航空事故の話

(今日はオチもないくせに長いです)

僕の友人に徹底した「飛行機嫌い」がいる。
この人はよく北海道に旅行に行くのだけど、
必ずといっていいほど寝台列車に乗る。
彼は僕にむかってこう言った。
「あんな鉄の塊が飛ぶわけがない」。
「ありえない」とまで言い切った。
そんな彼は僕に「マッハの恐怖(柳田邦男著)」という本を読めと、すすめてくれた。

僕が最後に飛行機に乗ったのは1989年だから、来年で「飛行機に乗らない歴」20周年を迎えることになる。1989(平成元)年2月24日、昭和天皇の「大喪の礼」の当日だった。厳戒態勢で大混乱の成田空港をユナイテット航空で後にした。最初の行き先はシアトル。大学卒業旅行で最後の春を楽しもうとしていたのだ。

ところが、僕が機内で居眠りをしていた頃、同じユナイテッド航空の別便(811便)が、貨物ドアの脱落により、乗客が9名機外に吸い取られるというシャレにならない事故を起こしていた。僕が事故の事実を知ったのは、「無事に着いた」という電話を、家にしたときだった。
親父は開口一番「お前、知らないだろう?ユナイテッドが事故ったんだよ。俺は心臓が止まるかと思ったぞ!」と言った。

世界の航空事故のデータベースである"AirDisaster.com“にはユナイテッド航空の事故記録一覧があるが、これによると11年間無事故だったユナイテッドは、この事故以降、相次いで事故を起こしているのがわかる。そのとどめは「9.11全米テロ」だった。

ノホホンとはじめてのアメリカを楽しんでいた僕に、とどめの一発が降り注いだのはその3日後のことだ。宿泊していた安ホテルに親父から国際電話がかかってきた。
親父は開口一番「お前、何やってんだ?大学から留年の通知が届いたぞ。俺は心臓が止まるかと思ったぞ!」と言った。

あわわてシアトルのユナイテッドのオフィスに駆け込んだ僕は、すべての行程をキャンセルし、「一人旅でもするさ」という友人を残して、再び日本へと傷心の帰国をする羽目になった。まさに「天国から地獄」だった。シアトルを離陸した直後から心労で眠りについた僕は、日本に着陸する直前までひたすら眠り続けた。単位2つで、内定の企業を棒に振った。

それ以来、何の因果かいまだに飛行機には乗っていない。
飛行機事故には遭わなかったものの、「人生の事故」に遭ってしまいました、というのがオチだ。

実はそれまでに3回は飛行機には乗っているし、いずれも何も起きなかった。今でも乗りたい気持ちもある。むろん久しぶりに海外旅行をしたいという純然とした想いだ。しかし、そのいっぽうで何かが僕の心を躊躇させている。
「自分が飛行機に乗ったら何かが起きるんじゃないか。自分自身は事故に遭わないにせよ、どこかで大事故が起きるんじゃないか?あるいは、別の何かが自分自身に起きるんじゃないか?」
そんなぼんやりとした不安をいまだに抱えている。

そもそも航空事故は世界中で月1回以上のペースで発生している。日本でも10月26日に沖縄で軽飛行機が墜落したばかりだ。そんなペースで発生する事象を、いちいち自分に結びつけて考えるのはたしかに考えすぎである。それだったら株価の乱高下も、相次いで起こる殺人事件にも、いちいち考えを巡らさなければならない。ただ、僕の場合、飛行機に搭乗することが、完全に「やり慣れないこと」になり下がっているところに、どうも引っかかりがあるようだ。実は先々月に子供と広島に飛行機で行く話があったのだが、予約をとり損ねて行かずじまいとなってしまった。残念に思う反面、ホッとした自分がそこにはいた。

話はかわる、僕の母は今から48年も前に、全日空の客室乗務員だった。
当時はジェット機もなければ、YS11なんていう国産プロペラ機もなかった。下の画像のようなダグラスDC-3ビッカース バイカウントや、コンベア440なんていうバタくさいプロペラ機でのんびり空を飛んでいた時代の話だ。

(母とダグラスDC-3。この機(JA5043)のその後については「航空史探検博物館」さんの「日本におけるダグラスDC-3研究」に詳しい)

1960(昭和35)年3月16日、母が乗務を終えて羽田の全日空事務所に戻ってきたら、事務所が騒然としていた。大勢の新聞記者がおしかけている。聞けば小牧空港(現在の名古屋空港)で離陸しようとしていた自衛隊機が全日空機に衝突したらしい。事務所の人いわく「ここにいると記者からあれこれ聞かれるから、今日はさっさと帰ってくださいね」。
いわゆる「全日空小牧空港衝突事故」だ。母は2日前にこの便に乗務しており、辛くも事故を逃れたのだが、同期の客室乗務員の女性1名が亡くなっている。この日、彼女は休日だったのだが、風邪をひいた同僚から頼まれて代わりに乗務して災難に遭ったのだそうだ。これ以降、全日空ではこうした私的な交代を認めなくなったそうだ。
昨年亡くなった祖母は、この事故に関して「ニュースを見てK子(母)ちゃんが心配で仕方がなかった。ところが家にも電話もせず、夜になってケロっとした顔で帰宅してきた。あの時ほど娘に腹が立ったことはない」。とよく僕に愚痴っていたものだ。
そんな母は、今でもしょっちゅう飛行機で旅行をしている。

話はまだ続く。
僕は1965(昭和40)年12月3日に生まれているけど、翌4日にニューヨーク上空でトランスワールド航空の旅客機と、イースタン航空の旅客機とが接触事故を起こしている。両機とも翼の一部を失いながらも奇跡的に着陸に成功したが、山林への不時着を敢行したイースタン機では機長をふくむ6名が亡くなっている。12月25日にはサンフランシスコを離陸したばかりの日本航空の旅客機のエンジンが爆発、緊急着陸に成功している。
この前後のことは「マッハの恐怖」に詳しいけど、その後の数ヶ月間が、日本の航空業界にとって受難の季節だった。

ここに一枚の画像がある。

1966年3月5日にフィルム撮影されたもののひとコマだ(柳田邦男「マッハの恐怖」より)。
前日にカナダ太平洋航空の402便が濃霧の羽田空港への着陸に失敗し、大破炎上した。その翌日、NHKのカメラマンが飛行機の残骸と今まさに飛び立とうとしている飛行機との対比を何秒かの映像におさめた。僕はこの映像を今から30年ほど前にTVで見たことがある。今でもNHKアーカイブあたりを探したら見れるかもしれない。

この「今まさに飛び立とうとしている飛行機」が、離陸してからおよそ15分後、富士山上空で空中分解して墜落した。

こんな風に僕が生まれた直後の日本の空は、異常だった。
1966年2月4日 全日空羽田沖事故(全日空60便が羽田沖に墜落。死者133名)
1966年3月4日 カナダ太平洋航空羽田事故(羽田空港着陸に失敗。死者64名)
1966年3月5日 BOAC機空中分解事故(富士山上空で乱気流により分解 死者124名)
1966年8月26日 日本航空羽田事故 (訓練機が羽田離陸直後に墜落 死者5名)
1966年11月13日 全日空松山沖事故 (着陸復航の際、失速。死者50名)

同一国内で、しかもうち3件は同じ羽田空港で、しかも2件は2日連続で発生している。おそらく世界でも稀に見る現象だったと思う。よく我々は「航空事故は連続して起こる」という経験則めいたことを語るけど、これは間違いなく1966年に発生した一連の出来事が、日本人の心の中にトラウマになっているのだと思う。

さらに柳田氏の「続 マッハの恐怖」では、1971年7月3日に発生した「ばんだい号墜落事故」にも触れている。
当時の僕は幼稚園児だった。H君という仲の良いおともだちがいた。事故の直後だと思うが、H君の家に遊びに行ったとき、自然とH君と「ばんだい号墜落」の話になった。そうしたらH君のお母さんがその話さえぎってボソッ言った。
「Hの叔母さんがね。あの事故で亡くなったのよ」
子供心にシャレにならない話題を出しちゃったな、と恐縮したのを覚えている。

母の話にはこんなのもある。
フライト中にふと窓から見たら、プロペラがひとつ停止していた。あわてて機長に「プロペラが止まっています」と報告したら、海軍航空隊あがりの機長から、「大丈夫、大丈夫。たまに止まるんだよ、コイツ」。なんて笑い飛ばされたらしい。

むろん当時も墜落事故は起きていた。しかし、今のように弾丸以上の速度で飛行し、コンピューターによって制御され、複雑かつ巨大なメカ・システムとなっている現在の飛行機に比べれば、まだ「機械」が人間に見える範囲、理解できる範囲で動いていた、そんな時代のエピソードだと思った。圧力隔壁の修理ミスで尾翼が吹き飛んで、最後まで事態が把握できなかった123便の乗務員のことを思い出す。

「あんな鉄の塊が飛ぶわけがない、ありえない」と僕の友人は言った。
吹き出したくなるようなセリフだけど、何か真実をついているような気がしてならない。
本質的には鉄の塊だから飛ばない。それをパイロットの技術や、高度な整備技術、機自体の複雑なメカニズムによって「無理やり飛ばしている」。とでも彼は言いたいんだろう。

話は変わるけど、生徒のAさんは、過去に八百屋さんの車に友達が轢かれて亡くなる現場を目撃している。その八百屋さんは善良で子供たちから好かれていた人だった、そんな普通の人間が罪を問われるような加害者になってしまう瞬間、それを見たことはAさんのトラウマとなった。以来、自分で車を運転することにAさんは大変な抵抗を持っている。いっぽうAさんは飛行機に乗るのが大好きなんだそうだ。自分では何もすることなく、快適な空間でくつろぎながら、自然と目的地まで輸送してくれる、その雰囲気がたまらないのだという。

いっぽう、人生で2回も交通事故に遭っているクセに、僕は車の運転が大好きだ。車は自分で機械をオペレイト(運転)しなければ、目的地へと行けない。快適な旅とはほど遠いわけだし、飛行機に比べれば事故の確率は高いわけだけど、自分の目の届く範囲で、機械が動いてくれることに安心していることは間違いない。