平成という時代のオウムと自分

平成30年7月6日、ついに麻原彰晃ほかオウム真理教事件の死刑囚の死刑が執行された。

平成の歴史の中で最も凶悪な組織犯罪に対して一応は終止符が打たれたわけだが、これが何かの始まりになるであろうことは容易に想像がつく。

人間の本性に外部への承認欲求がある限り、迷える人間が心の安住の場を求める限り、未来が読めない時代が続く限り、第二第三のオウムが生まれてくるだろうと自分は思っている。

オウムの後継団体であるAlephは麻原を「殉教者」とみなすのかもしれないし、これを機に新たな活動に転換するのかもしれないが、もはや宗教団体が社会にどうこうする時代は終わったと思っている。

あの事件以降、姿を変えて現れてきた「自己啓発セミナー」「何とかセラピー」などといわれる集団の中から何かが起こるのだろうと、僕はそう思っている。

昭和55年(1980年)5月、横浜の洋光台から千葉県市川市に引っ越した僕は、自然とオウム真理教に近い所にいたようだ。
翌年、麻原彰晃は船橋の高根台6丁目に「BMA薬局」という健康薬品の店を開く。
このお店は新京成高根木戸駅と高根公団駅間の線路沿いの商店街にあった。

(BMA薬局があったとされる場所)

このあたりは高校時代の友人も住んでいるので、事件後にそういうお店を覚えているかと尋ねたたけど、誰一人「BMA薬局」の記憶はなかった。

平成2年(1990年)2月、大学卒業&就職直前だった僕は、再び洋光台に戻る両親のため、横浜と市川を行き来しながら、洋光台の家のリフォームを手伝っていた。

つまりこういうことだ。僕が家の天井をペンキで塗っているホンの3か月前、同じ町内で弁護士一家が忽然と自宅から姿を消したのだ。

この2月はちょうど衆議院総選挙が行われていた。
市川のマンション前にも候補者の掲示板があったが、そこで異色をはなっていたのが「真理党」候補者のポスターだった。
衣を身にまとい、坊主頭の男の笑顔。候補者名は本名ではなくホーリーネームで「ジーヴァカ」とあった。かなり異色...いや異様な空気を放っていた。

当時の僕にはまだ「お子ちゃま」としての思考アルゴリズムがあったようだ。
「ジーヴァカ」というネーミングから「こちらをジーッと見るバカ」みたいなイメージを抱きつつ「名前からしてキモい!」と思ったものだ。

自分は当時から泡沫候補マニアな所があったし「真理党」はすでにマスコミの恰好のネタとして取り上げられていた....いや笑いものにされていたから、そういう意味でも印象に残っていた。あのポスター、今だったらきっと記念に写メっていただろう。

僕は長年の間、麻原が船橋から出てきただけに、千葉の選挙区にウェイトを置いて選挙運動をやっていたのだろうと思い込んでいたのだけど、今回この記事を書くにあたって「真理党」を調べてみたら、決してそんなことはなかった。
千葉県では僕の住んでいた市川市の「第四区」だけに候補者を置いていたようだ。

ポスターの笑顔の人....第四区の候補者だった「ジーヴァカ」の本名は遠藤誠一だ。
「第一厚生省大臣」としてサリンの製造と一連の事件の実行犯として関与し、今回麻原と共に死刑が執行された。

平成2年(1990年)4月、洋光台へ戻ってからわずか1週間後、明治乳業(現明治)の新入社員として大阪勤務となった僕は、以後11年間を関西方面(大阪→京都→名古屋→京都)で過ごすことになる。

平成6年(1994年)9月、転職して名古屋から京都に戻ってきたばかりの僕は、京都にいた彼女(今のカミさん)と長野県へレンタカーで旅行に行く。
予定のない旅だった。
安曇野付近か
(1994年9月、大町の手前ぐらいか?)

奈良井で一泊し、松本で遊んだ夕方、思い付きで黒部アルペンルートへ行こうという事になった。
大町側アルペンルートの起点となる扇沢のホテルへ向かう県道45号に入った時は、もう漆黒の闇だった。

「なんかよくわからないけど不気味な道だったよね」。

今でもオウムの事件がテレビで流れると、僕とカミさんはその話をする。

宿泊先に向かうワクワク感がなかった道は珍しい。暗闇の中で電灯もほとんどない道で、妙に湿度が高かったのを覚えている。
この道からやや奥まった場所で、坂本弁護士の長男龍彦ちゃん(1歳)の遺体が発見されたのは、翌年9月11日のことだった。

京都に移り住んだ僕は、やがて結婚する彼女との新居が決まるまでの10か月間(1994年9月~1995年7月)、京都市北区上賀茂榊田町の安アパートに落ち着いた。
一人暮らしをしながら原付で太秦の職場(CDショップ)まで通勤していた。

太秦で仕事が終わるのが午後11時頃、そこから原付で帰るのだけど、自炊派だった僕が往生したのは、そんな時間に食材を買うことのできるスーパーが京都に見つからない事だった。

そうしたら常連のお客さんが興味深い事を教えてくれた。
「千本丸太町に深夜までやっているスーパーがあるよ」
「おお、そいつはありがたいです。何というお店ですか?」
「M24(エムにじゅうよん)というお店なんだけど....オウム真理教が経営しているんだ」
「ゲゲ、まさか店員がヘッドギアしているとか....」
「それはないけど、いつも妙な音楽が流れているよ」

すでに松本サリン事件や坂本弁護士一家の殺害事件への関与が囁かれていた時代だ。

内心「食材に妙な洗脳の薬でも入っていたら怖いな」と思っていたけれど、背に腹は代えられないし、好奇心の方が上回る。
そこで早速、その日の夜に行ってみた。
千本丸太町の交差点をやや下がった西側だった。

行ってみたら本当にフツーの激安スーパーだった。

まあ深夜に行くわけだからお客さんなんてほとんどいないのだけど、店員はヘッドギアなんてしていないし普通の服装だった。
自分は直前まで食品会社でアイスクリームの営業をしていたぐらいだから、アイスクリームのショーケースを覗けばなんとなく品揃えから納入業者がわかるのだけど、僕の知っている取引先は関与していなかったようだ。

お店を出て気づいたのが、二階にPCのパーツショップ「マハーポーシャ」があること。
実はこれもオウム経営のショップだったのだけど、すでに23時過ぎには閉店していた。

「自炊派」なんて言いながらも、なぜかお肉だの野菜など「生もの」を買うのには躊躇したので、レトルトものとかラーメンとかそんなものばかりを買った。
まあ時間的に便利なことは便利なので、その後2回ほど利用したけど、最後までマハポーシャへは入らずじまいだった。
1995年当時はPCのパーツショップなんて珍しかったし、京都では寺町通あたりまで行かなければそういうお店もなかった。
自作PCには興味があったし、覗いてみたいという気持ちもあったのだけど、結局行かずじまいだった。

なぜなら....スーパーで食材買うのと自作PCのパーツを買うのは全く意味が違うからだ。

こういうお店ではお店の人とコミュニケーションを取りながらパーツの知識を深めてゆく。
当時は情報もネットもない時代、お店のアドバイスがなければ、PCなんて作れるもんじゃない。
そんなコミュニケーションが深まれば深まるほど、PCへの知識だけではなく、得体の知れない何に「洗脳」されたら怖いなというのがあった。
(結局のところ、2006年以降は、自作PCに「洗脳&翻弄」されている)

平成7年(1995年)は忘れられない1年となった。
1月に靭帯の手術のため入院、手術直後に阪神淡路大震災を体験した。
そしてようやく退院が許可されて、上賀茂のアパートで自宅療養中に地下鉄サリン事件が発生した。

事件の翌日のことだ。
ポストに妙なチラシが入っていた。
そこには「地下鉄サリン事件はオウム真理教のしわざではありません」と書かれていた。オウム真理教が投函したチラシだった。

ちょっと待て、事件直後にチラシを作製し、翌日に広範囲(かどうかはわからないけど、少なくとも北区上賀茂榊田町では)にチラシを投函できるものなのか?
これは用意周到に準備されたものだろう。僕はこれで逆にカルト教団による組織的犯罪を確信した。

翌日、強制捜査を生中継で見ながら「何という不安定な時代に、自分は荒海の中に飛び込んでしまったのだろう」と憂鬱な気持ちになっていた。

その後の人生で、自分はさらに荒海の中に飛び込む羽目になるのだけど、逆に言えば「最後は自分だけが頼り」という漠然とした哲学を、この時期に学んだのだと思う。
そこには教義も導師もいない。思想も哲学も教本もない。
自分で考え、最善の道を自分で歩む。
それがどんなに辛くて、どんなに孤独な道だとしてもだ。

この年、11月に結婚式を挙げた僕は、知人への挨拶状にこう書いている。
「阪神淡路大震災だのサリン事件だのと激動の一年ではありますが、私たちは結婚します」

平成13年(2001年)7月25日、CDショップを辞して京都から洋光台へと戻っていた僕は、家族を連れて山梨県上九一色村にある「富士ガリバー王国」へと遊びに行っている。
そう、オウム真理教のサティアン跡地付近に平成9年(1997年)開園したアミューズメントパークだ。

我々が訪れた時は、すでに実質的経営主体だった新潟中央銀行が経営破綻しており、閉園の数か月前(10/28閉園)という時期。
来客は我々以外はほとんどおらず。撤退したテナントでガラガラとなったスペースは観葉植物で隠されていた。
富士ガリバー王国
富士ガリバー王国
(2001年7月25日、富士ガリバー王国にて)

ボブスレー体験ぐらいしか見るべきものもなく、売り物だったガリバーの巨大像も「ふうん」という感じ。
いくらオウムのイメージを払拭させようとしても、平成の時代そのものに憑りついてしまった「悪魔」など払拭できなかったろう。

すでにバブル経済の崩壊から10年近くが過ぎていた。もう何が「真理」で何がそうでないかなど、わからない時代だった。
ただし、ひとつ言えるのは「上九一色村」で「ガリバー」など集客につながるわけがないだろう、一体これを思いついた人は何を考えていたんだろうという疑問だった。

平成16年(2004年)3月18日、今のボーカル教室を立ち上げ僕は、巨大なガリバーに挑む小人のように戦いを始めた。
おかげ様で会社を潰す事もなかった。
平成25年(2013年)には、より広い場所へを社屋を移転させ、同じ時期に洋光台から別の場所へと引っ越した。

その9年の間、毎日毎日、上大岡へ原付で通勤を続けた。
それは何の変哲もない日常の生活なのだけど、時折思い出すのは坂本弁護士のことだった。
通り道からやや奥まった場所に、彼の一家が住むアパートがあったからだ。

平成元年(1989年)11月4日午前3時すぎ、オウムの連中は洋光台でもいささか寂しげな場所にある(当時)....神社の緑が生い茂った裏手....アパートに侵入し、1歳の赤ん坊を含む3人を殺害したのだった(あくまで犯人証言による。地元の人はあの場所で近隣にバレずにそうした犯罪が行われたことを信じてはいない)。そして翌年には笑顔を振りまきながら衆議院選挙に多数の候補者を立て、笑顔で手を振り続け、「しょーこーしょーこー」を歌い踊っていたのだ。

平成という時代を一言で言えば「真理などない時代」だったと思う。
「絶対」も「予定調和」もない時代だという事を嫌というほど体感させられた30年だった。昭和とはそこが違っていた。

その時代を葬り去る直前、「真理」を唱えていた連中の死刑執行が行われた。
まさに平成という時代を締めくくるのに象徴的な出来事だったと思う。

コメント

  1. 関内駅前で、例のショーコ、ショーコを歌っている連中がいたのを覚えています。なんて馬鹿な連中だと思ったことを覚えています。

    • spiduction66 より:

      >さすらい日乗様
      関内でもやっていたんですね。それこそ市役所のすぐそばで。
      しかも影では殺人も犯していたわけですね。
      僕はオウム事件って織田信長VS一向宗以来何百年ぶりに日本人の宗教観を揺るがした事件だったんだと思っています。

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