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歴史の切れ端

昭和17年の野良スキー

(今回は長いんで、興味のある人だけ読んで下さい)

昭和16年12月8日にはじまった太平洋戦争は日本軍が優勢だった。戦勝ムードに沸き立つ国内では、さほどの緊迫感もないまま昭和17年の正月を迎えた。

そんな中、のんきに長野県でスキー三昧の日々を送っている人物がいた。

僕の祖父だ。

名前を小野寺五一という。愛称は「ごいっつぁん」。

この人が昭和20年に体験した事件については「祖父と湯の花トンネル列車銃撃事件」で紹介したことがある。まぁとにかく膨大な日記を遺してくれた人だ。
日記
(現存するごいっつぁん日記)

41歳だった祖父は昭和17年の正月を長野市で迎えた。
当時、祖父は内務省の地方書記官として長野県庁というお堅い職場に勤務していた。
しかし宮城県出身の祖父にとって楽しみというのは、どうもスキーだったようだ。
そのスキー三昧の日々を、見事に日記に記録している。

戦時中の民間人のスキーの記録として、珍しいものではないかと思う。
そんな昭和17年1月の日記を開いてみよう。

(長野電鉄の線路沿いで撮影されたと思われる一枚。祖父と祖母、二人の叔父)

まず1月2日から5日まで上林へ滑りに行っている。

昭和17年1月2日(金)

(スキーに興じるごいっつぁん)

今日も朝から雪が降る。朝から色々準備をし、剣持君九時頃来たので十時十九分にてたつこととし、途中スキー帽、秀之(長男)のスキー等を買い善光寺下から立つ(中略)。
十二時過ぎ、上林青少年宿泊所に着く。その別館の今日初めて使うという縁起よき部屋に入る。南と東の空いている十畳の部屋なり。
ひるにお雑煮を食べ、秀之と望五荘に行きちょっと挨拶し、秀之をおいてその辺りをすべり廻る。帰って風呂に入り、夕方秀之とまた滑ってくる。

祖父は湯田中温泉のさらに奥にある上林温泉に宿泊したようだ。ニホンザルで有名な地獄谷の入口にある温泉地だ。新築の別館があった「上林青少年宿泊所」が現存するのかどうかわからない。

長野電鉄の善光寺下駅から10時19分の普通電車に乗ったとするならば、終点の湯田中駅には11時30分頃には到着したはずだ。
湯田中温泉から志賀高原へ2.5kmほど進んだところに上林温泉はある。
1月4日の日記を見るとわかるとおり、湯田中からは上林までバスが走っていたのだから、12時過ぎに上林温泉に到着したというのはうなづける。

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(上林温泉付近。そばを流れる角間川の対岸には「角間温泉」というのがある。3年前に「信州角間温泉(山ノ内町)越後屋」という記事にしている。)

この日、本間雅晴中将率いる日本軍がフィリピンの首都マニラを無血占領した。すでにダグラス・マッカーサーはバターン半島へと撤退していた。

祖父はただスキーを楽しんでいた。

日記続く。

昭和17年1月3日(土)
暖かい太陽の光を浴びながら十二澤まで行く。茶屋に寄りHに牛乳と笹の実餅とみかん等を食べさせてやる。
総務部長夫人がお子さん二人を連れ志賀高原に行かれるのに会う。上林ホテルの裏のスロープにて岩山夫人に会う。スキー研究会の一行に加わって来れる由なり。
秀之と日光を浴びながら練習をやる。午後二時頃より坊の平まで上り茶屋でおしるこ二杯を食べる。帰りもまた旧道の急な坂を降りて来る。

当時のスキーには「スキー場」や「リフト」という概念がまるでないことがわかる。上林には大正10年にオープンした「上林スキー場」があった。ただ祖父の滑りはスキー場でスキーを楽しむという風情ではなく、完全な野良スキーだった。

「十二澤」という地名だが、ウィキペディア「上林温泉」によると「1913年(大正2年) 上林温泉を訪れていたドイツ人キンメルン夫妻が近所の畑、斜面(上林、十二沢)でスキーをした。」とある。
上林から志賀高原方面に国道292号を進んだところにあるループ橋が「十二沢橋」と呼ばれているところから、この周辺の緩斜面を利用して滑ったのだろう。

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(「十二沢橋」付近)

野良スキーといっても、道なき道を登ったわけでもないようだ。
祖父たちは志賀高原に至る道(現在の国道293号あるいは旧道)を登ったことが「茶屋」に寄ったことからわかる。茶屋というものは街道沿いにあるからだ。
昭和5年からはじまった長野電鉄の志賀高原リゾート開発によって、すでにこのあたりには長電のバスが通る程度の道ができていた。「若山夫人」が子供連れで歩いても無理はなかったのだろう。その次に出てくる「上林ホテル」は昭和3年にオープンした高級ホテル。今なお「上林ホテル仙壽閣」として営業を続けている。昭和17年に「スキー研究会」があって、このようなツアーをやっていたことにも驚かされる。

午後二時になって、祖父は「十二澤」よりさらに奥へと滑りにゆく。「坊の平」は十二沢からさらに標高300mほど上に位置する高地だ。
次第に上へ上へと滑りに行くのは、今も昔もかわらない。

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(坊ノ平付近。シラカバ林が広がっている)

日記には「帰りもまた旧道の急な坂」を行ったとある。
国土地理院の地図で調べてみたらたしかに国道293号のショートカットとして「波坂(なめさか)」と呼ばれる細い急坂がある。祖父がこの坂を上っていったことは間違いないだろう。
この坂の途中に中部電力の平穏第一発電所というのがある。大正15年に建設された瀟洒な建物が印象的だ。
この建物は、祖父がこの坂をえっちらほっちら上り下りしてから14年後、画家岡鹿之助によって「雪の発電所」として描かれている。

(岡鹿之助「雪の発電所 – 昭和31年」)

呆れたのが翌1月4日(日)の日記だった。
祖父は「官庁御用始」の式典に出席するため、朝イチで長野市へと戻り、午後になって再び上林に戻っている。

昭和17年1月4日(日)

(当時の装備がよくわかる)

御用始めなので、朝六時前に起き風呂に入り、七時の臨時バスへと急ぎで間に合う。自動車と競争する様にして近道を飛び降りる。
八時半善光寺下に着き剣持君に電話をかけ家に帰る。十時より式があるので急いで役所に行く。式では鈴木知事の訓示あり。
十ニ時頃家に帰り、支度ををととのえて(中略)一時五十分の急行にて二時半湯田中に着き、三時過ぎ上林に着く。
あい子(僕の祖母)、秀之を連れスキーに行く。重雄(次男)も一緒なり。留守中、女中さんが恭子(長女=僕の母)に餅を焼いてくれる。

「たとえ1月4日が日曜日でも御用始の式は行う」という当時のお役所のしきたりにも驚いたが、祖父のスキーに対する執念の方が驚きだ。
少しでも滑る時間を増やしたいと、わざわざ急行に乗って湯田中へと戻っている。

ここで僕の母もようやく登場する。当時3歳だった母が女中さんにあやしてもらっている光景は、想像するだけで微笑ましい。

なお、「鈴木知事」は当時の官選長野県知事の鈴木登(みのる)。
大変な人格者だった鈴木は、この数日後に惜しまれつつ広島県の呉市長へと転任し、昭和20年の呉大空襲と広島原爆投下に直面することになる。

昭和17年1月5日(月)

朝七時頃起き風呂に入り七時過ぎ(ママ)スキーをはき坊ノ平にゆき、手前の茶屋でみかん二つしるこ一杯食べる。
四十五銭とは少しぼった様な気がする。帰って御はんを食べる。
あい子は秀之、重雄を連れスキーに行く。その間ゆっくり恭子と二人で風呂に入る。
やがて子供たちが帰り、愛子も帰り、風呂に入っている間、帰宅の準備をし、十二時五十分のバスにて帰る。二時半頃着き、三時頃家に帰り久しぶりに牛肉のご馳走になる。

こうして上林でのスキー日記は終わる。

翌6日から長野県庁に出勤するものの、どうも正月明けの職場はヒマだったようだ。
「十時十五分頃役所に行く」「別に大した用事もなし」「午後も別に用もなく四時過ぎ家に帰る」なんてミもフタもないことを日記に書いている。

当時の祖父は官房主事、税務、庶務課長などを兼任していたようだが、この日の祖父が唯一仕事らしい仕事を記録しているのは、次の一文だけだ。
「部長の奥さん、志賀高原ホテルにて色々な行き違いがあって好遇(ママ)せられなかった由なので、下平君に注意を促す」。
おいおい。

祖父の忙しさは翌日から始まる。
前述したように長野県知事鈴木登が呉の市長に転任し、後任に香川県知事の永安百治の着任することが決定する(当時は現在と違って官選)。
その引き継ぎ準備のため香川県と東京へ出張している。

そして1月16日は新知事永安百治の着任日だった....にもかかわらず、この日の祖父は、出勤前にひと滑りしに行っている。

昭和17年1月16日(金)
朝起きてみると、雪が降っている。よしとばかりスキーに行く。水道山を通り七曲に行き一気に降りてくる。
(中略)十一時五分の新知事着任の汽車、一時間おくれて着く。(中略)三時頃新知事の挨拶あり。風邪の気あり六時頃帰り早く床に入る。

「よくやるよ」と思った。
そりゃあ風邪気味にもなるだろう。

祖父の家、水道山、七曲.....これらの場所が特定できなかった頃に、長野市出身の方に尋ねたことがある。
「出勤前に善光寺前から七曲という場所まで歩いて行って、スキーで滑ってきたという記録があるのですが、そんなことは可能なんでしょうか?」
そうしたら、その方は「できないことはないでしょうけど...普通はやらないでしょうね」と苦笑していた。

当時の祖父が住んでいた正確な場所は不明だ。だが善光寺の西側に公務員宿舎が町の半分を占めている花咲町という町があるらしい。おそらくここではないかと思っている。

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(花咲町は公務員宿舎だらけ)

調べてみたら「七曲」という場所もわかった。
今でも地元民には有名なワインディング・ロードで、走り屋にとっては「聖地」らしい。
当時のスキーヤーにとっても「聖地」だったのだろう。

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(「七曲」。本当にうねうねしている)

「水道山」という地名は現存していないが、この2点の間に「往生地浄水場」というのがある。大正4年に完成した浄水場だというのだから、おそらく「水道山」というのはこの付近を指す通称なのだろう。

花咲町から七曲(坂の上まで)までおよそ2.5km。距離的には近いがかなりの標高差がある。「よくやるよ」しかいいようがない。

祖父の野良スキーはさらに続く。
1月18日(日)は同僚と日帰りで「飯縄」へ滑りに行っている。

昭和17年1月18日(日)

(戦後もスキーに興じるごいっつぁん=一番左)
朝八時、女学校前に集合し、飯縄にスキーに行くことにしたる故、八時過ぎに行きしも野中君見えず。已むなく一人でゆく。
途中、偶然にも野中君に会う。荒安のだんごやで休んでおしるこを二杯食べてゆく。
会計課長の一行に会う。飯縄の茶屋で休みしるこを食べ、その辺りで滑り、二時降りて来る。
約一時間にて降りる。甚だ愉快なり。

この日記から、祖父は「七曲」よりさらに「上へ」と滑りに行ったことがわかった。

「女学校」というのは長野県長野高等女学校のことで現在の長野西高等学校だ。これは祖父の家から七曲に行く一番のショートカットだ。

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(「女学校前」=長野西高等学校校門付近)

ここから御嶽山神社への坂道を登り、さらに七曲を登ると「荒安」という集落がある。ここで祖父は「野中君」とおしるこを二杯食べた。

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(荒安)

ここから「飯縄(あるいは飯綱)」までは比較的なだらかな山道が続いている。
祖父たちは現在の戸隠バードラインにほぼ平行したルートを辿っていったのだろう。
帰りはいま歩いてきたルートを一気に市内まで滑りおりていったようだ。
10kmのルートを1時間かけて滑りおりてゆく。
「はなはだ愉快」なのもわかる。

1月25日(日)にもスキーにゆくつもりだったが「少しくつかれているのとねむいので」断念している。そして翌日にはご丁寧にも「昨日スキーにゆかなかったことが残念である」と日記に記している。

そして1月29日には再び出勤前に七曲まで滑りに行っている。

昭和17年1月29日(金)
朝六時半頃起床し、スキーをかつぎ七曲に行く。昨夜雪がさっと降ったので大変よき雪なり。
上りながらしばし足を止め清祥なる景色を眺む。とかくする中に太陽がさしてくる。ああ美しきかな。心地よきかな。
上の方でがやがや人声がしたと思うと中学生の列がスキーで元気に降りて来る。心地よきなり。
家に帰り水をかぶり紅茶を飲み役所に行く。

翌1月30日、祖父は県庁の食堂で新知事の永安百治から呼び止められた。用件は貴族院書記官への異動の内示だった。

祖父はこの異動を嫌がった。
「考えさせてくれ」と返事をし、直属の上司に対して「断念したき旨」を伝えてもいる。
「斎場のようなところに行くな」とある部長から言われているように、議院書記官は儀典式典色プンプンの職場だったようだ。
宮城県の鄙びた田舎出身の「ごいっつぁん」にとっては、現場主義的な地方まわりの役人の方が性に合っていたことは想像に難くない。
スキー三昧の日々も楽しかったに違いない。お役所業務の日々から解放される数少ない手段がスキーだったのだろう。
その点、ドライブで「ひたすら道を走る」ことが好きな僕にもその血があるのかもしれない。

結局のところ、異動に応じた祖父は、否応なしに歴史の回転軸に巻き込まれていった。
赴任直後に本土初空襲に遭遇した祖父は、戦局が悪化する中を東京にとどまり、丹念に空襲警報と戦局への不安を日記に記録し続けている。

そして、昭和20年には自らが米軍艦載機の銃撃を受け、九死に一生を得ることになる。

車に乗っていたのは金正日同志でした

猛吹雪の平壌の街中を、ひとりの女性が子供を抱きかかえながら歩いていた。
母親はこの子を病院まで連れて行かなければならなかった。
そう、子供は重い風邪を患っていたのだ。

凍てつく寒さの中を歩いていると、一台の黒塗りの車が女性のそばまで来てピタリと停まった。後部座席の車の窓がスルスルと開いて、中からから紳士的な男性が女性に話かけた。

「同志、こんな寒い中、子供を連れてどこへ行かれるのですか?」
「子供が風邪をひいてしまい...病院へ連れてゆくところです」と女性が答えると。
「よろしい、私の車にお乗りなさい。病院までお連れしましょう。」とその男性は答えた。
その黒塗りの車は病院まで母子を送り届けたのだった。

このエピソードのオチはわかりやすい。
後日(その時は気づかないというのがポイント)、後部座席の男が偉大なる国家主席金日成の長男にして次期後継者にふさわしい人格と識見の持ち主金正日同志(長いな)であることを知った彼女は、感動に打ち震えながら改めて国家への忠誠を誓った、というものだ。

このエピソードは1985年ごろ、図書館で借りた北朝鮮から出版された日本語訳本に書かれていた。今となっては正確な書名は判然としないが、そのまんま「金正日伝」というタイトルだったように記憶している。当時、大学のサークル(京都奈良を愛する「古都研究会」)仲間で「北朝鮮研究」がブームで、朝鮮側から日本語訳で出版されている書籍をお互いに読みあっていたのだ。

そんな金正日の父、金日成が亡くなったのは1994年のことだった。

(金日成の死去を報じる1994年7月9日京都新聞夕刊と、金正日の死去を報じる2011年12月19日朝日新聞夕刊とを並べてみた。我が家にはこういう新聞がたまるいっぽう。ちなみに「主席」というのはワンアンドオンリーだった金日成にのみ冠される敬称となった)

金日成の後頭部にある大きな「こぶ」のことが取りざたされていた中、彼の死が報じられたのは7月9日のことだった。
テレビのニュース速報で彼の死を報じる第一報が流された時、僕は彼女(今のカミさん)と共に京阪電鉄東福寺駅前にあった古びた定食屋でやや遅い昼食を食べていた。
一瞬、定食屋の空気が凍りついたのを今でも忘れられない。「おー」「へぇ」「ふーん」という声が定食屋のあちこちから起こった。むろん僕もその中のひとりだ。
「世界各国の首脳で、死去したことでこういう反応が起きるのは、合衆国大統領と金日成ぐらいだろう」と思った。

(こんな新聞も出てきた。2000年6月15日...金大中と金正日、二人とも故人となった)

そして今回。
正午を5分も過ぎていなかったと思う。たまたま母を近所の病院に連れていった際に、ロビーのテレビで流れたニュース速報で金正日の死(これまた第一報)を知った。
その瞬間、受付の2人の事務員さんは「おー」「へぇー」という、全く同じ反応をした。
とどのつまり「世界の正義の代表」と「悪の国家の首領」というわかりやすいイメージのみが、「死」というものを印象づけるようだ。

金正日はすでに父親の死去の10年ほど前から後継者を賛美するための本が出版されていた(実際には後継者としての活動を1970年代から開始している)。この点、昨年ぐらいから「後継者」として脚光をあびはじめた金正恩(キム・ジョンウン)とは大きく違う点だ。今後の北朝鮮の政局に混乱が生じることは間違いないだろう。

冒頭に書いた「車のエピソード」にはオチがある。
10年ほど前にソビエトのプロパガンダに関する本を読んでいたところ、全く同じようなエピソードが掲載されているのに驚いた。
そのエピソードでは舞台はモスクワで、車の後部座席に乗っていたのはスターリンだった。国家社会主義的な権力者の下では、こういうエピソードは類型化された都市伝説になるらしい。

もうひとつ言うとすれば、スターリンも金正日も自分の車内に一般人を招き入れることなど絶対しない人間だ。
細心の注意を払ったからこそ、彼らは権力を掌握し、それを維持できたのだから。

昭和14年のジャズ教則本「ジャズ音樂」

古本屋や中古CDショップに入るとロクなことがない。
お店のあちこちで何かが「キラッ☆」と光る。
そやつらはなぜか昭和風に「あたくし、貴方が買いに来られるのをお待ちしておりましたわ」と囁いてくる。

先日「」のライブで高円寺ガード下にある無力無善寺へ行った時の話だ。

高円寺のガード下には古書店が何軒かある。これも高円寺へ行く楽しみのひとつなのだけど、喉君とフラッと入った一件のお店の片隅で「キラッ☆」と光る本があった。

タイトルは「ジャズ音楽」。出版社はアルス。丁寧にケースから取り出してページをめくってみると、ジャズの教則本だ。

「ジャズピアノの奏法」という項目を見てみる
コードの基本から始まり、コード進行の理論も、ペンタトニック、ブルーノートの音階、左手のベース進行まで書かれている。

かなり本格的な内容だということが一目でわかった。

僕が直観的に思ったのは「これは昭和20年代ぐらいのものかなぁ?」ということだった。太平洋戦争後に本格的に進駐軍ジャズが流入してきた時代の代物だろうと思ったのだ。
ところが奥付を見て驚いた。

そこには「昭和14年10月20日発行」とあった。
「えっ、戦前の本!」と思わず呟いた。
「よくこの時期にこんな本が出せたな」とも思った。

ちょっと日本の戦前ジャズの歴史を知るために、2曲を聞き比べて欲しい。
昭和3(1928)年、堀内敬三が訳詞した「あほ空(私の青空=My Blue Heaven)」が二村定一の歌によってコロムビアとビクターの両社からリリースされて大ヒットした。
「ジャズ」という言葉を一気にメジャーシーンへ押し上げた画期的な作品だった。

(「あほ空」コロムビア盤。by 二村定一・天野喜久代。昭和3年3月19日録音)
演奏は慶應大学の学生たちによるレッド・ブリュー・クラブ・オーケストラ。裏でリズムをとってシンコペイトしているものの、お世辞にもスィングしているとまでは言えない。
アンサンブルに時折不協和音が交ざるのはご愛嬌だ。ジャズのアレンジとしてはまだまだ未成熟だ。

しかし、ここからわずか数年で日本のジャズは急成長する。
ミュージシャンの演奏力とサウンドは急激に成熟していった。このあたりの国産ジャズの音源はとてもスリリングだし、貪欲に海外のサウンドを吸収しようとする日本人の音楽に対する好奇心の高さには、心地よい眩暈すら感じる。

僕は昭和11(1936)年というのが戦前日本ジャズの円熟期ではなかったかと思う。この年は日本のジャズに名演や名曲が数多く生まれている。

(「スーちゃん」by 岸井明 昭和11年12月8日録音。演奏:PCLオーケストラ)
そりゃあ同時代のベニー・グッドマンほどの「キレ」はない。だけど極東のいち小国のジャズ・バンドがここまでプレイできたのならば、大したものだ。

こうして聞き比べてみると、世界でも有数の「音楽大国ニッポン」の若いミュージシャンたちは、わずか8年で貪欲にジャズを吸収し、それを消化させていったことがわかる。

ところが昭和12(1937)年7月7日に勃発した日中戦争は、急激にこうした状況を変化させていった。まず昭和13年に国家総動員法が成立する。国あげての戦時体制となった日本では、急激に軍歌が流れるようになっていった。この頃から軍歌や民謡をジャズにアレンジしたレコードが相次いでリリースされるようになる。ジャズ・ミュージシャンたちも時局に適合した音楽を演奏せざるを得なくなってきたのだ。

そして昭和14年にはジャズのダンスホールの殿堂と言われた赤坂溜池「フロリダ」が閉鎖。同年9月1日、第二次世界大戦が勃発....

こうやって考えると、昭和14年10月20日に発行された「ジャズ音楽」は実に「微妙な時期」に発行されたことがわかる。
僕の脳内には、この本が戦前日本ジャズの最終期に出版された教則本だという「勘」みたいなものがあった。

「あたくし、貴方が買いに来られるのをお待ちしておりましたわ」
「はい」

数分後、ラーメン屋でこの本をじっくり眺める僕と「喉」がいた。

まず、執筆陣の豪華さに驚いた。
●「サキソフォーンの奏法と練習曲」
服部良一:戦前は「蘇州夜曲」「一杯のコーヒーから」「湖畔の宿」などがヒット。戦後は「東京ブギウギ」「青い山脈」などで知られた昭和を代表する作曲家。
●「ジャズ・ピアノの奏法」
菊池滋弥:戦前日本を代表するジャズ・ピアニスト。上記2曲のセッションにも参加しているはずである。
●「ギターの奏法と練習曲」
古賀政男:「丘を越えて」「東京ラプソディ」「影を慕いて」「悲しい酒」などで知らせた昭和を代表する作曲家。
●「ハワイアン・ギターの奏法と練習曲」「ウクレレの奏法と練習曲」
灰田晴彦勝彦兄弟:弟勝彦は昭和を代表する歌手:独特のポップス感覚を戦中戦後を通して貫いた。「燦めく星座」「こりゃさの音頭」「森の小径」「野球小僧」「東京の屋根の下」などが有名。兄の晴彦は戦前・戦後を通してハワイアン・ミュージシャンとして活躍した。
●「流行歌の唄ひ方」
徳山璉:音大出身の声楽家であり、同時に流行歌手としても活躍した。「隣組」があまりにも有名。

●「ジャズの合唱」
中野忠晴:戦前期に活躍したジャズ・シンガー。ジャズ・コーラスを全面に出した「コロムビア・ナカノ・ボーイズ」名義や単独名義で多数のヒットを飛ばす。代表曲は「山の人気者」「山寺の和尚さん」
●「ダンス曲の種類と形式」
井田一郎:大正12年に日本初のジャズ・バンド「ラフィング・スターズ」結成以来、日本のジャズ創生期を支えたバンド・マスター。「日本ジャズの父」とも呼ばれる。日本ビクタージャズバンドのマスターとして昭和3年の二村定一「あほ空(ビクター盤)」を実質プロデュースして以来、主にビクターで数々の名演を残している。
●「ジャズの編成と編曲」
紙 恭輔:彼もまた日本のジャズの草分け的存在。上記慶応大学レッド・ブリュー・クラブの「あほ空(コロムビア盤)」ではサックスで参加している。この後「コロムビア・ジャズ・バンド」の中心人物として活躍するほか、映画音楽の作曲なども多数手がけた。
●「トーキーとレビュー音楽」
堀内敬三:その膨大な知識によって、初期日本ジャズに多大な影響を与えた音楽評論家(作詞・作曲家でもある)。「あほ空(私の青空=My Blue Heaven)」は彼がアメリカから持ち帰り、訳詞した作品である。

当時の日本のジャズ・シーン(「アメリカン・ポピュラー・ミュージック」というとらえ方でいいと思う)の大物たちが、レコード会社などの枠を超えて共同執筆しているのがわかる。

彼らはどのような気持ちでこの本を書いたのだろうか?
ますます混迷化する戦局の中、次第にジャズを表現する場は失われつつあった。
そんな中、今までの自分たちの経験や知識を後世に残そうと、一同に会した最後のセッション。
僕にはそんな風に思えてならなかった。

僕はこの本を社費で購入することにした。
我々は世界でも有数の音楽教育大国と言われる日本で今の仕事をしている。そんな日本の「戦前ジャズ」が理論的に充分成熟していたことを証明する貴重な教育書だと考えたのだ。

細かい本の内容まで説明する紙数は足りない。興味のある人は教室のロビーで読んでほしい。

ここでは徳山璉(たまき)が書いている「流行歌の唄ひ方」の冒頭の文を紹介しよう。

流行歌という名称はレコード会社が勝手につけたものであって、流行しようとしまいとそれには関係のないものである。
したがって、これという唄い方もない。
流行歌は大衆のものだ。だから大衆が先生であるし、また大衆に適合した唄い方をするのが一番賢い。
しかし、その漠然とした中にも経験によって唄い方の法則のようなものが、僕たちの仲間にある。

第1.歌の歌詞をはっきりすること。
第2.誰にでもわかるように唄うこと。
第3.メロディーのクライマックスを印象的に歌うこと。
第4.芸術を第2において、その曲の気分を最大限に出すこと。

以上なような条件で唄えばよいのであるが、これが中々難しい。
第一の歌詞をはっきりさせて唄うことは簡単なようであるが、すぐにはできない。
といってあまりはっきりしすぎると、品のない、きざっぽいものになる。
流行歌には品などはいらないと思ってはいけない。
僕の歌などは品はないと思われているが、僕の場合は、自覚せる下品(筆者注:自分で自覚のある下品という意味)だと、うぬぼれている。
現在の流行歌には艶麗(えんれい)極まりない美しい言葉が連ねたれている。
このすばらしい詩をメロディーと共に歌うのが歌手の使命だ。詩人の気持ちを生かし、作曲を生かしてこそ初めて、完全な流行歌といえる。

この部分を読んだ先生方は「これは凄い、今でもまったく通用する言葉だ」と驚いていた。

昭和16年12月8日、日本はついにアメリカと開戦する。
「ジャズ音楽」は敵国の音楽となった。
それでもミュージシャンたちは日本民謡などをジャズアレンジにして、何とか自分たちの表現スタイルを貫こうとした。

本当にこういう音楽は消え去ったのは、昭和18年1月のことだ。
情報局から「敵性音楽の追放」というお達しが下された時、戦前ジャズはその息の根を完全に止められた。
僕はこのことを6年前に「敵性音楽の追放」という記事にしたことがある。

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