Home > 歴史の切れ端

歴史の切れ端

五色温泉と日本共産党第3回大会

3月末でも雪があって、人里離れた山中の温泉宿で、できれば一軒宿で、おまけに食事が美味しくて.....

そんな条件を並べながら「日本秘湯を守る会」サイトで絞り込んでいったら「五色温泉」というのにでくわした。
山形の温泉らしい。「宗川旅館」という一軒宿があって米沢牛ステーキが食べれるプランもある。雰囲気もなかなかよさそうだ。

それにしても「五色温泉」という名前には憶えがある、はてなんだったっけなと思いつつ宗川旅館のWEBサイトを見ていたら、こんな記述に出会った。

大正14年日本共産党第3回大会が非公式で開催される。当時、弾圧されていた日本共産党が組織再建のため、大会を開催しましたが、参加者は身分を隠すためばらばらに来館したため、当時の主人も1年後に警察からの事情を聴くまで全く分かりませんでした。

松本清張の「昭和史発掘」にそんな内容の話があったぞ、と本棚から引っ張り出したら、あったあった。
文庫本第2巻「三・一五共産党検挙」がそれだった。

この章は、昭和2年の8月半ば「特高の神様」こと毛利基が一本のタレコミ電話を受け取るところから始まる。
その電話は「最近東北地方の子供ができる温泉」で「重要会議が開かれた」とだけ告げて、切れた。
福島出身の毛利は、その温泉が山形の五色温泉であること、「重要会議」の意味するところが、日本共産党が党の再建運動を進めていることに関連すると直感した。
戦前の日本共産党は非合法組織だったが、徹底的な弾圧によって大正13年に解散したはずだった(第一次共産党)。

早速、毛利は山形県の五色温泉に飛び、宗川旅館での捜査を行う。その結果、大正15年12月に「会社の忘年会」という理由で集まった17名の団体客こそが日本共産党のメンバーに他ならず、その後の捜査でこの「五色温泉会議」こそが日本共産党の再度の創立総会(第二次共産党)であるという確証を得たのだった。

清張の記述は、この捜査に端を発した「三・一五事件」などの一連の共産党弾圧事件まで進んでゆくのだけど、僕にとってはこれが一泊目の宿が決まった瞬間だった。

東北自動車道の福島飯坂インターで降り、国道13号で米沢方面へと進む。

大きな地図で見る
この国道13号、バイパス並に整備された道で、又の名を「万世大路(ばんせいたいろ)」とも言う。
実はこの道、廃道マニアにとって「聖地」とでも言うべき場所。明治時代に作られた旧道を辿るルポだけでもウェブサイトがいくつあるかわからない。「万世大路研究会」まで存在する。
幸か不幸かバイパス以外の道はすべて雪の中に埋もれており、今回はその痕跡を辿ることは不可能だったので、この画像だけUPしておく。

(東栗子トンネル福島側口付近から、旧道の二ツ小屋隧道へ至る山道.....があるはずなのだけど、雪で完全に埋もれており、どこがどうなっているのかさっぱりわからない)

東栗子トンネルを抜けたら「万世大路」ともお別れだ。
県道に折れるとつづら折の坂道を下り、奥羽本線の駅のある板谷の集落を抜けると「五色温泉」を示す看板が見えてきた。


大きな地図で見る
さらに山腹を下って阿武隈川水系の川(河川名がわからない)を渡ると、今度は不忘山の中腹に向けて5キロの雪道(県道154号)を登ってゆく。

(五色温泉に続く県道154号)

灰色の空からはみぞれまじりの雪が降ってくる。ワイパーが鈍い音を立てながら雪を押し流す。
カミさんが「こんな先に旅館なんてあるの?」と不安気に尋ねてくる。

あるからこそ「彼ら」はこの旅館を選んだのだろう。

大正15年12月3日の午前6時ごろ、突然スーツ姿の二人の男がこの宗川旅館を訪れた。
たまたま宿の主人夫婦は休暇で不在だったので、女中の阿部トクがこの二人に応対している。
彼らは「自分たちは東京の会社のものだが、明日、会社の慰安旅行でこの宿に一泊したい。」と告げた。
明日、同僚が15、6名ここに宿泊するからよろしく頼む、というのである。

閑散期の団体客とあって、阿部トクも喜んだ。彼女は主人夫婦に代わって「二階の二間続きの離れ座敷」を提供することにした。その晩、スーツ姿の二名は宗川旅館に宿泊した。

翌4日の午前7時、十五名の男たちが降りしきる雪の中を宗川旅館に到着した。彼らは板谷駅から6キロの道のりを2時間かけて歩いてきたのだ。
代表だという男が宿帳に「日本蓄電池製作所社長 田村恒三 四十一歳 ほか十四名」と記入した。

(五色温泉 宗川旅館)

彼らが歩いた2時間の山道など、車なら15分もかからない。
カミさんが「はたしてこんな先に旅館などあるのか?」という不安を抱えいるのと同じように、僕は僕で「地震が来て雪崩でも起きたらヤバいな」と思いつつハンドルを握っていた。
が、あっさりと視界が開け五色温泉へを到着した。時計は午後3時のチェックイン時間ちょうどを指していた。

大きな地図で見る

(宗川旅館の玄関)
木造の建物は確かに古いことは古い。だけど、内装を見てもせいぜい築25年~35年と言う感じで、大正時代の建物が現存しているという雰囲気は感じられなかった。

何しろ午前4時に家を出て、ここまで走ってきたからクタクタだ。僕は温泉にどっぷり浸かった後に昼寝をしてしまい、夜になってから夕食だよとカミさんに起こされた。
食堂は1980年代のスキー宿の雰囲気がプンプンしていた。かつて五色温泉には日本初の民営スキー場があった。きっとここで、パステルカラーのスキーウェアを身にまとった女の子たちが、ユーミンをBGMに食事をしたんだろうな。そんな想像を巡らせながら美味しい米沢牛のステーキに舌鼓を打った。

さて、我々が通された部屋は、玄関から喫煙所の横をすりぬけ、5段ほどの階段を上り、長い廊下をまっすぐ進んだ突き当りにある8畳の部屋だった。
斜面に建てられているため、玄関から入っても、一番奥まで行くと2階となる。

まさかね....とは思った。
たしかに二階の奥まった8畳ではあるけど、清張が書いているような「二間続き」、すなわち8畳が二間ある部屋ではない。
随分新しく造作はされているけど、一方で欄間の古さが気にはなる。

(「まさかね」と思いながら撮影しているから、あんまりいい写真が撮影できていないです。ハイ。)

何か部屋について具体的なことが書かれてはいないかと、わざわざ持ってきた「昭和史発掘」を読もうとするが、これはカミさんに取られてしまった。
「芥川龍之介の死」のエピソードが気に入ったらしい。

さて、時計を戻そう。
宿にチェックインした男たちのうち、「勝田浅吉」と称する人物が女中の阿部トクに言った。
「今から社長の訓示を行うので、誰も来ないようにして欲しい。用があればこちらから呼ぶから」。
そう言うと「浅田勝吉」は離れにつながる廊下に立って人払いのために監視を始めた。
途中、昼どきなので食事を出そうかと阿部トクが様子をうかがいに行くが、廊下の奥から「浅田勝吉」に「来るな」と指示されている。

何と「社長の訓示」は5時間もかかった。
その後は宴会場に移って飲めや歌えやの大騒ぎとなった。
翌日、午前中から男たちはスキーに興じた。宿を去るにあたって、宿側が記念品のタオルをさしだしたが、17名の誰もがタオルを受け取らなかった。

男たちが五色温泉を去ってから20日後、大正天皇が崩御して昭和と改元された。
善良な宗川旅館の従業員たちが、この男たちが共産党員だったことを知るのは、9か月後のことだった。
五色温泉に赴いた毛利基の捜査は執拗なものだった。取り調べによって女中の阿部トクは精神に変調をきたしてしまう。
その結果、この日の十七名のメンバーも判明した。
福本和夫佐野文夫渡辺政之輔三田村四郎、中尾勝男、松尾直義、門屋博、菊田善五郎(浅田勝吉)ほか....

五色温泉で開かれた「日本共産党第三回大会」によって党は再建された。新たに党中央委員会のメンバーが選出され、ここから第二次共産党がはじまる。
この動きを封じ込めようとした当局によって三・一五事件、四・一六事件熱海事件といった弾圧が始まるわけだけど、それはここの本題ではない。

ただ昭和4年になって、画家の竹久夢二がこの宿に宿泊している。
かねてより社会主義に関心を抱いていた夢二は、わざわざ党大会の開かれた部屋を指定して宿泊したのだそうだ。

翌朝、起床してカーテンを開けると、昨日とはうってかわって青空が広がっていた。
白と青の鮮やかなコントラストに思わず歓声をあげた。


日差しの強さだけ見ていると、春もそう遠くはないような気がした。

あくまで今回の旅の目的は温泉でゆっくりすることだ。歴史の舞台に触れにゆくのは二の次だ。
だから温泉につかりに行く。


温泉を独り占めしながらボケーッとするつもりだったけど、さっきから温泉を飾っている古風な石組が気になってならない。
周囲の壁や天井などはそうとうリニューアルしているけど、このモダンな石組は大正か昭和初期のものだ。
だとすればあの部屋は新しそうにも見えるけど、やはり共産党大会が開かれた場所なんじゃないだろうか?

部屋に戻ると、半信半疑ながらカメラで部屋を撮影してみた。

ついでに部屋前の廊下も撮影する。「浅田勝吉」が見張っていた廊下とはここではないか?と思いつつ。

宿を出立する際に、女将さんに尋ねてみた。
「大正時代に共産党大会を開いた部屋っていうのは、現存するんですか?」
そうしたら女将さんが苦笑しながら言った。
「お客様がお泊まりになった部屋がそうですよ。今はトイレを設置して別々の部屋にしてしまいましたが、当時は二間続きだったんです」

参考文献、リンク:
松本清張「昭和史発掘 第二巻」
下里正樹・宮原一雄「五色の雲」
板倉勝宣「五色温泉スキー日記」(青空文庫)

昭和17年の野良スキー

(今回は長いんで、興味のある人だけ読んで下さい)

昭和16年12月8日にはじまった太平洋戦争は日本軍が優勢だった。戦勝ムードに沸き立つ国内では、さほどの緊迫感もないまま昭和17年の正月を迎えた。

そんな中、のんきに長野県でスキー三昧の日々を送っている人物がいた。

僕の祖父だ。

名前を小野寺五一という。愛称は「ごいっつぁん」。

この人が昭和20年に体験した事件については「祖父と湯の花トンネル列車銃撃事件」で紹介したことがある。まぁとにかく膨大な日記を遺してくれた人だ。
日記
(現存するごいっつぁん日記)

41歳だった祖父は昭和17年の正月を長野市で迎えた。
当時、祖父は内務省の地方書記官として長野県庁というお堅い職場に勤務していた。
しかし宮城県出身の祖父にとって楽しみというのは、どうもスキーだったようだ。
そのスキー三昧の日々を、見事に日記に記録している。

戦時中の民間人のスキーの記録として、珍しいものではないかと思う。
そんな昭和17年1月の日記を開いてみよう。

(長野電鉄の線路沿いで撮影されたと思われる一枚。祖父と祖母、二人の叔父
2012/3加筆:長野市在住経験のある友人の話では長野電鉄権堂駅-善光寺下駅間ではないかとのこと)

まず1月2日から5日まで上林へ滑りに行っている。

昭和17年1月2日(金)

(スキーに興じるごいっつぁん)

今日も朝から雪が降る。朝から色々準備をし、剣持君九時頃来たので十時十九分にてたつこととし、途中スキー帽、秀之(長男)のスキー等を買い善光寺下から立つ(中略)。
十二時過ぎ、上林青少年宿泊所に着く。その別館の今日初めて使うという縁起よき部屋に入る。南と東の空いている十畳の部屋なり。
ひるにお雑煮を食べ、秀之と望五荘に行きちょっと挨拶し、秀之をおいてその辺りをすべり廻る。帰って風呂に入り、夕方秀之とまた滑ってくる。

祖父は湯田中温泉のさらに奥にある上林温泉に宿泊したようだ。ニホンザルで有名な地獄谷の入口にある温泉地だ。新築の別館があった「上林青少年宿泊所」が現存するのかどうかわからない。

長野電鉄の善光寺下駅から10時19分の普通電車に乗ったとするならば、終点の湯田中駅には11時30分頃には到着したはずだ。
湯田中温泉から志賀高原へ2.5kmほど進んだところに上林温泉はある。
1月4日の日記を見るとわかるとおり、湯田中からは上林までバスが走っていたのだから、12時過ぎに上林温泉に到着したというのはうなづける。

大きな地図で見る
(上林温泉付近。そばを流れる角間川の対岸には「角間温泉」というのがある。3年前に「信州角間温泉(山ノ内町)越後屋」という記事にしている。)

この日、本間雅晴中将率いる日本軍がフィリピンの首都マニラを無血占領した。すでにダグラス・マッカーサーはバターン半島へと撤退していた。

祖父はただスキーを楽しんでいた。

日記続く。

昭和17年1月3日(土)
暖かい太陽の光を浴びながら十二澤まで行く。茶屋に寄りHに牛乳と笹の実餅とみかん等を食べさせてやる。
総務部長夫人がお子さん二人を連れ志賀高原に行かれるのに会う。上林ホテルの裏のスロープにて岩山夫人に会う。スキー研究会の一行に加わって来れる由なり。
秀之と日光を浴びながら練習をやる。午後二時頃より坊の平まで上り茶屋でおしるこ二杯を食べる。帰りもまた旧道の急な坂を降りて来る。

当時のスキーには「スキー場」や「リフト」という概念がまるでないことがわかる。上林には大正10年にオープンした「上林スキー場」があった。ただ祖父の滑りはスキー場でスキーを楽しむという風情ではなく、完全な野良スキーだった。

「十二澤」という地名だが、ウィキペディア「上林温泉」によると「1913年(大正2年) 上林温泉を訪れていたドイツ人キンメルン夫妻が近所の畑、斜面(上林、十二沢)でスキーをした。」とある。
上林から志賀高原方面に国道292号を進んだところにあるループ橋が「十二沢橋」と呼ばれているところから、この周辺の緩斜面を利用して滑ったのだろう。

大きな地図で見る
(「十二沢橋」付近)

野良スキーといっても、道なき道を登ったわけでもないようだ。
祖父たちは志賀高原に至る道(現在の国道293号あるいは旧道)を登ったことが「茶屋」に寄ったことからわかる。茶屋というものは街道沿いにあるからだ。
昭和5年からはじまった長野電鉄の志賀高原リゾート開発によって、すでにこのあたりには長電のバスが通る程度の道ができていた。「若山夫人」が子供連れで歩いても無理はなかったのだろう。その次に出てくる「上林ホテル」は昭和3年にオープンした高級ホテル。今なお「上林ホテル仙壽閣」として営業を続けている。昭和17年に「スキー研究会」があって、このようなツアーをやっていたことにも驚かされる。

午後二時になって、祖父は「十二澤」よりさらに奥へと滑りにゆく。「坊の平」は十二沢からさらに標高300mほど上に位置する高地だ。
次第に上へ上へと滑りに行くのは、今も昔もかわらない。

大きな地図で見る
(坊ノ平付近。シラカバ林が広がっている)

日記には「帰りもまた旧道の急な坂」を行ったとある。
国土地理院の地図で調べてみたらたしかに国道293号のショートカットとして「波坂(なめさか)」と呼ばれる細い急坂がある。祖父がこの坂を上っていったことは間違いないだろう。
この坂の途中に中部電力の平穏第一発電所というのがある。大正15年に建設された瀟洒な建物が印象的だ。
この建物は、祖父がこの坂をえっちらほっちら上り下りしてから14年後、画家岡鹿之助によって「雪の発電所」として描かれている。

(岡鹿之助「雪の発電所 – 昭和31年」)

呆れたのが翌1月4日(日)の日記だった。
祖父は「官庁御用始」の式典に出席するため、朝イチで長野市へと戻り、午後になって再び上林に戻っている。

昭和17年1月4日(日)

(当時の装備がよくわかる)

御用始めなので、朝六時前に起き風呂に入り、七時の臨時バスへと急ぎで間に合う。自動車と競争する様にして近道を飛び降りる。
八時半善光寺下に着き剣持君に電話をかけ家に帰る。十時より式があるので急いで役所に行く。式では鈴木知事の訓示あり。
十ニ時頃家に帰り、支度ををととのえて(中略)一時五十分の急行にて二時半湯田中に着き、三時過ぎ上林に着く。
あい子(僕の祖母)、秀之を連れスキーに行く。重雄(次男)も一緒なり。留守中、女中さんが恭子(長女=僕の母)に餅を焼いてくれる。

「たとえ1月4日が日曜日でも御用始の式は行う」という当時のお役所のしきたりにも驚いたが、祖父のスキーに対する執念の方が驚きだ。
少しでも滑る時間を増やしたいと、わざわざ急行に乗って湯田中へと戻っている。

ここで僕の母もようやく登場する。当時3歳だった母が女中さんにあやしてもらっている光景は、想像するだけで微笑ましい。

なお、「鈴木知事」は当時の官選長野県知事の鈴木登(みのる)。
大変な人格者だった鈴木は、この数日後に惜しまれつつ広島県の呉市長へと転任し、昭和20年の呉大空襲と広島原爆投下に直面することになる。

昭和17年1月5日(月)

朝七時頃起き風呂に入り七時過ぎ(ママ)スキーをはき坊ノ平にゆき、手前の茶屋でみかん二つしるこ一杯食べる。
四十五銭とは少しぼった様な気がする。帰って御はんを食べる。
あい子は秀之、重雄を連れスキーに行く。その間ゆっくり恭子と二人で風呂に入る。
やがて子供たちが帰り、愛子も帰り、風呂に入っている間、帰宅の準備をし、十二時五十分のバスにて帰る。二時半頃着き、三時頃家に帰り久しぶりに牛肉のご馳走になる。

こうして上林でのスキー日記は終わる。

翌6日から長野県庁に出勤するものの、どうも正月明けの職場はヒマだったようだ。
「十時十五分頃役所に行く」「別に大した用事もなし」「午後も別に用もなく四時過ぎ家に帰る」なんてミもフタもないことを日記に書いている。

当時の祖父は官房主事、税務、庶務課長などを兼任していたようだが、この日の祖父が唯一仕事らしい仕事を記録しているのは、次の一文だけだ。
「部長の奥さん、志賀高原ホテルにて色々な行き違いがあって好遇(ママ)せられなかった由なので、下平君に注意を促す」。
おいおい。

祖父の忙しさは翌日から始まる。
前述したように長野県知事鈴木登が呉の市長に転任し、後任に香川県知事の永安百治の着任することが決定する(当時は現在と違って官選)。
その引き継ぎ準備のため香川県と東京へ出張している。

そして1月16日は新知事永安百治の着任日だった....にもかかわらず、この日の祖父は、出勤前にひと滑りしに行っている。

昭和17年1月16日(金)
朝起きてみると、雪が降っている。よしとばかりスキーに行く。水道山を通り七曲に行き一気に降りてくる。
(中略)十一時五分の新知事着任の汽車、一時間おくれて着く。(中略)三時頃新知事の挨拶あり。風邪の気あり六時頃帰り早く床に入る。

「よくやるよ」と思った。
そりゃあ風邪気味にもなるだろう。

祖父の家、水道山、七曲.....これらの場所が特定できなかった頃に、長野市出身の方に尋ねたことがある。
「出勤前に善光寺前から七曲という場所まで歩いて行って、スキーで滑ってきたという記録があるのですが、そんなことは可能なんでしょうか?」
そうしたら、その方は「できないことはないでしょうけど...普通はやらないでしょうね」と苦笑していた。

当時の祖父が住んでいた正確な場所は不明だ。だが善光寺の西側に公務員宿舎が町の半分を占めている花咲町という町があるらしい。おそらくここではないかと思っている。

大きな地図で見る
(花咲町は公務員宿舎だらけ)

調べてみたら「七曲」という場所もわかった。
今でも地元民には有名なワインディング・ロードで、走り屋にとっては「聖地」らしい。
当時のスキーヤーにとっても「聖地」だったのだろう。

大きな地図で見る
(「七曲」。本当にうねうねしている)

「水道山」という地名は現存していないが、この2点の間に「往生地浄水場」というのがある。大正4年に完成した浄水場だというのだから、おそらく「水道山」というのはこの付近を指す通称なのだろう。

花咲町から七曲(坂の上まで)までおよそ2.5km。距離的には近いがかなりの標高差がある。「よくやるよ」しかいいようがない。

祖父の野良スキーはさらに続く。
1月18日(日)は同僚と日帰りで「飯縄」へ滑りに行っている。

昭和17年1月18日(日)

(戦後もスキーに興じるごいっつぁん=一番左)
朝八時、女学校前に集合し、飯縄にスキーに行くことにしたる故、八時過ぎに行きしも野中君見えず。已むなく一人でゆく。
途中、偶然にも野中君に会う。荒安のだんごやで休んでおしるこを二杯食べてゆく。
会計課長の一行に会う。飯縄の茶屋で休みしるこを食べ、その辺りで滑り、二時降りて来る。
約一時間にて降りる。甚だ愉快なり。

この日記から、祖父は「七曲」よりさらに「上へ」と滑りに行ったことがわかった。

「女学校」というのは長野県長野高等女学校のことで現在の長野西高等学校だ。これは祖父の家から七曲に行く一番のショートカットだ。

大きな地図で見る
(「女学校前」=長野西高等学校校門付近)

ここから御嶽山神社への坂道を登り、さらに七曲を登ると「荒安」という集落がある。ここで祖父は「野中君」とおしるこを二杯食べた。

大きな地図で見る
(荒安)

ここから「飯縄(あるいは飯綱)」までは比較的なだらかな山道が続いている。
祖父たちは現在の戸隠バードラインにほぼ平行したルートを辿っていったのだろう。
帰りはいま歩いてきたルートを一気に市内まで滑りおりていったようだ。
10kmのルートを1時間かけて滑りおりてゆく。
「はなはだ愉快」なのもわかる。

1月25日(日)にもスキーにゆくつもりだったが「少しくつかれているのとねむいので」断念している。そして翌日にはご丁寧にも「昨日スキーにゆかなかったことが残念である」と日記に記している。

そして1月29日には再び出勤前に七曲まで滑りに行っている。

昭和17年1月29日(金)
朝六時半頃起床し、スキーをかつぎ七曲に行く。昨夜雪がさっと降ったので大変よき雪なり。
上りながらしばし足を止め清祥なる景色を眺む。とかくする中に太陽がさしてくる。ああ美しきかな。心地よきかな。
上の方でがやがや人声がしたと思うと中学生の列がスキーで元気に降りて来る。心地よきなり。
家に帰り水をかぶり紅茶を飲み役所に行く。

翌1月30日、祖父は県庁の食堂で新知事の永安百治から呼び止められた。用件は貴族院書記官への異動の内示だった。

祖父はこの異動を嫌がった。
「考えさせてくれ」と返事をし、直属の上司に対して「断念したき旨」を伝えてもいる。
「斎場のようなところに行くな」とある部長から言われているように、議院書記官は儀典式典色プンプンの職場だったようだ。
宮城県の鄙びた田舎出身の「ごいっつぁん」にとっては、現場主義的な地方まわりの役人の方が性に合っていたことは想像に難くない。
スキー三昧の日々も楽しかったに違いない。お役所業務の日々から解放される数少ない手段がスキーだったのだろう。
その点、ドライブで「ひたすら道を走る」ことが好きな僕にもその血があるのかもしれない。

結局のところ、異動に応じた祖父は、否応なしに歴史の回転軸に巻き込まれていった。
赴任直後に本土初空襲に遭遇した祖父は、戦局が悪化する中を東京にとどまり、丹念に空襲警報と戦局への不安を日記に記録し続けている。

そして、昭和20年には自らが米軍艦載機の銃撃を受け、九死に一生を得ることになる。

車に乗っていたのは金正日同志でした

猛吹雪の平壌の街中を、ひとりの女性が子供を抱きかかえながら歩いていた。
母親はこの子を病院まで連れて行かなければならなかった。
そう、子供は重い風邪を患っていたのだ。

凍てつく寒さの中を歩いていると、一台の黒塗りの車が女性のそばまで来てピタリと停まった。後部座席の車の窓がスルスルと開いて、中からから紳士的な男性が女性に話かけた。

「同志、こんな寒い中、子供を連れてどこへ行かれるのですか?」
「子供が風邪をひいてしまい...病院へ連れてゆくところです」と女性が答えると。
「よろしい、私の車にお乗りなさい。病院までお連れしましょう。」とその男性は答えた。
その黒塗りの車は病院まで母子を送り届けたのだった。

このエピソードのオチはわかりやすい。
後日(その時は気づかないというのがポイント)、後部座席の男が偉大なる国家主席金日成の長男にして次期後継者にふさわしい人格と識見の持ち主金正日同志(長いな)であることを知った彼女は、感動に打ち震えながら改めて国家への忠誠を誓った、というものだ。

このエピソードは1985年ごろ、図書館で借りた北朝鮮から出版された日本語訳本に書かれていた。今となっては正確な書名は判然としないが、そのまんま「金正日伝」というタイトルだったように記憶している。当時、大学のサークル(京都奈良を愛する「古都研究会」)仲間で「北朝鮮研究」がブームで、朝鮮側から日本語訳で出版されている書籍をお互いに読みあっていたのだ。

そんな金正日の父、金日成が亡くなったのは1994年のことだった。

(金日成の死去を報じる1994年7月9日京都新聞夕刊と、金正日の死去を報じる2011年12月19日朝日新聞夕刊とを並べてみた。我が家にはこういう新聞がたまるいっぽう。ちなみに「主席」というのはワンアンドオンリーだった金日成にのみ冠される敬称となった)

金日成の後頭部にある大きな「こぶ」のことが取りざたされていた中、彼の死が報じられたのは7月9日のことだった。
テレビのニュース速報で彼の死を報じる第一報が流された時、僕は彼女(今のカミさん)と共に京阪電鉄東福寺駅前にあった古びた定食屋でやや遅い昼食を食べていた。
一瞬、定食屋の空気が凍りついたのを今でも忘れられない。「おー」「へぇ」「ふーん」という声が定食屋のあちこちから起こった。むろん僕もその中のひとりだ。
「世界各国の首脳で、死去したことでこういう反応が起きるのは、合衆国大統領と金日成ぐらいだろう」と思った。

(こんな新聞も出てきた。2000年6月15日...金大中と金正日、二人とも故人となった)

そして今回。
正午を5分も過ぎていなかったと思う。たまたま母を近所の病院に連れていった際に、ロビーのテレビで流れたニュース速報で金正日の死(これまた第一報)を知った。
その瞬間、受付の2人の事務員さんは「おー」「へぇー」という、全く同じ反応をした。
とどのつまり「世界の正義の代表」と「悪の国家の首領」というわかりやすいイメージのみが、「死」というものを印象づけるようだ。

金正日はすでに父親の死去の10年ほど前から後継者を賛美するための本が出版されていた(実際には後継者としての活動を1970年代から開始している)。この点、昨年ぐらいから「後継者」として脚光をあびはじめた金正恩(キム・ジョンウン)とは大きく違う点だ。今後の北朝鮮の政局に混乱が生じることは間違いないだろう。

冒頭に書いた「車のエピソード」にはオチがある。
10年ほど前にソビエトのプロパガンダに関する本を読んでいたところ、全く同じようなエピソードが掲載されているのに驚いた。
そのエピソードでは舞台はモスクワで、車の後部座席に乗っていたのはスターリンだった。国家社会主義的な権力者の下では、こういうエピソードは類型化された都市伝説になるらしい。

もうひとつ言うとすれば、スターリンも金正日も自分の車内に一般人を招き入れることなど絶対しない人間だ。
細心の注意を払ったからこそ、彼らは権力を掌握し、それを維持できたのだから。

Home > 歴史の切れ端

カテゴリー
月別アーカイブ

Page Top