湯の花トンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

(前回はあまりの長文だったので、今回は画像をメインでいってみます)

そんな経緯から、63年目の8月5日、事件現場で行われた慰霊の会に出席した。集まった遺族や関係者は約70名だったと、
毎日新聞の記事にある。

僕のところから同行したのは「ごいっつぁん」の娘である母、そして父と二人の娘たち。


折からの雷雨で、慰霊碑前での式は中止となった。参集した方々は、当時から現存する蛇滝茶屋で雨宿りをした。この建物は事件当時は遺族の待合室や遺体の一時保管所にも使われた建物。旧式の白熱電球の下、机を囲んだ方たちと「どういったご関係ですか」というような感じで、自然と会話が始まった。思いもかけず列車に乗り合わせた黒柳美恵子さん(現在遺族会代表をされている)ともお話を交わすこともできた。
当時、14歳だった美恵子さんは、姉の良子さん(当時16歳)をこの事件で失った。二人は親元を離れて長野県に疎開に向かう途中だったのだ。「親が切符をわざわざ原町田まで買いにゆきましてね、それで列車に乗ったんです」と語ってくれた。
(黒柳さんは中央大学多摩探検隊製作のドキュメンタリー「湯の花トンネル列車銃撃空襲」にも出演されている)。


雨は容赦なしに降り続いた。茶屋の裏手はこのように渓流に面した廊下という造り。そこから雨脚にあおられた涼しい風が吹き抜けてゆく。慰霊碑の最初に刻まれている青木考司氏と妹が知人だったという方とも言葉を交わした。
青木氏は目の前の旧甲州街道をずっと小仏峠側へ行った場所に家があった。この日は山梨の連隊に帰隊するために、逆に浅川駅まで赴き、四一九列車に乗って折り返す途中で惨禍に遭われたのだそうだ。
「私もこのあたりの人間だけど、ここらの家は戸板をすべて外して、担架がわりに遺体を運んだ。だから戸板の血のしみが取れなくてねぇ、先日とり壊されたあそこの家の戸板にも、血のしみがついていたなぁ」
「そう言えば、ニ三年前までは、指の1本無いおじいさんが慰霊祭に来られていたけど、最近見ないね。どうしちゃったのかねぇ」



雨が小降りになった合間を縫って、参集者が慰霊碑まで赴いて花を供えた。

僕は祖父の眼前で命を失った赤ちゃんに対して頭を垂れた。