There is also a man

2007/10/7 日曜日

60年前の8月15日、
僕の父は疎開先の岡山の富田村(玉島)という場所で終戦を迎えた。
現在では新幹線新倉敷駅の裏手になる場所だが、
当時は高梁川の河口に広がる、のんびりとした田園地帯だった。
ここには祖父の実家があり、祖母の実家も近かった。
空襲などは対岸の火事で、およそ戦争とは縁のない場所だった。

僕の父方の祖父は新聞記者だったのだが、
およそデリカシーのない人だったのだろう。
外電で入手したさまざまな情報から、
ヒロシマで何がおきたかということも、
日本がもうすぐ負けるだろうということも、
電話などで平気で息子にしゃべっていた。

8月15日、ラジオから玉音放送が流れたとき、
父は柿の木の上に登って、それを聞いていた。
意味はわからなかったが、
あとで大人たちから戦争に負けたことを知った。
でも、祖父による予備知識のおかげで、
「来るべき時がきた」という感傷しかなかったそうだ。

そんな父には夏休みの宿題があった。
何かの軍事燃料として使うために、
山で集めた柴を学校に持ってくるというものだ。

結局父はそれをしなかった。
夏休みが終わって学校へ行った時、
先生にそれを詰問された。

そのとき、父は
「だって、もう負けたのだから必要ないでしょう」
と言った。

先生は、
「そうだな、もう必要ないもんな」
とニャっと笑って、それで済んだそうだ。

いっぽう僕の母方の祖父の話だが、
彼が遺してくれた日記がある。戦時中の分を読むと、
相次ぐ戦勝報道に対して素直に喜び、
サイパン島などの玉砕に悲しむ姿がある一方で、
実父の死に際して、書いたくだりがある。
「もう出世も地位も名誉も求めないで、
どこかの田舎で家族とのんびり過ごしたいものだ」

僕は戦争に関する教育の中で、
ヒステリックなステレオタイプの日本人像を
さんざん学ばされてきた世代だが、
ここに出てくる親族たちは、
およそかけ離れた物語の中にある。

しかし、これもまた事実なのだ。

There is also a man....