の夜行で帰宅して、朝いちで行水をした後に出勤なんていうことを平気でやっている。
この日も長坂に夜までいて、夜行で帰宅する算段だったのだろう。

(419列車を牽引したED167E)

乗客は優先的に乗車できる軍人が多かったが、もちろん一般客も乗り込んでいた。その大半は長野、山梨方面の実家や疎開先に向かおうという人たちで、東京から疎開先の家族に物資を届けるために乗車したものだった。そして祖父もまたそのひとりだった。

列車は車両によって混雑度がまちまちだったようだが、とにかく祖父は座席に座ることができた。それはおそらく7両目の客車で、進行方向に対して背中を向ける座席だったと思う。そしておむかいには赤ちゃんを背負った母親が座った。

あの祖父のことだ。きっとおかしな顔をして赤ちゃんをあやしていたのだろう。子供が大好きで他人の子供でも頭を撫でたり笑わせようとする、そんな癖が祖父にあったのを僕はよく覚えている。何よりも祖父には昭和18年に生まれ、いまは仙台に疎開している三男(K叔父)がいた。そんな話を、お向かいの母親と旅のつれづれにしていたことは、想像に難くない。

(八王子郷土資料館に現存するED167のプレート。昭和56(1981)年2月12日に、同機が国鉄大宮工場で解体された際、八王子市が譲り受けた)

(現役時代の同機を撮影した画像が、トム平さん運営の「追憶の電機~青梅路のED16」サイトの「1945年8月5日の7号機銃撃空襲について」で公開されている)

419列車は定刻を20分ほど遅れて10時30分ごろ新宿を出発した。
列車が八王子に到着した頃、空襲警戒警報が発令された。伊豆諸島にそって北上する80機のP51編隊が確認されたからだ。そして11時30分すぎ浅川駅(現高尾駅)に到着した時、それは空襲警報へと変わっていた。

すでにこの駅は7月8日の空襲で銃撃を受けており、その弾痕が今でもこのように残っている。

高尾駅 弾痕
(高尾駅ホームにある3つの弾痕。機銃はこのような鋳鉄も貫いてしまう)

同時刻、相模湾沖から上陸した30機のP51の編隊は、神奈川県の小田原駅、二宮駅、国府津駅などに銃撃を加えた。このさい二宮駅で銃撃を受けて亡くなったのが、小説「ガラスのうさぎ」の作者である高木敏子さんの父親である(現在二宮駅前にはガラスのうさぎ像が建っている)。

「立川が近かったから、あそこの飛行場を襲いにきたんじゃないかな。陸軍の飛行場があったからね。きっと残った銃弾を使い切ってしまうために、おじいさんの列車を襲ったんだろうよ」と語ったのはH叔父だ。

(現場周辺地図・青のルートは小仏峠越えルート)

実際には編隊の一部(2機、あるいは3機という説もある)が立川で国鉄の架線を断線させた以外、この日の立川には特に大きな被害はなかった。むしろ419列車が発車した直後の11時58分ごろ八王子駅が銃撃され、ここで1名が死亡、20数名が負傷している。

この編隊が、数分後に419列車に襲いかかることになる。

さて、空襲警報のため停車を続けていた419列車は、午前0時15分ごろ、浅川駅を発車した。発車した理由を「中央本線四一九列車」では次のように書いている。

湯の花トンネルまでは約四分、小仏トンネルまでは約六分で入ることができたから、駅に停車しているよりは、多少危険を侵してでトンネルに向かった方が安全と考えたのではないだろうか

「湯の花」と書いて「いのはな」と読む。進行方向右手は八王子城址のある城山、左手には高尾山が聳えている。昨年の6月23日、圏央道が延伸して八王子ジャンクションで中央自動車道と接続したが、まさにその直下となる。

さて、この列車に筑摩書房の創業者古田晁が義弟の宇治正美(医師、随筆家)とともに乗っていた。古田は渋川驍「柴笛」の原稿を伊那の印刷所へ届けるため、いっぽう宇治は伊那へ疎開中の千葉医大へ用件があった。

二人はたまたま座席を確保できたため、そこに座っていた。古田は膝の上に原稿を広げて「柴笛」を読んでいた。座席の横には「文房具屋さんのようなまじめそうなおじさん(宇治)」が席にも座れず、古田のの椅子の肘掛に腰を寄せながら立っていた。

浅川駅を出でまもなくのことだ。車内でちょっとした口論があった。「まだ空襲警報中だ。列車の窓を閉めないと、敵に発見されるぞ」「いや、暑くてかなわない」といった内容だったようだ。そのおじさんが「窓のことぐらいで、いがみあわなくたってもいいのに。敵が来るっていうのに、内輪もめなんかしなきゃいいのにねぇ」独り言をつぶやいたのを、宇治は覚えている。山間を走る列車の乗客にとっては、空襲に対する危機感も薄れ、むしろ清涼な空気を客車内にとりこみたいという気分の方が上だったのだろう。まもなく列車は湯の花トンネルに入ろうとしていた。

(惨劇の現場)

八王子を銃撃したばかりのP51の編隊が、419列車を見つけたのは、その直後のことだった。
高尾山付近を大きく旋回したP51は、急降下しながら機銃から火を吹いた。たちまち客車の天井に弾痕が伸びていった。

スローモーションのような光景が僕の頭には浮かぶ。
列車の前方(あるいは後方?)から次々と叫び声がこちらへとやってくる。
次の瞬間、12.7ミリの機銃弾が祖父の右側の窓のずっと上の方を突き破って進入してきた。それは祖父の眼鏡の右側のツルにかすり、眼鏡をはじき飛ばした。そして銃弾は祖父の眼前を斜めに横切ると、今度は左腕にしていた時計に当たった。祖父の時計は衝撃で跳ね飛ばされてしまった。

(「ごいっつぁん」をかすめた銃弾の軌跡図)

そして、別の銃弾が赤ちゃんの頭部を撃ち抜いた。赤ちゃんは頭部を失った。祖父の服に血が降りかかる。祖父はその瞬間床に伏せたに違いない。床はすでに大勢の犠牲者によって、血の海になりつつあり、祖父の服は真っ赤に染まったのだった。

(事件現場見取り図「中央本線四一九列車」より)

いっぽう筑摩書房の古田晁。
彼が「柴笛」の原稿を読んでいると、突然、原稿の上に、サァーッと血しぶきが飛び散った。
銃弾が「文房具屋さん」の頭を打ち抜いたのだった。
反射的に床に伏せた古田の上に、ワンテンポ遅れて向かいに座っていた宇治正美が覆いかぶさった。
宇治は自分の頭上で「文房具屋さん」が頭から血を吹き出しながら死んでいるのを感じていた。

そして、この時、悲劇をさらに増幅させる原因となった出来事が起こった。
電気機関車の機関士があわてて急ブレーキをかけてしまったのである。
先頭の電気機関車、1号車と2号車の半分だけが湯の花トンネルに入ったものの、後部6両半の車両は、全く無防備なままP51に銃撃にさらされることになってしまった。同時に銃撃によって架線も断線し、電気機関車ED167は全く動くことができなくなってしまった。
そこをP51はここぞとばかりに二度、三度と419列車に襲い掛かったのだった。

鋳鉄も貫くP51の12.7ミリ機銃弾に、客車の壁はもちろん、窓の扉など全く無防備だった。
車内は阿鼻叫喚の地獄図で、次から次へと銃弾の餌食となっていった。

弾丸がイワシが飛ぶ様に銀色の線を引いて、顔の横を「ふわっ」と瞬間熱くして飛ぶ。次ぎ次ぎに人が折り重なって倒れ、薩摩芋の大きなリュックを背負ったおばさんが私の上で死んだ(「中央本線四一九列車」より 萩原康子の証言)

銃撃が始まると、すぐ隣にすわっていた兵隊が立ち上がって網棚の荷物を取ろうとした。新井さんは反射的にその席に伏せた。兵隊は網棚に手が届いたところで内臓を撃たれ、網に指がかかったままくるっとまわって、伏せていた新井さんに血しぶきを浴びせたという(「八王子の空襲と戦災の記録」より 新井誠二の体験)

浅川駅で二歳位の子供を窓からたのまれて(筆者注:満席だったため、両親は別車両に乗った)、幡野すみ子さんがだっこし、私がいい子いい子とあやしていました。低飛行できた一機から操縦士の顔が見えます。突然光がこっちの方へ来たと思った瞬間、子供の指が三本根元からとんでしまい私がウワーと叫び声をあげたので、みんながあわてだし、ギュウギュウづめの車内は大騒ぎになりました。

「中央本線四一九列車」より 磯部澄枝の証言

牽引しているのが蒸気機関車のため、当事件の映像ではないけど、P51から撮影した列車銃撃のカラー映像がある。6分51秒ぐらいから。

祖父は床に伏せながら、一体どんなことを考えていたのだろう?
リュックのパンとジャムのこと、眼前の赤ちゃんのこと、長坂に疎開している次男(S叔父)のこと、仙台に疎開している妻と娘、そして1歳にもならない3男(僕の祖母と母、そしてもうひとりの叔父)のこと、九品仏で自分の帰りを待っている長男(H叔父)のこと.....いや、そんな余裕はなかったはずだ。「死にたくない」という生への執着の一念だったと思う。

P51はこの列車に向けてロケット弾も打ち込んだ。幸い弾ははずれたのだが、もし命中していたら、もっと悲惨なことになっていただろう。死傷者こそ少なかったものの一週間前に発生した大山口列車空襲事件では、ロケット弾が車両に命中したために大惨事となっている。

P51が飛び去った後、起き上がった祖父の目に入ったのは、呆然としている母親の姿だった。

「その母親が、ポカンとした顔で座っているんだって。死んだ赤ちゃんをおんぶしてね。仕方がないのでおじいさんは何度も話しかけそうだよ。正気に戻らせようと思ったんだろうね。やがて救護の人たちがやってきたので、引き渡したんじゃないかな」とH叔父は語った。

この母親と同一人物かどうかは不明だが、「中央本線四一九列車」には次のような記述がある。

やはり荷物を取りに車内に戻った名取安治は、軍刀を両足の間にたててささえにして座っていた兵隊が、肩から腰にかけて弾が貫通してそのままの姿で亡くなっている姿や、頭を吹き飛ばされた子供を背負った女性が車内を右往左往しているのを見ている。浅川町落合から現場にかけつけてきた青木武は、旧甲州街道から現場まで通じる道を登っていったところ、新井踏切から、頭のない子供を背負っている女性が下ってくるのと出会う。名取が車内で目撃した女性と同一人物だったのであろう。(P105)

名取は7両目に乗車していた。洗面所へ行った際に銃撃を受け、列車停止とともに車外に飛び出し、目の前にあった沢に飛び込んで身を隠した人だ。もし、この女性が同一人物ならば祖父も7両目に乗車していたのだろう。後部車両になると車内は満席ながらも混雑もそれほどではなかった。長坂に通いなれていた祖父が、比較的空いている後部車両を狙って乗車した可能性はある。

(名取ほか大勢の列車脱出組が身を潜めた沢。事件現場見取り図を参照のこと)

車内は酸鼻を極めていた。どの車両も死傷者だらけで、床は血の海と肉片で波打ち、ところどころに髪の毛らしきものが散乱していた。歩くと血がくるぶしまで上がってくる状態だっという。

生存者の多くは、駆けつけた地元住民、消防団、警防団らとともに、負傷者の救出、遺体の搬出を行った。
「おじいさんは、もともとああいう人だし、あれこれと手伝ったようだよ。"役人という立場もあった"って言ってたな」とH叔父。

(現場前の旧甲州街道。右手の郵便ポストのある付近のスペースに遺体が並べられ、そのまま通夜が行われたという)

祖父は、一段落がつくと.....これは当時の人間の気持ちになってみないとなかなか理解できないことだけど....そのまま長坂へと向かうことにした。これについては当時、岡山の親戚のところに疎開していた僕の父が語ってくれた。

「俺の親父も東京にいたけど、毎月にように岡山に来てくれたよ。あの頃は空襲だらけで仕事なんかあるようで、仕事にならなかったしね。それに(親父は)自分がいつ死ぬかわからないもんだから、これが子供との最後の別れという気持ちが強かったんだろうよ。それは俺も一緒でね、親父が東京に帰る時にはいつも駅まで見送りに行っていたけど"これでもう会えないんじゃないか"っていう気持ちはいつもあったよ。五一さんはそんな体験をした直後だし、そういう気持ちがあったからこそ、引き返さなかったんだよ」

助かった人たちの中には諦めて引き返す者もいたが、そのまま目的地へ行こうという人たちは、小仏峠を越えるか、線路伝いに小仏トンネルを越えるかして、次の与瀬駅(現在の相模湖駅)へと歩き出した。

(遺体確認の遺族控え室となった蛇滝茶屋が現存している...今日もここで供養が行われている)

祖父は峠越えコースを選んだ。旧甲州街道ぞいに小仏峠を越え与瀬駅(現相模湖駅)に至る山道は、所要4時間はかかる。
同じように筑摩書房の古田晁も宇治正美とともにこのルートを選んだ。

小仏の道は狭く、急だった。乗客たちは、ひたすらに道を急ぐ。先を争う習慣が、当時の日本中にあった。古田と僕は、皆におくれて、ゆっくりと峠を登る。夏の林の、独特の草いきれが心地よかった。(「大根とワンタンをめぐるメモ」宇治正美)


(小仏峠に至る道)

夕方には与瀬駅から折り返しの下り列車が出発しており、乗客の多くは、その列車で長野方面へと向かった。乗客の一人で先ほども登場した名取安治が諏訪の実家にたどり着いたのは夜11時ごろだったという。

祖父がその列車に乗れたのかどうかはわからない。

翌8月6日、長坂に疎開中のS叔父は、唐突に祖父と再会した。
「朝起きると(当時の疎開学童の起床時間は6時ぐらい)、宿舎の裏の井戸でぶつぶつ独り言を言いながら服を洗っている人がいた。よく見るとそれがおじいさんだった」。

井戸で血まみれとなった服を洗っている祖父、それを怪訝な顔で見つめる息子。そこには「生死の境を越えて再会した親子」なんていうドラマチックな感動はない。そこにあるのは死線を越えてきた父と、寝ぼけまなこでそれを見つめる息子という、何ともとぼけた姿だ。そして、二人の間には今は同じ時間が淡々と流れていた。

この親子の再会からおよそニ時間後、広島に原子爆弾が投下された。

その日の夜、祖父は東京九品仏の自宅に帰ってきた。

「あの時、おじいさんは血だらけの国民服で帰宅したなぁ」
「背広じゃなかったんですか?」
「いいや国民服だった。カーキ色の服が黒いしみだらけだったのを、今でも覚えているよ」。
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昨年の9月、僕ははじめて事件現場を訪れた。

(旧甲州街道の蛇滝口バス停前から、事件現場に至る入口にある看板)

ずっとこんなことを考えていた。
僕の両親は、祖父の縁があって結婚している。祖父があのとき1センチずれた場所に座っていたら、間違いなく僕という人間はこの世に存在していなかった。ということは、こんな平和な世の中で倉橋ヨエコにファンレターを送る娘たちもいなかった。
いっぽう、祖父の眼前で頭を吹き飛ばされた赤ちゃんはどうだったろう?生きていれば64~5才、孫の顔を見れてもおかしくはない年齢だ。座った場所、位置、姿勢、そんな偶然が人間の生死を分け、それに連なる全ての命の有無を分けてしまった。

僕は今まで2度も交通事故に遭っているけど、それでもこうやって生きている。3年前の事故ではあと1歩前にいたら、BMWの頑丈なボディに頭部を強打して即死していただろう。
そうやって考えてみると、「僕」という人間がいま存在していることは奇跡的な出来事としか思えない。いや、僕はたまたま具体的な形で明示されたからその実感が強いだけで、そもそも人間の誰もがこの世に存在していること自体が奇跡的なのだ。

そして戦争や犯罪は、おのれの存在の奇跡も他人の存在の奇跡も否定する行為なのである。

残暑が厳しい中、汗をかきながら事件慰霊碑へと向かう。
事件現場の線路脇、畑の中にその慰霊碑はあった。
昭和25(1950)年に建立されたものと、平成4年に建立された黒い御影石の2つ。

(慰霊碑)

そこには名前と年齢が明らかになった49名の名前が刻まれているが、判明していない者、事件後に亡くなった者を含めると、少なくとも65名は亡くなっているという。「いまだに事件の全容はつかめていない」と「中央本線四一九列車」を著した斉藤勉氏は述べている。

その慰霊碑には、祖父の眼前で短い一生を終えた赤ちゃんの名前はない。
あの母親がその後どうなったのかも、誰も知らない。

本日午後2時から、事件現場において63年目の慰霊祭が行われる。

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参考書籍
「中央本線四一九列車(齊藤勉)」
「筑摩書房の三十年(和田芳恵)」
「大根とワンタンをめぐるメモ(宇治正美)」
「八王子の空襲と戦災の記録(八王子市郷土資料館編)」
「事故の鉄道史(続)(佐々木富泰 /網谷りょういち)」

関連リンク
●中央大学多摩探検隊「湯の花トンネル列車銃撃空襲
(大学生が製作したドキュメンタリー番組)
●ウィキペディア「湯の花トンネル列車銃撃事件
●YOMIURI ONLINE「60年の記憶 湯の花トンネル列車銃撃
●「1945年8月5日の7号機銃撃空襲について
●東京写真紀行「湯ノ花トンネル
●相模原の歴史シリーズ「八王子大空襲と中央本線列車銃撃
●アクアマリン☆太郎の日記「湯の花(いのはな)トンネル列車銃撃事件
●塩尻市「古田晁記念館」血染めの原稿はここにある。閲覧できるのはレプリカだそうだ(赤いRVRさん情報による)
●ウィキペディア「大山口列車空襲事件

事件現場へのゆきかた

JR高尾駅の北口から小仏方面行きバス(1時間に1本程度)に乗り「蛇滝口」というバス停で降りて下さい。現場に大きな案内表示板があります。バス停から事件現場まで徒歩5分ぐらい。慰霊碑も現場近くにあります。バス停の時刻表はこちらです。